地下水路の亡霊
梅雨の季節、都市開発の陰で、僕、高橋は薄暗い地下水路にいた。老朽化したインフラの調査。それだけのはずだった。だが、この水路は、古くから忌まわしい噂が付き纏っていた。大昔、この地下水路で多くの作業員が原因不明の事故で命を落としたという。
コンクリートの壁はカビに覆われ、湿気が肌にまとわりつく。ヘッドライトの光が届く範囲だけが、かろうじて視界を確保してくれる。足元には常に冷たい水が流れ、その音が、閉鎖された空間に不気味に響き渡っていた。
調査は順調に進んでいるように見えた。だが、水路の奥へと進むにつれて、僕の神経は研ぎ澄まされていった。何かいる。そう直感が囁く。
最初は、ただの錯覚だと思った。水の流れが、人の声のように聞こえる。壁に映る自分の影が、まるで別の何かがそこにいるかのように見える。しかし、その感覚は、次第に明確なものへと変わっていった。
「タカハシ……」
背後から、微かな声が聞こえた。振り返っても、そこには暗闇が広がるだけだ。だが、確かに僕の名を呼んだ。水路の壁を這うように、濡れた足跡のようなものが点々と残されている。それは、僕の足跡ではない。
さらに奥へ進むと、水面が不自然に波打っていた。風もないのに、小さな波紋が次々と広がる。そして、その波紋の中心に、ぼんやりと白い顔が浮かび上がった。それは、水に溶けかけたような、ぼやけた輪郭の顔だった。目が、じっと僕を見つめている。
僕は、心臓が凍りつくのを感じた。これは、噂の亡霊なのか。
「助けて……」
その顔は、水中で泡立つように、かすかな声を上げた。その声は、苦しみに満ちており、僕の胸を締め付けた。逃げ出したい。だが、僕の足は、まるでコンクリートに固定されたかのように動かない。
亡霊の顔は、ゆっくりと僕に向かって近づいてくる。水面に映るその姿は、徐々に鮮明になり、やがて、苦痛に歪んだ男性の顔がはっきりと見えた。彼は、水底から僕に手を伸ばしている。その手は、青白く、まるで何かに縋るように震えていた。
僕は、恐怖に打ち震えながらも、なぜかその手から目が離せなかった。彼の瞳は、絶望と、何かを訴えかけるような感情で満たされている。
「お前も、ここに……」
亡霊の声が、直接脳に響いてきた。彼の手が、水面から突き出し、僕の足首を掴もうと迫る。僕は、間一髪でその手を避けた。
その瞬間、僕は逃げ出した。ライトも気にせず、ただひたすらに、来た道を戻る。背後からは、あの声が追ってくる。
「待ってくれ……私たちを、ここに置き去りにするのか……」
水路の出口が見えた時、僕は全力で走り出した。外の光が、どれほど眩しく感じられただろうか。僕は、息を切らしながら、地上に這い上がった。
だが、恐怖はそこで終わりではなかった。僕は、あの地下水路で、忘れかけていたある記憶を思い出したのだ。幼い頃、好奇心から、友達とこの水路に忍び込んだことがあった。その時、友達の一人が、水路の奥で、突然姿を消したのだ。僕は、恐ろしくなって逃げ帰った。そして、その出来事を、自分の記憶から消し去ろうとしていた。
あの亡霊は、もしかしたら、僕の忘れ去られた友達だったのかもしれない。
僕の足元には、水滴が滴り落ちていた。それは、地下水路の水だ。僕は、振り返る。あの地下水路は、今日も静かに、都市の下で流れ続けている。だが、僕は知っている。あの暗闇の中で、無数の魂が、永遠に僕を待っていることを。そして、いつか、僕もまた、あの冷たい水の中に引きずり込まれるのではないかと、静かな恐怖に身を震わせるのだった。