3
住み始めて五日も経ってくると、大分家のことが分かってきた。間取り、配置、室温、最寄りのスーパー、ゴミ出し日……。彼女のことは相変わらず謎だったが。
この五日間、俺は朝飯と晩飯に唐揚げを食べ続けた。彼女は紅茶以外、ほとんど何も口にしていない。たまに林檎をかじっている程度だ。このままだと死ぬんじゃないかと本気で思う。
彼女は俺の前では常に無表情だった。それを演じているのではなく、本当に何かが抜け落ちているようだ。その「何か」は、間違いなく、俺が奪ったものだった。
六日目の夜、相も変わらず割り箸で唐揚げとポテサラを食べている俺に、珍しく彼女が話しかけてきた。
「おいしいですか」
実際はこの六日間の成果で、唐揚げとポテサラに関してはプロレベルの代物を作れるようになっていた。しかし、殺人犯のくせに「飯がうまい」などと言っていいものかどうか。悩んでいる俺に、無表情のまま彼女は言った。
「嘘をつくのも、考えるのも、下手なようですね」
……これでは「美味いです」と言ったのと変わらない。実際、うまくできている。それでも彼女は、俺の料理に手を付けようとしなかった。箸すら手に持たない。何かを耐えるように両手を膝に置いたまま、まっすぐに俺を見つめている。
「あの人を殺したときの気分はどうでしたか」
あまりにもさらりと言われて、俺は唐揚げをまるごと一つ床に落とした。それを拾うことすらできない。彼女の目はまっすぐに、俺をとらえたままだ。
――下手に刺激したら殺される。そう思ったが、うまい言葉がでてこない。彼女の目も声もとても静かで、それがかえって怖かった。
「本当のことを言ってください。あの人とあなたは、大して接点もなかったはずです。そのような人間を殺すとき、どのような気分を抱くのですか。何度も執拗に刺し続けた理由は?」
「…………」
「警察や弁護士を通しての発言は、おおよそ把握しています。けれど、あなたの口から直接聞きたい。あの人を刺している時、あなたはどんな気分だったんですか」
今更、嘘をついたところで無駄だ。俺は割り箸を握りしめたまま、下を向いた。
「……気持ちよかった、です」
俺の本音を聞いても、彼女は激昂しなかった。泣きだしもしない。表情すら変えず、ふい、と目線を横にそらした。俺も同じ方向に目をやるが、その先には何もなかった。
「――言い方が悪くなりますが、夫は愚鈍でした。いきなり刺されて、抵抗することもろくにできなかったでしょう。刺されている時、夫は何と言っていましたか。助けて、ですか。それとも、痛い、ですか。……そのような相手を刺し続けることで、あなたが得たものは快楽ですか。それがたとえ一瞬の気分であったとしても」
責めるような言葉なのに、責めるような口調ではなかった。声が震えることもない。ただただ、感情もなく吐き続けられる言葉だった。何かを、確認しているような。
彼女はいつものように手つかずの料理を指さすと「下げてください」とだけ言った。その言葉の後ろに、「ラップをして冷蔵庫に入れて、明日の朝あなたが食べるように」というセリフがひっついていることは、もはや分かりきったことだった。
彼女は立ち上がると、いつものように電気ケトルに水を入れ、電源を入れた。用意される、ティーバッグとマグ。二つのミルク。相変わらず細い後ろ姿。
ケトルがこぽこぽと音を立て始めた頃、彼女が静かに言った。
「――死ねばいいのに」
……俺に向かって言ったセリフであることは、明らかだった。
はっきり言ってしまうと、男を刺している時、気分はよかった。けれど今は違う。冷静になっているし、反省もしている。
遺族であるこの女は、俺を殺しても俺のように罪には問われない。なのにどうして、殺そうとしないのか。
「……そう思うなら、殺してください」
思ったことをそのまま口にすると、薄い肩がぴくりと震えた。かちゃん、と小さな音を立てて、ケトルのスイッチが上がる。同時に、彼女がこちらを振り向いた。
彼女は相変わらずのっぺらぼうで、だというのに無表情ではなかった。そこには確実に何かが混ざっていて、なのにそれが何なのかは俺には分からない。彼女がこちらを見ていた数秒が、永遠のように長かった。
やがて彼女はケトルの方を向くと、マグに湯を入れ始めた。そのままの姿勢で、こちらを見ずに、
「不愉快です」
それだけを言うと、寝室へ引き上げていった。鍵を閉める音。それきり、静まり返る部屋。
俺はいつものように一人分の食器を洗い、一人分の食事を冷蔵庫にしまうと、ソファに寝そべった。
俺が作った料理を食べたくないのなら作らせなきゃいいし、俺の顔を見るのも嫌なら引き取らなきゃよかったし……死ねばいいと思うのなら何故殺さない?
訳が分からなかった。
「……疲れたな」
彼女がいないこともあって、思わず本音が漏れた。聞こえていないだろうかと、寝室のドアに目をやる。開く気配はなかった。
そのまま首を回して改めてリビングを見渡すと、色々な写真が飾られていた。旅行好きだったのか、どれもこれも名所で撮られている。国内旅行を楽しんでいたらしい。殺した男とはほとんど関わりがなかったため、なにが好きだったのかもよく知らなかった。立ち上がり、なんとなく気になった写真を手に取る。男がどこかのベンチに座って、弁当を食っている写真。彼女は写っていないので、もしかしたらこれは彼女が撮影したのかもしれない。
「……あ」
そうしてそこで俺はようやく、写真に写っている弁当の中身に、気付いた。
翌朝。十時を待って、俺は寝室の扉を叩いた。彼女は毎日、この時間には確実に起きている。
「雨宮さん、俺です。おはようございます」
――返事はない。俺はごくりとつばを飲み込んだ。何故か、酷く緊張していた。
「雨宮さん、朝飯ですけど」
相変わらず返事がないので、ドアに向かって一人で話すことにする。
「やっぱ、なんか食った方が良いと思います。……勝手にですけど、粥を作ってみました。卵、入れようか悩んだんですけど、アレルギーがあったらまずいと思って入れてません。塩は少な目に入れてるので、もしも味が薄かったら足してください。あと、リンゴも用意してます。食えそうなら食ってください。ドアの前に置いときます」
ここまで言っても、返事はなかった。眠ってるとは思えない。俺は下を向いた。
「……紅茶も淹れてます。いつものティーバッグで、ミルク二つ。砂糖は入れてません。せめてこれだけでも飲んでください」
静かな部屋に、俺の声だけが反響する。……駄目か。けれど、本当に訊きたいのはここからだ。俺は顔をあげた。
「雨宮さん。俺、買い物行ってきます。今日の晩飯ですけど……。『貴女が』食いたいものはなんですか?」
背後にある写真を見る。弁当を食っている男の写真。弁当の中身は――唐揚げとポテサラだった。
写真だけでは味は分からない。けれど、俺は知ってる。きっとその唐揚げにはマヨネーズの下味が付いていて、ポテサラには多めの胡椒と林檎が入っている。写真には写っていないけれど、もしかしたら味噌汁もあったかもしれない。それはきっと出汁がきいていて、玉ねぎが多めに入ってるんだ。
「雨宮さんの食いたいものは何ですか。知らない料理でも、俺、頑張って作りますから。……唐揚げとポテサラって、旦那さんの好きな食いものだったんですよね? 今まで気付かなくて本当にすみませんでした。俺、本当に何も知らなくて。あなたのことも、……旦那さんのことも」
何も知らなかった。それすら知らなかった。
俺は、本当に何も知らない人間を、殺した。
「食いたいものがあったら、食えるものがあったら、言ってください。……教えてください、お願いします」
知らなければならない。俺が殺した男の事はもちろん、遺族であるこの人のことも。
でなければ、きっと、なにも償えない。
部屋は相変わらず静まり返っていた。俺以外の誰も、いないような空間。溜息をひとつ落とす。「なにもなければ、唐揚げとポテサラ作ります」とだけ言って後ろを向いた時、ようやくひとつの料理名がドアの向こうからぽつりと聞こえてきた。
俺でも知っている料理だったが、彼女が好きだとは知らなかった。
「……間下。それからもうひとつ、買ってきてもらいたいものがあります」
買い物から戻ると、空になった器とマグがドアの前に置かれていた。
その日の夜、俺は久しぶりに、唐揚げとポテサラ以外の食べ物を口にした。
自分専用の、真新しい箸で。