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華夏風韻 〜中華幻想七縁譚〜

返魂香

作者: 白玖黎


 すべてのきっかけは、やはりあの香だった。

 百薬よりもよく効くという、はなはだ珍妙な香木があるそうな。




 日輪が赫々(かくかく)と大地を照らし、木々が濃い蒼翠(そうすい)(したた)らせる小満(しょうまん)の候であった。

 その山岳(さんがく)だけが、現世から隔絶(かくぜつ)されたように深い迷霧に包まれていた。


 五里霧(ごりむ)よりもさらに濃い霧がなす天蓋(てんがい)は厚く、草花が日の目を見ることができなければ鳥獣が蒼穹(そうきゅう)(あお)ぐこともかなわない。

 本来ならばあらゆる生命が天地に満ち満ちる時節であるが、人里離れた山間からは色が消えていた。

 まるで蜘蛛の糸のようにべっとりとまとわりつく白霧に、不動の山河(さんが)だけが囚われている。


 もしも仙境(せんきょう)というものが実在するのならば、きっとこんな場所なのだろうと男は思った。

 ぬくもりの(こも)った(いおり)から眺めるせいか、小揺るぎすらしないその光景はいっそう現実離れしたように見える。

 時折雲霧(うんむ)の奥から聞こえる、雲雀(ひばり)の尾を引くような声が妙にはっきりと耳を打った。


 小ぢんまりとした薬房(やくぼう)を占領するのは、いくつかの薬棚に薬研(やげん)にすり鉢、薬草といった種々様々な生薬(しょうやく)

 中心に据えつけられた()には(まき)がくべられ、火がついたところからうっすらと煙が立ち上っている。

 ごりごりと生薬を薬研ですり砕けば、つんと鼻をつくにおいが紫煙(しえん)に溶けて広がった。


 初夏とはいえ朝日の届かぬ山中で、昨夜は冷たい雨が降り続けていたせいか空気はひんやりと肌に張りつくようだ。

 あばら屋の板間から駆け抜ける風はまさに凜冽(りんれつ)というにふさわしい。

 ぶるりと無意識のうちに身震いをし、近くにあった木片を炉に投げ入れると、あたりに立ちこめる煙霧(えんむ)がぼうと濃くなってゆく。


 そのとき、薬房に満ちる空気がふっと揺れた。

 扉が細く開き、音もなく身を滑りこませてきたのは小さな人影。


「旦那さま、お茶が入りましたよ。すこし息休めをしませんか?」


 顔を上げれば、この世で最も大切な(ひと)の微笑が目前にあった。


「ああ、ありがとう」


 転がっていた薬研と薬草を無造作に押しのけ、近くに座るよう促せば、新妻(にいづま)は隣にちょこんと腰を下ろす。


 各地を流浪(るろう)し薬を売り歩く男にとって、彼女は唯一の家族だった。

 夫婦となってまだまもないふたりだが、すでに何年も連れ添ってきたかのように互いの呼吸はよく馴染んでいる。

 差し出された茶器を受け取り、その太陽のような笑顔を見れば、心中でくすぶっていた苦悩も氷のようにとけてしまった。


 男はつい上機嫌になって語りかけた。


「お前の淹れる茶はいつもうまいね。おかげで今日も頑張(がんば)れそうだ」

「まあ、うれしいです」

「それにしても、今朝は早いね。もっとゆっくりしていてもよかったのに」

「そんな! 旦那さまが仕事に励まれているというのに、わたくしだけ寝ているわけにはいきませんわ」


 女はちらと上目遣いでこちらの顔色をうかがってから声をひそめた。


「……今日の薬は、売れそうですか?」


 返事の代わりに男が吐いたのはため息。

 ちょうど頭を抱えていたことを見破られてばつが悪かった。

 それ以上に愛する妻に(ふところ)の心配をされる己の不甲斐(ふがい)なさに心底呆れる。


 けれども、もう隠せなくなってしまったものはしかたがない。

 男は観念して重たい口を開いた。


「残念だけれど、薬が売れないのは相変わらずだろう。……最近知ったことだがね」


 かちゃりと湯気の立つ茶器を傾ければ、凪いだ水面(みなも)のような空気に波紋(はもん)が広がる。


(ちまた)で妙なものが出回っているらしい。死人の魂を再び現世に呼びよせる香――その名も、返魂香(はんごんこう)という」


 ぽちゃんと(しずく)を一滴落とすように静かにつぶやいてから、男は茶器の中身を一気に飲み干した。

 彼女が淹れる茶はいつも薄味で甘みがあるのが好ましい。

 そのどこまでもやさしい甘味を臓物に染み渡らせてもなお、腹の底から湧き上がる苦い思いがあった。


 今は戦火を避けてこの山中に留まっているが、男の商売はいわゆる行商である。

 各地の村や町へ出向いて病人や怪我人に薬を処方し、生活を営んでいるが、近頃はどこへ薬を売りに訪れても軟膏(なんこう)ひとつですら売れやしない。

 男の薬がよくないと言えばそれまでだが、実のところはそうではないと知っていた。


 施薬(せやく)を断る人々が口をそろえて言うことには、どんな薬よりもたやすく苦しみから解放してくれるめずらしい香があるだと。

 なんでも、その香を()けば立ちのぼる煙のなかに死んだはずの人間の姿が見えるらしい。


「まあ、それは」

「馬鹿げた話だろう?」


 そんなものが一度広まれば、どうなってしまうのかは想像に(かた)くない。

 たとえ死んでもまた会うことができるから、と。

 人々はどんなに重い病や怪我も軽んじるようになり、やがて死をも恐れなくなった。


「阿呆なやつらだ。例え返魂香なるものがあったとしても、そんなものではその場しのぎに過ぎないとわかっているだろうに」


 見果てぬ夢はあれど、終わらぬ虚構はない。

 すべての事象はいつか必ず泡沫(うたかた)のごとく消えてしまう。

 仮にそうだとわかっていたとしても、たなびく紫煙(しえん)が生み出すひとときの幻想に、人は魂を奪われたように魅せられるのだからまったく()(がた)い。


 おかげで薬師(くすし)の仕事はなくなり、男の生活は日を追うごとに苦しくなるばかり。

 各地に負傷した兵が多く(かつ)ぎこまれる戦乱の時期は(かせ)ぎどきだというのに、現状はお先真っ暗である。


 かの香が流通する以前、男は薬師としてそれなりの額を稼いでいた。

 生活に困ることなどなかったし、たまに少し贅沢をするくらいならなんともなかった。


 隣で健気に自分を支えようとしてくれる小さな背中を見る。

 両親はおろか、血縁と呼べる者もいない。そんな天涯孤独の男を彼女は受け入れてくれた。

 根無し草の男にとって、彼女のもとだけが居場所であり、帰る場所だったのだ。


 だからこそ妻には、何不自由ない暮らしをさせてやりたい。

 前のように新しい着物や紅が買えたと無邪気に喜んでいた彼女の姿を見てみたい、と密かに思う。

 愛する女のためならば、男はなんだってできた。


 思い立ったようにすっくと立ち上がり、薬草を入れた竹籠(たけかご)を背負って手ごろな木片に火をつける。


「今日は(ふもと)(さと)まで薬を売りに行ってみよう。たまには一緒に散歩にでも行こうか」


 ふり向いて声をかければ、女の笑顔がぱっと花が(ほころ)ぶように咲いた。


 ◆ ◇ ◆


 日が昇り一度は引いたと思われた濃霧も、斜陽(しゃよう)がさしかかるころになれば、さらなる暗霧となって再び一帯を覆い尽くす。

 たいまつの光がなければ一寸(いっすん)先すら見えず、光源があってもなお道なき道を進むには心もとない。

 逢魔時(おうまがとき)のこの場所は、いつにもまして怪異でも出てきそうな様相を(てい)している。


 男は(ただよ)妖気(ようき)に引きつけられるがごとく、おぼつかない足取りで仙境(せんきょう)の奥へ進んでいった。

 男の格好は(いおり)を出たときとほとんど変わらなかった。


 たいまつ代わりの木片を片手に、薬草のめいっぱいつめこまれた竹籠(たけかご)を背負っている。

 そして、背後にはやはりあの女の姿が。


 木片から散る火の粉が揺らげば、周囲の山河(さんが)も女の姿も呼応(こおう)するようにゆらりとたゆたう。

 まるで巨大なゆりかごに揺られているような気分だ。

 男はこの深い霧の世界が、木片から絶え間なく立ちのぼる煙でできているのではないかと疑った。


 さらに奥へと足を踏み入れようとしたそのとき、ふと迷霧が晴れた。

 かと思えばびゅうとひときわ強い風が吹き、たいまつの火がかき消される。


 迂闊(うかつ)だった。

 慌てて火をつけようと試みるが、そうするまでもなかった。


 眼前に蔓延(はびこ)る暗闇のなか、ぼんやりとつぼみのように光がふくれ上がっている。

 目を凝らしてみれば、その淡い光をなすのはひとつひとつの小さな木の葉だった。

 色のない山岳のなか、唯一その大樹だけが暴力的なまでに鮮やかな緑葉をつけている。


「ああ、旦那さま。今日は直接、会いにきてくださるなんてうれしいです。また薬が売れなかったのですね?」


 気づけば、背後の女の姿は消えていた。

 その代わりに、人を惑わすような甘い香りがふわりと全身をかけめぐってゆく。


「ああ、今日もひとつも売れなかったよ」


 男は微塵(みじん)動揺(どうよう)することなく大樹に歩みよると、愛おしげにその幹をなでた。


「だから、お前の枝を少しだけ貸しておくれ」


 それから、地面に落ちた枝をひとつずつ拾い集めていく。


 それは()けば死者の魂を呼びよせることができるという珍妙な香木。

 いったいどれほどの人々がこの香に魅せられ、狂わされていくのだろうか。

 男のように亡き者への未練を断ち切れずにいる人々が、世のなかにはまだ多くいる。


「本当に阿呆なやつだ。こんなものではその場しのぎに過ぎないと、わかっているだろうに」


 ぽつりとこぼれ出た言葉は、返魂香(はんごんこう)に狂わされた人々か、はたまた自分に向けられたものだろうか。

 すべてのきっかけはやはりこの香だった。


 かつてこの場所には小さな山間の村が存在していた。

 そこへ流浪(るろう)の旅を続けていた新婚の夫婦が立ちより、戦乱が終わるまでのあいだだけ村に留まることになった。

 しかし男が薬草を採りに山を出ているとき、ついに戦火が飛び移り、一夜にして一帯は焼け野原になってしまった。


 すべてを失った男は、やがて唯一その場に残ったこの返魂樹(はんごんじゅ)に魂を奪われてしまったのだ。


「ええ、ええ。わたくしのものは、すべてあなたのものです。自由にお使いくださいな」


 甘くやわらかな香気に導かれ、うららかな幻覚に酔う。


「その代わりに。こんな姿に成り果ててしまったわたくしから、どうか、どうか、離れないでください。置いていかないでください」


 悲痛な叫びが脳裏に響くと同時に、すすり泣くように大樹の枝が震えた。

 男は愛する(ひと)に語りかけるときのように、どこまでも優しい色を声に含んで言う。


「たとえどんな姿になろうとも、お前はお前だ。心配しなくとも、これからはこの山を離れることはあるまいよ」


 もう二度とともに旅をすることはできないが、もし彼女が望むのならそれでもいいと思えた。


「ふふっ、うれしい。それでは、今度こそ永遠にわたくしのそばにいてくださいませ」


 花のように散りゆく葉が、心底愉快(ゆかい)そうにかさかさと音を立てた。


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