ものがたり
ゴリガキにK兄さんが現れることはなかった。彼の死をひとつの秩序として受けいれなければならなかった。それは、K兄さんが遠くにいってしまったと我々に感じさせるだけであった。K兄さんがいた世界は永久に閉ざされてしまったのだ。
誰かの死をもってひとつの物語が終わることがある。K兄さんの死は我々のみていた地図を大きく変えてしまった。それでも、出口が新しい入り口となって、また新たな物語が生まれてくる。そうして、さまざまな物語と出会い別れ、我々の運命は広がっていく。これからも、つぎからも。
暑い日がつづいていて、台風がちらほらできはじめていた。僕は駅前の本屋にむかっていた。円柱のビルをぬけて、いくつかのショーウィンドウを通りすぎる。ちかくに古びた法律事務所があって、僕はそこでナナさんを見つけた。
彼女は金髪の男となにか言い争っていた。その光景を遠目からみていたが、金髪の男がナナさんに平手打ちをした。彼女は地面に倒れこんだ。僕はいそいでナナさんのもとにむかった。
「この淫売が」と男は捨て台詞をはいて、その場から逃げるように去っていった。
ナナさんはうなだれたまま動かなかった。
「大丈夫ですか」と僕は言った。
ナナさんの手にはかすり傷ができていた。手をついたときに怪我をしたのだろう。指先はかすかに震えていた。しかし、彼女は金髪の男が去った道を睨みつけていた。その眼は、ナナさんの綺麗な薄茶色の目を、ライオンのような獰猛なものに変えていた。
ナナさんは僕に気がつくと、ちいさなため息をついた。
「サイトウ君じゃないか。格好わるいところをみられてしまった」
僕はちかくに転がってあったバックと、その中身を拾いあつめた。ナナさんはまだ立てずにいた。
「手をかしてくれないか」とナナさんは言った。僕は手をかした。
彼女は立ちあがると、乱れた服装をなおした。それから僕に礼を言った。
彼女の瞳は、もう品性のあるものに変わっていた。
「ちょうど君に話したいことがある。時間はあるかい」とナナさんは言った。
メブのことで、また説教や文句を言われるのは気がすすまなかったがナナさんを放っておくわけにもいかず、僕はちいさく頷いた。
我々はあの喫茶店にむかった。
カウンターの席にはカップルがすわっていた。カウンターのなかで、細い目をした大柄な男がグラスを磨いている。我々は窓がわの席にすわった。それからアイスコーヒーをふたつ注文して、ナナさんは煙草に火をつけた。テーブルにアイスコーヒーが運ばれてきた。
「あの男となにがあったんです」と僕は言った。
彼女はふんわりと煙をはいた。
「すこし脅しただけさ。もうメブにちかづくなってね。そしたら手をだしてきた、胆のちいさい男だ」
「あんな野蛮人とかかわったら危ないですよ」
ナナさんは灰皿で火を消し、アイスコーヒーを飲んだ。
「そうだね、すごく怖かったよ。がらにもないことをした。でも、メブが困っていた」
「なにがあったんです」
「あの男に別れをきりだしたら殴られた。あの男はメブを諦めきれなくてつきまとっている。おまけに彼女に手をだした。こんなことがあれば、君だって彼をゆるさないだろう?」
「ええ、もちろんです」と僕は答えた。
ナナさんは大事な仕事を終えたあとのように笑った。僕は彼女の強さに感心した。
「ところで、君たちはまたゴリガキに行ったようだね」
僕は彼女の顔をじっと観察した。すんだ薄茶色の瞳に、小さな歯が行儀よく並んでいる。
「メブからきいたんですか。それともつけていたんですか」
「彼女からきいた」
「いちいち報告する習慣でもあるんですか」
「まあ、そんなところだね。それに、私たちは元恋人どうしだからね」
「じゃあ、僕とは恋敵だ」
「そういうことになるね。ちなみに私はK君ともつきあったことがある。君とはじつに趣味があいそうだ」と彼女は笑って言った。
「冗談でしょう」
「ほんとうさ」と彼女は窓の外をながめた。その眼には笑いはなく、思いでのなかに浸っているような横顔であった。
「K兄さんとナナさんじゃ年が離れすぎていますよ。それにK兄さんが中学生ぐらいじゃ」
「もちろん君は疑問を口にする権利がある。私が子供に恋をした変態に見えるかもしれない」
「愛していたのですか」
「わからない。キスもしていないし、手もつながなかった」
「それって、つきあっています?」
「でもK君に告白されたし、私も彼が好きだったよ。自分の病気とむきあってことあるごとに強くなって、生きようとしている彼を尊敬していた」
ナナさん親しみをこめたように僕に説明した。僕はコーヒーを飲んで、自分がどうしようもなく子供であるような感じがした。そうして、この勇敢な恋敵がメブのちかくにいるのを感謝したくなった。
「私たちは、きっといい友達になれる」とナナさんは言った。
「そうですね。僕も同感です」
我々は互いに笑いあった。それから、ナナさんは煙草に火をつけて、僕はぼんやり窓の外を眺めていた。