ナナさん
メブは小学生のころにこの街に越してきた。都会からきた彼女は、すぐに海辺の街の人間の心をつかんだ。だれもが、夕焼けの海辺で彼女の髪がなびく姿から目をはなすことができなかった。すぐに彼女のことは噂になった。母親が離婚してこの街に帰ったこと、その母親は子供をメブの祖母にあずけると、すぐ街をでてどこかにいってしまっこと、メブが異常に喋らないこと。このような話が我々のあいだですぐにひろまった。
それでも彼女はモテた。いや、それゆえにモテたのかもしれない。口うるさい母親がいない美人を、中学になるサルがほうっておくわけがなかった。彼女の交際は奔放であった。二股がばれて、男をうばわれた女がメブの家にのりこむこともあった。それでも彼女は平然としていた。まるで傷つくことなど怖くないといったふうに。
しだいに彼女のまわりから人がいなくなった。一時期は、年上の怪しそうな金髪の男とつきあっている噂があったが、彼女がK兄さんと親密であることが知られると、噂のほうがデマであるとみなが不思議とかんがえた。
僕と彼女を繋いでいるものはK兄さんとの記憶だけであった。それ以外の理由で、この魔性の女とかかわっていても、僕に幸運が訪れることはない。その他大勢の犠牲者の仲間入りをするだけだ。
しかし、僕が彼女に憧れていることは認めなくてはならない。ただそれは恋愛的な感情ではなくて、K兄さんとメブが親密そうにしていた姿が、その神々しい雰囲気が妙に僕を惹きつけただけなのだ。
駅前にある塾から帰っていると、背後から名前をよばれた。ふりかえると、アイドルのようにはっきりした目鼻立ちにちいさな唇の女性がいた。艶のある黒髪をポニーテールにしていた。スーツ姿でスタイルがよく、身長は僕とあまりかわらなかった。
「どなたですか」と僕は言った。
彼女は名刺をとりだして僕に渡した。心療内科のクリニックで働いている人であった。
「メブのことで話がしたい。時間ある?」
僕はちいさく頷いた。それから彼女につれられてちかくの喫茶店にはいった。
そのちいさな喫茶店は古い柱時計があった。カウンターは三席、テーブルは二人掛け二つで、窓側に配置されていた。我々は黒のウォールランプのあるテーブル席にすわった。
彼女の視線は、僕の心を見透かすような執念深さがあった。それは敵意にも嫉妬にも感じとれた。
「話ってなんでしょう」と僕は言った。
「ああ、そうだね。ナナです、よろしく」
テーブルにコーヒーが運ばれてきた。ふたたび我々は口をつぐみ、アイスコーヒーをひとくち飲んだ。それから、僕はぼんやりと窓の外をながめていた。視界の隅でナナさんが僕を観察しているように感じた。
「ゴリガキは楽しかったかい」とナナさんは言った。
「見ていたんですか?」
「いいや、メブからきいたよ」
それから、また彼女はアイスコーヒーを飲んだ。この身長のたかい大人の女性がなんの話をするか想像ができなかった。なにかとんでもない不安が頭によぎった。
「きみはメブのことが好きなのかい」
「僕がですか」予想外の質問に、僕の顔はほころんだ。「彼女と僕は住む世界が違いますから。僕は勉強もできないですし、容姿もみてのとおりです。彼女は、こんな人間が好きになってはいけない人です」
「そんなことはないさ。不可侵な欲望は誰でも抱いていいものだ」ナナさんはポケットから煙草をとりだし火をつけた。それから煙をゆっくりはいた。「まあ、それなら話しは簡単だ。メブにちかづくのをやめてくれないか」
僕は彼女の目をじっとみた。それは、僕が頭のなかで言葉が整理できないときの、わずかな抵抗にすぎなかった。
「きみも知っているだろうが、彼女はほとんどものを言うことができなかった。自分のなかで、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と繰りかえし息を整えていろいろなものを逃がして生きている。おそらくきみが思っているよりずっと繊細で危険な子だよ」
「僕といるくらい、どうってことないでしょう」
「K君と仲がよかったそうじゃないか」
「それがなんです」
ナナさんはため息をついて、灰皿で火を消した。それから僕をかるく指さした。
「彼女はやっとK君の思い出からはなれられた。そのために、いろんな人たちと無駄な夜をすごした。その努力が正しいとおもったことはいちどもないが、彼女の症状は軽くなった。でもきみといることで、また彼女が苦しんだりしないか心配だ。きみとK君はあまりにもちかすぎた。きみは彼女が発狂したのをみたことがあるかい。おそらく、きみのまえだとなんでもないようにしていたんじゃないかな。でもね、彼女の心はもうボロボロだよ」
「僕の行動を制限する資格なんてないはずだ。あなたはだれですか」
「彼女のカウンセラーで、もと恋人です」とナナさんは平然と言った。