ナナさん2
外には傘をさした人がちらほらあらわれ、雨やみを待っている人もいた。窓のガラスには水滴がついていた。そうおもうと、ポツポツと雨の音が集まってきた。建物の屋根には暗い雲がどこまでも重くのしかかっている。
「つまり、君はたのみをきいてくれないわけだ」そう言って彼女は二本目の煙草に火をつけた。
「だいたい、あなたとメブが恋人であったというのが信じられない。年もうえだし、同性じゃありませんか」
「肉体なんて即物的なものだよ」彼女は煙草を咥えたまま言った。「健康的な人間ならそれだけで恋ができるだろうが、精神が健康な恋なんてつまらないものだよ」
「それがほんとうだったとしても、あなたの願いはきけません。申し訳ありませんが」
「いや、謝る必要なんてないさ。でも君は覚悟しておいたほうがいい」
「僕がおもうに、彼女は普通のひとです。それにK兄さんを失ったのは、僕だっておなじです。彼がいなくなって苦しかったし、自殺の理由をさぐったりしました」
「だから、彼女に寄り添える。その資格があると」ナナさんは書類の山をみるような目で僕をみていた。それから、煙をはいた。
「私が言いたいのは、彼女とわかりあえるという希望はもたないほうがいいということだ。そうすれば、君たちの関係は長続きするだろうし、互いに傷つけあわずにすむ」
「言っている意味がわかりません」
「若いね」と笑って、彼女は灰皿に煙草をすてた。それから、「今日は金曜日だな」とつぶやいた。
雨がつよくなって、窓越しの景色がみえにくくなっていった。通行中のサラリーマンのむこうに、ビニール傘をさしたメブが立っていた。緑のワンピースに茶色のベルトをしている。彼女に金髪の男がちかづいてきた。黒のシャツにネックレス、タイトなジーンズの格好で逞しい身体をしていた。ナンパなのかとおもったが、彼女となにやら話している。それから、彼女はその男と一緒に歩きだした。
「でようか。でなきゃ、見逃しちゃうよ」と彼女は言った。
ナナさんの顔をちらとみると、能面のように無表情であった。
なるべく距離をとって、メブと金髪の男を追いかけていた。古本屋をぬけて商店街にはいる。洋品店のショーウィンドウがみえてくる。地面には規則正しい間隔で石畳が敷かれていた。人通りがあり、気づかれる心配はなかった。自然と僕の足は早くなった。
「最近はあの男と遊んでいる。おや、君とは正反対だね」とナナさんは言った。「監視もある意味、私たちの仕事でね。あの男はブランドものをよく身につけているよ。まだ三十くらいだが、肌が黒いし金髪。おそらく、どこかの土建屋の社長かその息子といったとこらかな」
僕にはナナさんの話しなど耳にはいっていなかった。あの軽薄そうな笑顔と、品性の欠片もかんじさせない男は、K兄さんとまるでちがっていた。僕はK兄さんにたいする侮辱を感じざるをえなかった。
「おい、ちかづきすぎだよ」とナナさんは僕の手を握った。僕の足が止まった。
メブと金髪の男は道を曲がって、商店街からでていった。
「ここから人通りがすくなくなる。もうすこし距離をとったほうがいい」
僕はちいさく頷いた。
しばらく歩くと線路沿いのゆるやかな坂道になった。我々はその道をすすみながら、ときどき建物の影に隠れたりしていた。その坂道を登りきったあとに、趣味の悪いホテルがあった。メブと金髪の男はそこにはいっていった。
僕は感情にまかせてそのままホテルへはいろうとしたが、ナナさんが腕をつかんではなさなかった。
「冷静になりな、君がいってもなにも変わりはしない」
「どうして、あんたは平気なんだ」僕は彼女を睨んだ。
「平気なんかじゃないさ」ナナさんの手はふるえていた。どこかで救急車のサイレンがきこえてきた。「早めに、彼女のことを知っておいてほしかった。K君が死んでから彼女の行動はひどくなるばかりだ。表情も暗くなっていくだけ。でも、きみの話をするメブは、どこか嬉しそうだったんだ」
雨足が街を白く染めながら、すさまじい早さで降ってきた。
「でもこんなことで取り乱している臆病者じゃ長続きなんてしないな。私の見込みちがいだった。互いに傷つけあって痕跡を残すまえに、身をひいたほうがいい。まだ君は、なにかを愛するには幼すぎる」ナナさんは呆れたふうに言って、雨のなかに消えていった。
僕はその場に立ちすくんだまま、雨の音を感じていた。