南天供養
最寄り駅から自宅へ向かう途中、五十メートル足らずの銀杏並木がある。
駅の周辺は区画整理の都合で、古い住宅地と新しい住宅地がパッチワークのように入り乱れている。昭和然とした木造家屋の隙間を縫って進んでいくと、突然道幅が広がって真新しい家並みが現れる。
銀杏並木はまあまあ古い住宅地――おそらくバブル絶頂期の建売住宅地だ――の真ん中を貫くように延びていた。公道ではなく共有の私道なのだろう、自動車一台通れるほどの幅しかない。
通りの左右に並んだ丈高い銀杏は、夏には心地好い緑陰を作り、秋には見事な金屏風となる。青空を背に輝く黄金色の並木道は壮観だが、路面を埋め尽くす銀杏の実には辟易してしまう。
冬間近のいまごろに至るとすっかり踏み潰され、風雨に洗い流された残り滓のような臭気がかすかに漂っている。
リモートワークが基本のわたしにとって、ごくたまに発生する出社日は地獄でしかない。立ちっぱなしの満員電車で棒になった両脚を引きずり、四歳の息子が待つ保育園を目指してひたすら歩く。
通勤時間の都合上、出社日はどうしても朝早く登園し夕方遅く降園することになってしまう。おかげで息子の機嫌は毎回最悪だ。
……今日は帰宅まで何十分かかるだろうか。
夕食を食べさせてお風呂に入れて寝かしつけるまで何時間費やせばいいのだろうか。諸々の後片付けと明日の支度を済ませて布団に潜りこめるのは何時だろうか。
考えるだけで憂鬱になる。出社用のパンプスはローヒールにもかかわらず、めったに履かないせいで脚に馴染まず痛くて仕方ない。
シングルマザーのわたしが心から頼れる味方は数少ない。実の両親ですら娘の幸せよりも世間体を重視し、いざ助けを求めようものなら「やっぱり浮気ぐらいで大騒ぎして離婚すべきじゃなかったんだ」とぐちぐち嫌味を言ってくるのだから。
ため息をついたらすべてに負けてしまいそうな気がして、口を引き結んで押し殺す。俯けていた視線を意地で持ち上げると、暗黄色の銀杏並木が夕闇に浮かび上がった。
わたしは思わず立ち竦んだ。
いつの間にか銀杏並木に足を踏み入れていたらしい。日が沈んで間もない空は仄明るく、それがいっそう銀杏並木をおどろおどろしい影に染めていた。
珍しいことに、通行人は見当たらない。
銀杏並木に街灯はない。通りの左右に並んだ家々の窓あかりが木立のむこうにちらちらと垣間見える。
公道に出れば街灯もあるし人もいるはずだ。さっさと通り抜けてしまおう。
痛みを堪えて足早に歩きだす。
パンプスの硬い靴音が夕闇に反響する。もうすぐ銀杏並木が終わるはずだ――予想地点を過ぎても、いっこうに暗黄色の木立は途切れない。
「え……?」
呆然と立ち止まる。
ざァ……と、寒々しい夕風に銀杏並木がざわめく。不安と恐怖が掻き立てられ、わたしは反射的に息を吸いこんだ。
前方と後方を目視する。夕闇に包まれた銀杏並木が果てしなく続いている。
一瞬迷い、再び歩きだす。
歩いても歩いても銀杏並木を抜けられない。体感時間で十分歩いたあたりで、わたしは途方に暮れて立ち尽くした。
「どうしよう……」
怪異に遭遇するのは、実ははじめてではない。
死んだ野良猫に情けをかけたせいで家に憑かれそうになったのは晩春のこと。
あのときは、とあるママ友の助力を得て窮地を脱せられたのだが、いまわたしはひとりきりだ。
――息子を迎えにいかなければならない。
なんとかしなければ。
前に進んでもだめなら、来た道を戻ってみたらどうだろう?
後ろを振り返ると、まったく明るさの変わらない夕空の下、銀杏並木がどこまでも延びている。
わたしは唾を飲み下した。
パンプスの爪先を反転させる。
……いや、戻ってはだめだ。
単純な直感だが、あくまで進まなければならないのだ。
わたしは常に前を向いて走り続けてきた。息子のために。自分のために。がむしゃらに突き進んできたからこそ息子を得て、不満も鬱屈もあるけれど親子ふたりの平穏を手にすることができた。
来た道を戻ったら、二度と息子の許へ帰れなくなってしまう。
あの子を心から抱きしめることができる資格を持つ人間は、まだわたししかいないのに。
「帰らなくちゃ」
呟く声は意外なほど冷静だった。
ブルルル、とボトムのポケットに入れたままのスマホが震えた。
心臓が口から飛びだしそうになった。慌ててスマホを確認すると、通信アプリに着信がある。
――ママ友からだ。
いまのわたしは、まさに地獄の底で天上から垂らされた蜘蛛の糸に縋りつくカンタダだった。引っ掻くように通話ボタンをタップする。
「もしもし? 急にごめんね。娘のお迎えにいったら時間を過ぎてもまだ来てないって先生に聞いて、ちょっと心配になって――」
「ううん、連絡してくれてありがとう。いま、困ったことになってて……助けてほしいの」
一瞬の沈黙を置き、ママ友はささやくように尋ねた。
「悪いものに捕まった?」
彼女独特の言い回しに妙な安心感を抱く。
ママ友は忌避すべき怪異を『悪いもの』と呼び、それを遠ざけ、身を隠す不思議な力を持っていた。彼女の父方の家系では、摩利支天信仰に基づく特殊な技能が代々伝えられてきたらしい。
「そう、たぶん……。駅からうちのほうへ向かう途中に銀杏並木があるでしょう? どんなに歩いても抜けだせなくて……」
「あそこかぁ」
ママ友は「うーん」と唸った。
「そんなに古い樹じゃないから、銀杏が化けたわけじゃないと思うけど……冬が近いから、餌を求めて町に下りてきた狐狸の仕業かな」
「どうすればいい?」
「そうだね……ああ、南天に力を貸してもらうのは?」
はたりと瞬く。
「南天?」
「そう、南天。銀杏並木より民家寄りに引っこんでるからわかりづらいけど、駅から反対方面に公道へ抜けるあたりに古い南天の樹が植えてあるの。区画整理で古い住宅は取り壊されて、樹だけ残されたような感じの」
ママ友によれば区画の端にひっそりと佇む南天はかなりの老木で、相応の力を持っているそうだ。
「昔から南天は魔除けや縁起物だって信じられてきたの。わざわざ樹だけ残したのも験を担いだんじゃないかな。そこの南天も、長いあいだ区画に住むひとたちの生活を見守ってきたんだと思う」
「ただの通行人でも助けてくれる?」
「樹は土に根づくものだから――同じ土地に暮らしてる宜って大きいよ」
そういうものかと納得してしまった。
悪いものがいればいいものもいる。今回は後者の協力で銀杏並木のループから脱出する作戦だ。
「悪い夢を見たら南天に話すといいって祖父が言っていたの」
折に触れて思い出話に登場するおじいさんは、ママ友以上に不思議な力を自在に操るひとだったという。
「悪夢の内容を南天に聞かせると、それをよいものに変えてくれるんだって。難を転じて福を招く存在だから」
「なんだか駄洒落みたい」
「験担ぎってだいたい駄洒落だよ。でも言霊信仰ってあなどれないものなの」
言霊の幸わう国――万葉集に登場する日本の美称だ。古来より言葉に霊妙が宿るとされてきたこの国で言い伝えられてきた南天の神通は、正しく求めれば絶大な効力を発揮する。
「『狐につままれる』って言うじゃない? 銀杏並木から抜けだせない、まさに狐につままれたような悪い夢を見てるんだって南天に話しかけてみて。うまくすれば狐の化けの皮を剥がしてくれるかも」
「――やってみる」
わたしの口元は自然と笑んでいた。南天の力を借りて狐狸妖怪と化かし合うなんて昔話みたいだ。
来た道へ背中を向ける。仄暗い銀杏並木のどこかにある南天へ語りかける。
「南天、南天」
ザ――……ッ、と夕風が銀杏並木を吹き抜けていった。
風が通り過ぎたあとには異様な静けさが残り、だれかがわたしの声に耳を澄ませているようだった。
「聞いてくれる? いやな夢を見たの。延々と続く銀杏並木から出られない夢。子どもがわたしの迎えを待ってるのに――あの子といっしょに家に帰れない」
脳裏に息子の顔が浮かんだ。いますぐ息子の許へ駆けつけて、力いっぱい抱きしめたい。
「ただの夢ならどんなにいいか」
静まり返った通りに呟きが落ちると、銀杏並木の奥にフッと赤い光が灯った。
とっさに息を呑む。
小さな火あかりを思わせる光は手招くようにゆらゆらと揺れている。
「どうしたの? 大丈夫?」
「火が」
ママ友の問いかけに、わたしは回らない口でもどかしく答えた。
「通りの先に、急に赤い火が出てきて」
「あ――南天燭」
ママ友の声調がはっきりと明るくなった。
「その火についていって。きっと南天の樹が助けてくれるから」
「わ、わかった」
瞬きのあいだに消えてしまいそうな光を目指して走りだす。
まるで行く手を阻むように激しく風が吹き荒れる。尋常でない量の銀杏の葉が乱れ舞い、視界を閉ざしていく。
無我夢中で光へ手を伸ばして叫んだ。
「南天! わたしを夢から醒まして――!」
ボッ、と短い着火音が聞こえた。
ひとひらの葉に火が点いた刹那、暗黄色のカーテンが一気に燃え上がった。
耳をつんざくような獣の叫び声。
真紅の炎はわたしに燃え移ることはなく銀杏の葉だけを焼き払う。炎のトンネルを走り抜けると、万力のような力で腕を引っ張られた。
前方につんのめってたたらを踏む。パンプスの踵が音高くアスファルトを打ち鳴らした。
ハッと顔を上げると、銀杏並木の終わりに立っていた。
あと数歩進めば公道だ。自転車や通行人が忙しなく通り過ぎていく。
わたしはそろそろと後方を振り返った。
空はすっかり暗くなり、宵闇に包まれた銀杏並木が五十メートルに満たない距離まで延びていた。自転車の白いライトが向こう側からゆっくりと近づいてくる。
その光を浴びて、悪夢から醒めたのだと理解した。
肺の中の空気をすべて押しだす勢いで息を吐く。
前方へ向き直ろうとして、ふと右手側に立つ銀杏の樹の陰に視線が留まった。
――暗がりで真っ赤な火が燃えている。
それは平屋建ての家屋を優に超える高さの南天の樹だった。太い幹は半ばでくの字に折れ、腰の曲がった老婆にも見える。
濃い緑の葉を茂らせた枝という枝には真紅の実が鈴生りになっていた。夜目にも鮮やかな赤い実に覆われた立ち姿は、さながら炎を纏っているかのよう。
ぽかんと呆けていると、南天の樹の後ろからゆうらりと灰白色の腕が伸びた。
異様に細長い腕は実をついた短い枝をひとつ折り、ひょいっと投げて寄越した。
反射的に受け取ると、ひらひらと手を振ってみせる。炎のトンネルを抜ける際、引っ張りだしてくれたのはあの腕なのだと気がついた。
花瓶に生けられるほどの長さの枝には実が房になって垂れ下がり、燭火のようにあかあかと足元を照らしている。土産に持っていけということだろうか。
「あの……助けてくださってありがとうございました」
お礼を伝えて頭を下げると、「気にするな」と笑うように腕が左右に揺れた。そのままするりと葉陰に消える。
わたしはしばらく南天の樹を見つめていたが、再度一礼して歩きだした。
あっさりと銀杏並木を抜けて公道に出る。緊張の糸が切れた途端、脱力感が押し寄せてきた。
膝から崩れ落ちそうになっているところを堪えていると、ずっと握りしめていたスマホからママ友の声が聞こえた。
「もしもし? 聞こえてたら返事をして!」
「もしもし、ごめんね。いま、無事に銀杏並木を抜けたところ……」
「ああっ、よかった! 電話から悲鳴みたいなものすごい声が聞こえたと思ったら、うんともすんとも言わなくなっちゃったから」
あの叫び声はママ友のスマホまで届いていたらしい。南天の火によって炙りだされた狐の叫喚だったのだろうか。
歩きながらママ友へ事の顛末を説明する。南天から渡された『土産』について説明すると、「敷地の鬼門に挿し木するといいよ」と教えてくれた。
「赤い実を火に見立てて『南天燭』って呼んだりもするの。それが却って火伏せのお守りになるって考えられてきたんだって」
「へえ……」
火事の多い冬場には頼もしい存在だ。帰ったらさっそく挿し木の方法を調べてみよう。
「あ――ごめん。そろそろ晩ご飯になるから電話を切らないと」
「ううん、こっちこそ最後まで付き合わせちゃってごめんね。本当にありがとう」
「気にしないで。困ったときはお互い様だから――じゃあ、また明日」
「うん、おやすみなさい」
通話を切ってスマホの画面を確認すると、お迎えの予定時間を大幅に過ぎていた。保育園に謝罪の連絡を入れなければ。
息子は大泣きして癇癪を起こすかもしれない。今日という日を終えるころにはくたくたになっていることだろう。
だが、平穏に朝を迎えて息子に「おはよう」と言える以上の幸せがほかにあるだろうか。
白く烟る息を吐いて夜空を仰ぐと、今年も冬の星が光り輝いていた。
年の瀬が間近に迫ったころ、銀杏並木のある住宅地に消防車が出動する騒ぎが起きた。
深夜の不審火――火は燃え広がる前に消し止められたものの、古くから住宅地を見守ってきた南天の老木が真っ黒に焼け落ちてしまったそうだ。
老木の根元からは火事に巻きこまれたらしき動物の焼死体が発見された。
消防に通報をした住民は、不審火を発見する直前に凄まじい動物の断末魔を聞いたという。
南天の老木が身を挺して住宅地を火事から守り抜いたのではないか――そんな信心めいた噂が流れてしばらく、有志の住民たちによって焼失した南天の供養が執り行われた。
かつて老木があった場所には小さな碑が置かれ、南天の若木が新たに植えられたそうだ。
「あの区画はこれからも火事とは無縁だろうね」
ママ友はしみじみと語った。
彼女のすすめでわが家の鬼門に挿し木をした南天の枝はすっかり根を張り、燃えるように真っ赤な実を絶やすことがない。息子は雪が降ったら雪うさぎを作るのだと、いまから意気込んでいる。
まっさらな白い雪に、真紅の実はさぞ映えることだろう。ニュース番組の天気予報を眺めながら、楽しみだねと息子と笑い合った。




