夏休みあけ
夏休みが終わるころに、メブの母親がかえってきた。この街ではすでに噂になっていた。子を捨てた親が帰ってくるなど、ろくなことにはならない。街の人々は、なにやら下衆な好奇心を燃やしてメブの家族を観察していた。
次第にメブは元気がなくなっていた。口数も少なくなった。
その原因は身軽すぎる天使のせいにほかならなかった。いちど母親に裏切られた彼女の気持ちを僕にはかることはできなかった。僕は見守ることしかできなかった。
海はほとんど人がいなかった。我々は手を繋いで学校から帰っていた。バスケットコートをとおりすぎると、どこからか工事の金属音がきこえてくる。
「ひさしぶりに気分がいいわ。家にいると拷問のように苦しいの」と彼女は言った。
しばらく歩くと、煙草屋兼駄菓子屋がある。我々はそこでソーダーアイスをふたつ買って、ちかくの堤防に並んですわった。静かな海からふいてくる潮風が気持ちよかった。
「これからはたくさん勉強するの。ずいぶんお金も溜まったし」彼女は髪を耳にかけた。「どんな辛抱だってするつもり。あの人がね、あんたなんか生まなければよかった、正真正銘の娼婦、典型的な娼婦なんていわれたとしてもへっちゃらなの。私は勉強してこの街をでていくだけ」
僕は彼女の顔を見つめた。目もとにクマができていた。
「そんな心配そうにしないで。へっちゃらなの、おばあちゃんがいつも慰めてくれるし。私の意見も、おばあちゃんは賛成してくれているのよ。自分は足も不自由で寂しいはずなのに」
「いいおばあちゃんだね」
「そうね。私が好きなのは四人だけ。K君、ナナさん、おばあちゃんにあなた。たった四人だけど、かけがえのない人達よ」
「期待を裏切らないようにがんばるよ」と僕は言った。
「一年だけ早く、あっちで待っているよ」
「気がはやいな。もう受かった気でいる。もしかしたらおなじ年に大学生になるかもしれないぜ」
「もう、うるさいな」と彼女は僕の肩をこづいた。
それから我々は、まるで不吉なものを洗い落とすかのように笑った。
幽霊のようにあらわれたメブの母親は、我々には脅威のなにものでもなかった。幸福にむかって歩きだした彼女の前に、母親があらわれるだけで不幸への未練を想起させるおそれがあった。もちろん、僕がいまここでそのことを彼女に伝えても、彼女は笑ってとりあってくれないだろう。
ときに不幸とは居心地がよく、幸福にむかって歩きだす勇気を飲みこむ力がある。心にもないことを行動にうつしてしまうのが人間だ。しかし、僕としてはそんな人間の悲劇よりも、彼女のすすみだした一歩を止めてほしくはないのだ。しかし、僕には彼女を勇気づける力など持ちあわせていなかった。
僕は唇をかんだ。なにもできない自分が腹立たしかった。僕の恋は憧れから始まったものであったが、いまは全然ちがうものであった。それは僕たちが抱えている共通の問題が原因なのか、彼女自身の問題が関係しているのかはわからない。そんなことはたいした問題ではない。ただ僕は、元気のない彼女の姿などみたくはなかった。これは僕のわがままかもしれない。
「私のこといつまでも好きでいてくれる」と彼女は言った。
「もちろん、ずっと好きさ」
「嘘でも嬉しいわ」彼女は、はにかんだ表情をつくった。
波の音がきこえてくる。夕陽は目線の高さまできて、弱い僕とは対照的に赤々と光をはなっている。
「こんど三人で旅行にでもいこう」僕はとっさに口にだした。
彼女は僕の顔を不思議そうにみつめていた。インドアの人間が旅行の話をきりだしたらそうなってもしかたがない。僕はきょとんとした彼女の顔をみていた。
「どこにいくの?」
「鎌倉はどう」
「サイトウ君にしてはいい提案だね。気分転換にはちょうどいいかも」と彼女は伸びをした。「最近つらいことばかりだから」
「なにか力になれることがあれば言ってほしい」
「ありがとう、でも大丈夫よ」と彼女は微笑んだ。
きっと彼女が僕を頼ることはない。メブはつよい女性であった。それに比べて僕はあまりにも頼り甲斐がない。K兄さんならきっと彼女の力になれたのだろう。しかし、僕はK兄さんではない。僕は彼女を陰から見守ることしかできなかった。
夕陽が水平線のむこうに沈んでいった。あたりが急に暗くなって、街頭がちらほらつきはじめた。メブは立ちあがって「そろそろ帰りましょうか」と言った。
別れ際になると彼女は「またね」と小さく手をあげた。僕もおなじように彼女の動作を真似た。僕は彼女の後ろ姿を眺めていた。それは弱々しくいつもより小さく見えた。
メブがレイモンド・チャンドラーの読者かどうかわからないが、我々は頑なにサヨナラを言わなかった。サヨナラを言うことはわずかのあいだ死ぬことだと、フィリップマーロウは言った。