ペリカンの頭をした狐
俺の名前は加藤。
木造のアパートに五年住んでいる。
水曜が可燃性のゴミを廃棄できる日だ。
そして隣の部屋に、ペリカンの頭をした狐がやって来たのも水曜日だった。
「コケコッコー」
夜中の2時に、けたたましい鳴き声がした。
とても眠かったので、俺は布団を頭まで被ってもう一度深い眠りに、
「コケコッコー!」
つくことができなかった。
明らかにうるさい鳴き声が、しかも俺の部屋をノックしている誰かがいる。
この物件の管理人は米寿を過ぎた老人である。
そして彼女のペットはウマとキリギリスだ。
だから、コケコッコーというのは辻褄が合わない。
明日の朝は早い。
出勤するのは午前四時だ。
なんてこった、ぱんなこった。
俺は仕方なく、冷蔵庫を開けて、あたかも空腹で目が覚めてしまった体を装ってプッチンするプリンを開封した。
甘い物を食べると元気が湧く、と昔から祖父に教えられてきたから、そのルーチーンに従う。
「おい、もう夜中やぞ」
力強く玄関のドアを開け放ち、俺は小声で叫んだ。
近所迷惑にはなりたくない、ただでさえ目の前の通学路を横切る子どもたちに、ボンバーヘッドと呼ばれているから、これ以上浮名を増やすわけにはいかない。
だから囁くように吠える。
「何時やと思ってんねん」
しかし驚いたことに、俺の目の前には向かいの建物の薄汚れた壁が一枚あるだけだった。
はて、どうしたものかと首を傾げると、何やら足元でわなわなと震えているものが視界によぎった。
「やや、これは」
成人男性の手のひらほどの胴体に、エアコンのような横長の頭をつけた奇妙な生き物が、あぐらをかいている。
「コケ」
間違いなく、この奇怪な生物が、俺の安眠を妨害したのだ。
「こら、コケってないで、名乗りなさい。俺は加藤だ」
俺は祖父から名前を互いに呼び合うことで、友だちを作れると教わってきた。だからそれに従う。
エアコンのような頭は真っ白だけど、通風孔に近い位置には黄色い平べったく厚みのある唇がついている。
そしてその生き物の身体はふさふさとした毛並みに覆われていて、身体中からノミがほとばしっていた。
「苔」
苔と名乗ったそいつは、ズカズカと部屋に上がり込み、冷蔵庫の側にある段ボール箱から、カップ麺を取り出して、電気ケトルを凝視し始めた。
「俺に沸かせと言うのか、ええ」
苔は微動だにせず、赤いパッケージのカップ麺を高々と額の上へと掲げているのであった。
俺は戸棚にしまっておいたキンチョールを、空になるまでそこら中に噴霧しながらも、お湯を沸かすことも忘れなかった。
なぜなら、祖父は人から頼まれたことは進んで実行していたから、その背中を見て育った俺も従わざるを得ないのだった。
ズビズビと音をたてて、カップ麺の汁だけを飲み干した苔は、ゲップかオナラか区別のつかないブヒーッという音を奏でて横になった。
このとき、苔のお尻にはふさふさの尻尾が生えていて、そこでようやく俺はペリカンの頭をした狐が最近この辺りで出没していることを思い出した。
エーアイの勃興期、データセンターが乱立し始めた近年から、パンクしたサーバーから湯気が出て、ペリカンが飛び立つ現象が確認された。
政府はこの混乱に手を拱いていたのだが、ある有名な大学教授が、この類いのペリカンには、同じ質量の狐を衝突させることで無害化することができると発表した。
ペリカンの糞に屋根をカラーリングされていた地域住民たちは、こぞってメルカリで狐の人形を買い漁った。
これが俗に言う第一次狐転売事件に発展するとは、大学教授ですら予想だにしていなかったとされる。
ヒドラジンに浸された人形たちは、ポポポポーンっと空中に発射されて、ペリカンたちに的確に激突した。
こうしてペリカンの頭をした狐が爆誕したわけだが、そのうちの一羽、いや、一匹がとうとう俺のアパートに潜り込んでくるとは、油断も隙もあったもんじゃない。
俺のベッドに伏している苔の胸が上下に揺れる度に、俺はダニを掃除機で吸う手を止めてはプリンの残りを頬張った。
法律では、ペリカンの頭をした狐は保護対象なので、役所に連れて行かねばならないが、その際には出勤を免れることができるので、午前四時が過ぎようとしていても、時計をぶん殴らなくて済んだことに安堵した。
ペリカンの頭をした狐は、動物園に集められたのちに、調教されて、その羽ばたきの速さを競わせる大会が開催される。
苔のオーナーになれば俺にインセンティブが付くから、あわよくばこれを機に仕事を辞めてもいいと考えている。
ただし俺は眠ることができない。
なぜなら、苔にベッドを占領されているからだけではない。
だってさ、ここで俺が寝て、ペリカンの頭をした狐がもしも夢だったなんて、誰も想像したくはないだろう?




