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ドライバーズ・ライセンス

「アメリカに来たらまず、車を買わなきゃいけないよ」

一足先に留学していた友人は、アメリカから国際電話をかけてきてよくそう言っていた。

日本にいて何も知らなかった僕は、すっかりそれを信じて、自分がアメリカに着いて早々に留学先の英語学校のシルバー先生に、ドライバーズ・ライセンスを取りたいと言った。

車を運転するにはドライバーズ・ライセンス(運転免許証)がいる。

「ドライバーズ・ライセンスの試験は、試験場に行って20ドルぐらい払ってその場で申し込みめばすぐに受けることができるし、テストはマークシート、外国人だったら英語の辞書を持ち込んでもOK。そして答えが分からなければ、見回りの試験官にそれとなく意思表示すれば教えてくれるよ」

電話口の彼はそうも言った。

いかにアメリカといえど、そんなことが本当にあるのかと疑わしい話だけれど、僕がその話をどれぐらい信じたかといえば、ほとんど全部。100%だった。

「筆記試験が終わったら、次は実技試験。ただ実技試験に使う車は自分で持ち込まなければいけないので、車を持っている知り合いと一緒に行って、その車を借りて受けないといけない」

どうやらアメリカには日本の教習所のような施設がなく、実技試験も公道を使って行われるということだ。

僕には車を持っている知り合いもいないし、周りの日本人留学生も短期で来ている学生がほとんどなので、わざわざ車なんて買わない。

ぼくは、しかたがないので、実技試験用の車は現地調達することに決めた。

つまり、同じように実技試験を受けに来ている人に借りることにした。

自分たちが試験を受けるついでだから、頼めば貸してくれるんじゃないかという考えだ。

シルバー先生によると、ドライバーズ・ライセンスのオフィスはダウンタウンにあるということだった。

ダウンタウンとは下町、あるいは中心街ということだった。

では、とにかくダウンタウンに行こうということで、僕は英語学校に入学して3日目の授業が終わると、ランチもそこそこに鉛筆と英和辞典をカバンに入れて出かけた。

アメリカは何処に行くにも車を使うということだが、もちろん僕には車も無いし、頼めば乗せていってくれそうな友人もいない。

タクシーは呼ばないと来てくれないというし、もちろん電話で英語を使ってタクシーを呼ぶ自信なんかない。

なので、バスを使って行くことにした。

ただこれも、バスが走っているらしいが誰も乗ったという話は聞いたことがないというほど、一般的な交通手段ではなかった。

ただ、一人だけ中年の日本人男性(日本人のグループからは距離を置いている)がバスのことを知っていて、バス停の場所を教えてくれた。

僕は教えてもらったその場所に行って、バスを待った。

標識が一本たっているだけのバス停だった。

そこにはベンチもなく、時刻表も無かった。

とりあえず待っていると、しばらくして遠くにバスの姿が現れたので、慌ててここでバスを待ってますよというポーズを全身で表現した。

バスはどんどん近づいてきて、そして走り去った。

3回ほど同じことを繰り返して、それがスクールバスだということに僕はやっと気づいた。

よく見れば子供ばかり乗っているし、見た目も独特のバスだったからだ。

そういえば、ここでは歩いて通学する子供の姿を見ない。

そして、待ち始めてからもうすぐ1時間になろうかという時、今までとは違う見た目のバスがやって来た。

乗客も大人ばかりなので間違いはなさそうだが、今度はほんとうにこのバスに乗っていいのかどうかと不安になった。どこ行きなのかは表示を見ても分からない。

ただ、ダウンタウンの方向は何となく知っていたので、もし間違っていたら、バスを降りて乗り換えればいいやという気持ちで、僕は決意してバスに乗り込んだ。

バスが進むにつれ、外の景色は急速に変化しはじめた。広々としていた住宅の敷地はどんどん小さくなり。綺麗で可愛らしかった家はどんどん古くなっていった。

僕はいざとなれば歩いてでも引き返せるように、必死で道を覚えようとしたけれど、バスは右折と左折を繰り返していて、僕は帰り道のイメージを次第に失っていった。

ただ、窓の外の景色はさらに荒れてゆくので、ダウンタウンに近づいているということは感じられた。

時間にして20~30分。実際にはもっと長かったのかも知れないし、逆にもっと短か短かったのかも知れないが、それぐらいでダウンタウンに着いた。

僕はバスを降りて、道行く人につたない英語でドライバーズ・ライセンスのオフィスは何処かと尋ねた。

完全に無視する人もいたが、何人か目に訊いた一人の女性が、あそこじゃないかとシティホールの場所を教えてくれた。

しかし彼女の教えてくれたシティホールで訊くと、ここではないということだった。

そこの事務の人が言うには、ドライバーズ・ライセンスのオフィスはもっと離れた別の場所だということだった。

少なくとも僕の怪しい英語の理解の範囲ではそう聞こえた。

途方にくれていると、列に並んでいた一人の白人男性が、ちょうど今からそっちの方向へ行くので乗せていってやると言ってくれた。

もちろんこれも、僕の英語の理解の範囲ではということだが。

しかし、知らないアメリカ人と一緒に行って大丈夫か?

そんな疑問を抱くのが普通なのは分かっているが、その時の僕はこうだった。

全然、持たなかった。

逆に、こんなことも当然あるだろうと思った。

だって僕には、なんとかドライバーズ・ライセンスのオフィスにたどり着く、というストーリーがあるのだから。

その上、その白人男性は、どこから見ても人の良さそうな人にしか見えなかったのだ。

しかし、その男性のトラック(アメリカでは作業用のトラックを移動用にも使っている)の助手席に座り、初めてのダウンタウンからさらにまだ足を踏み入れたことのない方向へ走り出し、もうここはダウンタウンとは呼べるエリアではなさそうだというところにさしかかってしまうと、さすがにだんだんと不安になってきた。

話によるとドライバーズ・ライセンスのオフィスはダウンタウンにあるはずだったから。

周りは明らかに建物が少なくなり、トラックは廃線にも見える線路の脇を走りはじめた。

僕と彼は、本当に同じ認識を持って一緒にトラックに乗っているのか?

ドライバーズ・ライセンスのオフィスに行きたい僕のために、たまたま同じ方向へいくところだった彼が親切で彼のトラックにのせて連れていってくれているという共通認識だ。

僕は、ついに我慢ができなくなり、彼に「僕たちはドライバーズ・ライセンスのオフィスに向かっているんだよね」と言いかけた瞬間、彼がトラックを止めた。

「あそこが、そうだよ」

僕は彼の指差す方向にある建物を確認し、こう思った。

やっぱり僕の理解は間違っていなかった。

僕は、大きくうなずきながら彼を疑ったことを悟られないようにトラックを降りて、丁寧にお礼を言った。

彼は「ノープロブレム」と言って、あっけなく去っていた。

もう長くからアメリカへ来ている日本人の留学生たちの誰もが来たことがないこの場所に、僕は自力でたどり着いたんだと、急に誇らしい気持ちになった。

ましてやダウンタウンを経由して、森の中にある学校とは別世界のようなこの場所まで来たんだと。

しつこいようだが、ダウンタウンでさえも例の一人を除いては誰も行ったことがないのだと。

というか、みんなにはアメリカに来たらすぐに車を買えとそそのかすような友達がただいないだけかもしれないが。

ただ、意気揚々と訪れたその場所は、思いのほかガランとしていた。

入口の門も閉まっていた。

完全に休みのように見えた。

入口横のこんもりとした草が生えた場所に黒人男性が座っていて、僕に気づいて「ウェンズデー」と言った。

水曜だから休みだよと、言っているようだった。

僕は、そうだったのかというようなゼスチャーをして、彼の場所に少し歩み寄り、同じように草の上に腰を下ろした。

場所は分かったので、また来ればいいや。

僕はそう思い直した。

そしていかにも残念だという顔をして立ち上がり、彼に「グッバイ」と言った。

問題は帰り方だった。

ダウンタウンからここまでトラックに乗せてもらったので、この道をバスが通っているかどうかが分からなかった。

しかたなく、来た方向へ向かって歩き始めた。

時には走った。

来る時に見た線路の脇を過ぎてしばらくすると徐々にダウンタウンが見えてきた。

近づいてくるダウンタウンは、僕のロマンチシズムのせいか少し優しい場所に見えたような気がした。

しかし実際には、ここからが大変なのだ。

ダウンタウンは街の中心にあるので、遠くからでもビルが建っている中心を目指せばいずれたどり着けるが、郊外に抜ける場合は逆に放射状に広がっているので、道を一本間違うだけで迷ってしまう。

おまけに僕がダウンタウンで降りたバス停は一方通行の道なので、同じ道に反対方向行きのバス停がない。

ただひとりダウンタウンにきたことのある中年の日本人男性が言っていた「ダウンタウンはバスを降りる場所と乗る場所が違うから気をつけな」の意味はこれだったのだ。

帰るために逆方向のバスに乗ろうと思うと隣の通りにいって乗らないといけないが、隣の通りは左右両方にあるのでどっちと往復のセットになっているのか分からない。

もし間違った通りの方のバスに乗ってしまうと、放射状の道のせいでどんどんと正しい通りと距離が離れてしまう。

これで今日何回目の賭けだろうか。

僕は左の通りに賭けることにした。

もし道が違っていそうなら、早めに降りて乗り換えればいいやと思った。

バスを降りたくなったら、バスの窓の上にあるカーテンレールのような紐を引けばいいということを行きのバスのなかで他の乗客がしているのを見て分かっていた。

バスが出発してほどなくして、方向が違うことが分かって来た。

僕はカーテンレールを引いてみた。

ブザーが鳴って、しばらくすると次の停留所に着いた。

僕はバスを降りて通りを変えた。

このあたりまでくると、どの通りも一方通行ではなく、両方通行に戻っていた。

次の通りにもバス停があった。

もしこの通りで合っているのなら、このバス停も来る時に通り過ぎているはずだが、はっきりとした見覚えはなかった。

さらに、このあたりの雰囲気はダウンタウンとはまた別の荒廃感があった。

実際、僕がバスを待っていると、裸の拳銃を腰にぶら下げた男がやって来た。

僕は、彼がただのバスの乗客であることを祈るしかなかった。

次に、全員がプラスチックのボックスを手に下げた集団がやって来た。

誰ひとりしゃべるわけでもなく、笑顔を見せるわけでもなく、ただバスを待った。

果たして次に来るバスで、僕は学校に帰れるのだろうか。

時計の針は4時30分を過ぎていた。

いつもならそろそろ学校ではカフェテリアに向かう時間だ。

なぜ、みんなから離れて僕だけが個人行動を取って、一歩間違えば拳銃で撃たれてしまいかねないような状況に陥っていまっているのだろうかと後悔した。

そして、あと何回もバスを乗り換えて正しい方向を探すような時間も心の余裕もないように感じた。

やっとバスが来た。

拳銃男、プラスチックボックスの集団、そして僕の順にバスに乗り込んだ。

走り出したバスの窓から、僕は必死に外を観察した。

暗くなり始めた街路に、来るときに見たガソリンスタンドが見えた。

この道で合っていそうだなと、僕は思った。

外の景色に緑が増えてきたなと感じていると、学校の正門が見えた。

僕がカーテンレールのような紐を引くと、その先にあるバス停でバスが止まった。

僕はお金を払ってバスを降り、やっと一息ついた。

今日の話をどうやってみんなに伝えようか。

僕は、そんなことを考えながら、校門を入ると、寮の部屋には寄らず、そのままカフェテリアへ直行した。

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