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今から約五年前、殺人犯に対する法律が変わった。
それまでの法律では殺人犯は刑務所で服役することになっていたが、法が改正され、『被害者の遺族が、服役中の犯人の身元を引き受ける』ことができるようになったのである。
そして、もしも遺族が、恨みや憎しみからその犯人を殺してしまったとしても、罪に問われないようになった。
法が改正されてから、殺人犯は遺族の手によって次々と殺害された。残虐な殺し方をした犯人ほど、同じ手口で殺されるケースが圧倒的に多かった。それでも遺族は罪に問われず、むしろ人間として当たり前のことだとすら言われた。犯人は当然の報いを受けたまでだ、と誰もが口をそろえて言う時代。
そんな時代に、俺は、人間をひとり、殺した。
俺が殺したのは、さびれたコンビニの店長。三十六歳の肥満体の男だ。恐怖でろくに抵抗もできなかったそいつを、俺はナイフでめった刺しにした。刃物がするりと身体に食い込む感触も、どろりと流れ出た粘度の高い血液の感触も、はっきりと覚えている。初めての感覚に高揚すらしていた気がする。快楽殺人とまではいわないが、それに近かった。
相手にはなんの非もなかった。俺と被害者の間に関係性がある訳でもなかった。強いていうなら、コンビニ店員と、客というだけの関係性。ただそれだけだった。
事件のことははっきりと覚えているのに、裁判のことはあまりよく覚えていない。ただ、被害者の配偶者――妻である女が、「犯人の身元を私が引き受けます」と言ったときのことだけはよく覚えている。俺もめった刺しにされる、と思ったからだ。
人を殺しておいて、自分が殺されるのは嫌だった。しかもどう考えたって、楽な方法で殺してくれるとも思えなかった。
遺族である女は俺に一瞥をくれた後、裁判長に「私がこの男を殺しても、罪には問われないんですね?」と念入りに確認した。裁判長は同情のまなざしで頷き、その瞬間俺の人生は終わりを告げた。十九年。短い人生だった。
殺人犯は基本、遺族に身元を引き受けられたら何をしてもいい。働いてもいいし、趣味に没頭してもいい。ただし人権は保護されていないといっていいし、刑務所を出ても懲役が終わるまでは『服役中』とみなされる。『服役中』は就職口を探すのが極めて困難なため、就職先が決まるまでの生活費は服役中と同じく、税金で賄われるシステムになっている。
身元を引き受けられるその日、俺は手首にブレスレットを巻かれた。無論、それはお洒落などではない。俺の興奮状態を計測できる最新機器だ。もしも俺が他人に対して暴力的・残虐的思考を持った時は、ブレスレットの内側から毒針が出る仕組みになっている。つまり、「人を殺したい」とでも思えばその途端に死刑、毒殺されてしまうということだ。こうでもしなければ、身元を引き受ける遺族の安全を保障できないからである。遺族が犯人を怨恨で殺す際、犯人が抵抗できないようにするための措置でもあった。
このブレスレットは、遺族が望めば取り外される。が、俺の身元引受人は『取り付け』を要求したようだった。
「……お待たせ、しました」
拘置所にある一室で、俺を殺すために待ち構えていただろう女に声をかける。裁判の時は終始下を向いていたのでよく見ていなかったが、女は酷くやつれていた。目は落ちくぼんでいたし、頬はこけている。鎖骨は痛々しいくらいに浮き上がっていた。それが誰のせいかなんて、馬鹿な俺にだって、言われなくても分かる。
やつれてさえいなければ、美人の部類に入る女だ、と思った。少し、外国の血が入っているように思う。肌も髪も目の色も薄く、黒というよりも茶色に近かった。はっきりとした二重で、薄い唇は形が良い。俺が殺した男は正直に言ってしまうとパッとしない奴だったが、こんな美人と結婚していたのかと思うと意外だった。
女は俺の顔を見てから、手首に視線を落とした。見事なまでの無表情。笑顔で出迎えられるとは思っていなかったが、泣くか怒鳴るかされると思っていたのでこれまた意外だった。
「では、行きましょうか」
女はパイプ椅子から立ち上がると、すたすたと出口へ向かう。俺に背中を向けることに、なんのためらいもないらしかった。紺のカーディガンとデニムの後ろ姿を、俺は懸命に追う。肩の上で揺れている女の髪が、俺を笑っているように見えた。死刑台に向かう気分だ。足元がおぼつかない。
そんな俺の気配を察したのか、拘置所から一歩出るやいなや、女は足を止めた。そうして、こちらを振り向きもせず、前を向いたまま言った。
「……あなたのことは、資料で読みました。けれど、聴きたいことは山ほどあります」
凛と澄んだ、けれども何の感情も込められていない声だった。
「一八五番。人間を数字で呼ぶ趣味は、私にはありません。なので、あなたのことは間下と呼びます。――間下。私の名前は分かりますか」
「……雨宮、様、です」
「今後、私の事は雨宮さんと呼びなさい。呼び捨てにされて喜ぶ趣味も、様をつけられて喜ぶ趣味も、私にはありませんので」
そこまで言って、ようやく彼女はこちらを向いた。その目には色がなかった。
「間下。これからあなたには、私と生活を共にしてもらいます。私と共に生き、私の事をよく見ておきなさい。私から要求することはそれだけです。あとはあなたの好きにして構いません。……無論、あの人に対する償いはして頂きます。ただしその方法は、すべて自分で考えなさい」
俺は半ば呆然と、彼女の言葉を聞いた。今、女は何と言ったか。俺のことを殺すとは一言も言わなかった。むしろ、共に『生きろ』と言わなかっただろうか。
九月特有の生ぬるい風が吹いて、彼女の髪を揺らした。
――歩いているし、話している。なのに彼女はまるで、息をしていないようだった。俺を見つめたまま、ただじっとそこにいる。
「……何か不満でも」
女の言葉に、俺は首を振った。不満なんてあるはずがなかった。てっきり、殺されるとばかり思っていたのに。生きるとしても、奴隷のように働かされるのが当たり前だと思っていた。実際、そうやって生きている殺人犯は多い。なのにこの女は、俺の好きにしていいと言ったのだ。信じられない話だった。
信じられず、恐ろしく、「何故」と訊けなかった。
「それでは家に帰りましょうか」
それだけを言うと、女はまたもや俺を置いてすたすたと歩きだした。その細い肩を、俺はまた懸命に追う。
遠くで小さくセミが鳴きだした。きっと今年最後のセミだ、と思った。