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連作 やくたいない日常

作者: 朝上紅葉

【黄色いチョウチョ】

 ある秋の日の朝だった。夜半から降っていた雨はやんでアスファルトの道路をわずかばかり濡らしていた。

 外は気持ちの良い小春日和になっていた。私は、玄関先でタバコをぷかぷかと吹かしていた。ぽかぽかと暖かく何となく気だるい気持ちがした。

 我が家の向かいに住む初老の男性が犬の散歩に出かけるところなのだろう、犬に首輪かかけていた。犬は柴犬で首輪をかけられるのが嫌なのか、しきりに頭を振っていた。

「おはようございます」と私が言うと、初老の男性も「おはようございます」と互いに挨拶した。やがて犬に首輪をかけ終えた男性は、ペコリと私に会釈をして散歩に行ってしまった。

 私はタバコを『すう』と吸って吐いた。白い煙がモクモクと出た。その時である。黄色いチョウがひらひらと舞って、私の前に止まった。私に、わずかに、いたずら心が芽生えた。タバコの煙を吐きかけてやろうと。私は、タバコを吸って『ふう』とチョウに吐きかけた。

 しかし、チョウはその場を動こうとはしなかった。さらに同じ事をしたがチョウは頑としてその場を動こうとはしなかった。

 私は、自分のしていることが馬鹿らしくなってタバコを吸うことに専念した。時折、玄関先に置いた灰皿に、灰を落としながら、ぼんやりしていた。その間もチョウは私の前から動くことはなかった。タバコはずいぶん短くなっていて、根元の方まで燃えていた。

 私は灰皿にタバコを押し付けて消した。しばらく煙が立っていたがやがて空気中に消えていった。

 チョウは、まだ動かなかった。ここまで動かないとはどういうことかと思い、捕まえてみる事にした。

 そろりと背後から手を伸ばして羽をつかもうとするとチョウはヒラリと飛んで、小春日和の空に舞って行った。

 私は、少し残念な気持ちになった。タバコをもう一本出して、火をつけて再度ぷかぷかと吸い始めた。チョウは、もう来なかった。気持ちの良い小春日和の朝のことだった。


【雪の日】

 私の住む地域では珍しく、積もるほどの雪が降った。

 朝から降り続く雪で、私の住む家のささやかな庭にも白い雪化粧をしていた。

 時折、椿や木蓮の枝葉に積もった雪が、かさりと落下する音がする。静かな時間が流れる。雪が落ちる音とコチコチと時計の秒針が刻む音しかしない。

 私は、窓辺で庭を眺めながら、タバコをぷかぷか吹かしていた。ある時、庭の南天の木に小鳥がとまった。小鳥の重さで枝に積もった雪が落ちた。尾羽根を上下に動かす特徴から白鶺鴒だろうと思われた。

 鶺鴒は、南天になっている、小さくて赤い実をついばみ始め、赤い実をくちばしにくわ

えた。

 私は、タバコの灰を灰皿に落とし、気まぐれに口笛を吹いてみた。チチチと鳴く声を真似て短い間隔で吹いた。

 鶺鴒は、私の口笛を聞いてか、赤い実をくちばしでくわえたまま辺りをキョロキョロと見た。周りに仲間が居ないのに、不思議だなぁと思ったのかは解らないが、首を傾げるような仕草をした。その動作が愛らしく思った。やがて鶺鴒らしき小鳥は赤い実を飲み込み、飛び去っていった。

 寒い寒い冬のある朝の出来事であった。

 タバコを灰皿に押し付けて火を消して、窓を閉めて朝食をとる事にした。

 確かアジが冷蔵庫の中にあるはずだ。七輪で焼いて食べるとうまかろう。


【冬空の夕焼けとヒコーキ雲】

 国鉄の駅から出るともう夕方だった。冬という季節は他の季節よりも時間が早く過ぎる気がする。

 冬の空気は、特有のどんよりとした仄暗さがあった。黄昏時という時間帯のせいもあるのだろう。

 私は倦怠感を感じていた。自分という人間がとても瑣末に思えてならない。元々私は、人の多い場所は苦手だった。息苦しく、気が狂いそうになる。

 光の当たらない暗い部屋が好きだった。何も見えず、何も聞こえなければいいのにと思うことがしばしばあった。

 そんな私にとって、駅という空間は特に苦手な場所だ。様々な人が行き交い、耳障りな音を振りまいている。

 私は、地面を見ながら歩き出した。冷たい風が吹いて私の黒いコートを揺らした。

 下を見て歩いていると、ひび割れたアスファルトやタバコの吸殻や枯れた雑草が目に入る。そういったものが私を更に落ちこませた。

 世界は何でこんなにも居心地が悪いのだろう。今日何度目になるか解らない溜め息をついた。陰鬱な気持ちで歩を進める。

 通り過ぎる女子高生のけたたましい話し声や歩きながらタバコを吸うサラリーマンの煙の匂い、自動車の排気ガス。

 私はこの世界にそぐわないのだろうか?自分に価値などあるのだろうか?なお一層に暗い気持ちになっていく。

 そんな時、強い光が目に入り思わず目を閉じた。なんだろうと思い顔を上げた。

 すると眼前には、冬の寒々しい空を赤く赤く照らす夕焼けが広がっていた。その夕焼けを割くように白いヒコーキ雲が白線を描いていた。

 私は思わず「あぁ」と歓喜の声をもらした。それだけしか言えなかった。

 今まで私が見ていた空はこれ程に美しかっただろうか?夕焼けの赤はこれほど鮮やかだったろうか?

 赤い空を二分するヒコーキ雲はなぜこんなにも美しい直線なのだろう?

 今まで私が見てきた世界は一体なんだったのだろう?灰色の幕でも掛けられていたのだろうか?

 私は目を凝らす。目を凝らすと世界はこれ程に綺麗だったのか?私は知らなかった美しいと感じる気持ち。今までの私は倦怠感と陰鬱な気持ちしかなかった。

 今は冬だけれど、やがて春が来る。そうしたら寒い日も終わりあたたかくなっていくだろう。そうなればきっと色々と良くなっていくのだろうとそう思った。


【夜半の雨】

 夜半の雨は、はげしい音を立てて私を駆り立てる

 置き忘れた人生のように私の孤独を毟りとっていく

 時には、触れられない哲学のように

 時には、過去の誤りを思い出させる

 例えば十年後、或いは百年後。

 私は、心理の海に小舟を浮べてタバコをぷかぷかはいているのだろう。


【水無月】

 雨の季節になった。庭には薄い赤や青い色をした紫陽花が、雨に濡れながら咲いていた。その葉には、蝸牛がのっそりと這っていた。庭に出て蝸牛の角をつついたりした。

 私の住まいは築三十年の一軒家。時々雨漏りをするが長く住んでいると愛着が湧いてそんな不具合も許せるようになっている。

その庭で今日は、雨に濡れる事も厭わず、気まぐれに絵を描いていた。水彩絵の具の透明感が今日の雨には似合う。

 そんなことを思ってパレットに絵の具を出して、私は雨に濡れながら緩慢な動作で紫陽花を描いた。絵の出来栄えなどは視野に入れずに、自分の描きたい様に絵筆を動かした。

 忠実に描こうとは思わなかった。ただ今日の雨のようにぼんやりとした印象だけが欲しかった。

 絵筆を取っている時と詩や文章を書いている時にこそ私は生きているという実感が持てた。いつまでも描き、あるいは書き続けられるような気がする。言葉では言い表せられない達成感があるのだ。言語表現は私には荷が重い。私を他人が見ると、この絵の紫陽花のようににじんだ、薄らぼんやりした印象なのだろう。

 子供の頃から人付き合いが苦手で、お前の事はよく解らないと何度言われたことだろうか。

 人との交流を絶ってこの家に籠もって私はこれからどうすればいいのだろうか?


【初夏】

 答えは出ないまま、日がな絵筆を取る日が続いていた。雨の季節は終わり、私はまた一つ歳をとった。スケッチブックはもういっぱいになっていた。殆どが水彩画、わずかに鉛筆で書いた簡単なスケッチ。

 紫陽花が多かった。次に薔薇と百合。赤と白の対比。気の向くままこの文章も書いている。

 木々の緑は日に日に濃く生き生きとして、夏の気配を感じる。

 最近の私のテーマといえば、自分の存在価値というものだった。自らの価値。そんなものはあるのだろうか?

 例えばタバコ。四百十円で二十本。それがタバコの価値。今日買った単行本。千三百円。では、私は?答えは出ない。

 答えの出ないまま、少しずつ暑くなっていく季節を感じながら。私は答えを探している。


【塔の鐘】

 リン、ゴン、ベル。鐘は鳴る。

 歓喜、憎悪、悲哀、憤怒。そんな感情を乗せて鐘は鳴る。

 塔の頂点。私は昇る。

 リン、ゴン、ベル。鐘は鳴る。

 夜鳥は歌い夜を運び、夜は深ける。

今は暗く深い、ヴィリディアンの森の中。

 鐘の音を頼りに、私は塔を昇る。

 いつの日か、夜明けの鐘を鳴らすために。

 私は塔の階段を一歩、また一歩と昇っていくのだ。


【とるにたらぬこと】

 生きていると、ふと思うことがある。奇跡的に組み合った事象に気づく。

 例えば、人の出会いはその最たるものだろう。奇縁、良縁、悪縁あれどそれはもうすでに決まりごとのように横たわっている。

 世界にはこれほどの人間がいるのに、全く会うことなく一生を終える人が大多数で、恐ろしく正確に選ばれた人間だけと関わる。それは人の身ではみえぬ力が働いているとしか思えない。

 それが、家族であれ、友人であれ、恋人であれ、なぜこの人と? と思うこともあるのに出会う。それはもう奇跡だ。

 世界は奇跡の積み重ねで作られている。

 例えば、美しい文章を読んで美しいと思う事がある。それは詩であれ、小説であれ、随筆であれ優劣はない。では、美しさとはなにか? そもそも、美しいとする意味はあるのか?

 文章とは、人の書いたものだ。例えば、李白や杜甫の漢詩を読んで心動かされるとする。

その一方で全く何も思わない人もいる。この差は個々で美的感覚が違うからだろう。

 しかし、富士山を見て何も思わない人はいないのではないか? 桜の花を見て美しいと感じることもあるだろう。

 そもそも、自然の美しさの根底には人間の本質的なものが起因しているように思う。

 山は山としてあるだけであるし、花は花としてそこにある。そこには、美しいという基準は存在しない。ただ、人が勝手に感想を述べているだけだ。

 文章にしてもそうだ。言語に優劣がないように、元来文章とは、人が言葉に出来ないことを表す表現方法の一つに過ぎない。

 私のような、言語表現が得意ではない人間にとって、文章とは他人に自分を知ってもらうための最適な手段なのだ。

 文章に優劣はない。ただ、表現方法の妙がその人間が持ち合わせているかで、人は文章に優劣をつけるのだ。

 世界は奇跡でできている。その奇跡の一つに自分が置かれていることを現代人は少し思い返してみたらいいのではないかと思う。

自分が存在するには、いったい何人の先祖がいるのか考えてみて欲しい。十代遡るだけで少なくとも三千人だ。

 苦しみに満ちてなお、世界の不偏性にはなんの影響もない。

 経験則から、人間というものは絶望するために生きている。絶望したあと人間は死を望む。しかし、人間は案外たくましい。絶望してなお生きようとする。

 自殺する人としない人の違いは、些細なことだ。それは、真に頼れる人がいるか否かだ。

友人であれ、家族であれ、恋人であれ、信頼出来る人間がいれば、まず死なない。死を望んでも死なない。

 だれでもいい。信頼出来る人間を一人作るだけで人間は意外と生きていられる。そんないきものだ。

 信頼とは、人間の持ち得る数少なく、また最大の美点ではないだろうか?

 信頼は、時として愛よりも金銭より重い。信頼がなければ人は生きられないと言っても過言でない。

 もし、人間を作ったのが、かみさまだというのなら信頼というものを人に与えたのことだけが唯一の成功といっていいだろう。

 私は、信頼出来る友人がいる。それは、何よりも幸福で僥倖なことなのだ。

 それだけで、私の生きる意味はある。死なない理由になる。

 もしも、死にたいと思った時考えて欲しい。自分にとって何が、誰が信頼出来るのかを。

苦しみの中で、喘ぐ事はなによりも辛いけれど、自分にとって命よりも大切な信念があるのなら生きていられる。それだけは確実だ。

 私は、美しい文章を書きたいと思った。報いたい人がいるからだ。どれほど自分がくだらない人間であっても、生あるうちは、命数の尽きるその時まで美しい色鮮やかな文章を書くことのできるその時まで、誰かの心に届くことを願って書き続けたいのだ。

 それが、このくだらない人間のただ唯一できることであると信じている人がいるからだ。

ならば、書き続けよう。私を私として認めてくれるなら。それだけで生きている理由になる。

 絶望してもいい。ただ、人は死なないことが重要なのだ。そのことだけで十分生きる目的になる。

 死んだほうがいいなんて、命数尽きてから考えるべきことなのだ。せっかくの生なのだからどうすれば生きられるかを考えたほうが幾分か建設的であろう。

 悩み、惑い、苦しむことこそ、人生の本質なのであって、それを乗り越えた時の経験が何よりの宝であると私は思う。



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