「ねえねえ、知ってる?」
決まって彼は、私が日直の時に現れる。
「ねえねえ、知ってる?」
噂話を共有できる喜びに満ちた、弾んだ少年の声。
日直日誌を書いていた私はその手を止めて、ふと視線だけ持ち上げる。
私の机に両肘をつき、楽しそうに笑う男子生徒が目の前にいた。どこのクラスに所属しているのか分からないが、少なくとも自分のクラスにはいないはずだ。
名前も知らない彼は、再び日直日誌を書く作業に戻った私に言う。
「恋人同士の男女が手を繋いで1階の渡り廊下を歩くと、永遠に結ばれるんだって」
他愛のない噂話に、私はうんざりする。
(――またか)
決まって彼は、私が日直の時に現れる。
曰く、踊り場の鏡には秘密の入り口があるらしい。とか。
曰く、息継ぎをしないで階段を上り切ることが出来れば告白が成功する。とか。
どれもこれも噂話――しかも創作が混ざっている。
放課後、残って日直日誌を書いている私の元をふらりと訪れては、先程のような根拠のない噂話を残して立ち去っていく。
もうこれで5回目の遭遇だ。他のクラスメイトが日直の際は現れないのに、決まって私の時だけふざけた噂話を携えてやってくる。いい加減に鬱陶しい。
「嘘吐き」
私は、日直日誌から顔を上げることなく吐き捨てる。
「噂話を創作するなら、もっとましなものにしなよ。どれもこれもくだらない噂話ばかり。いい加減に聞き飽きたんだけど」
そこまで言って、私は顔を上げた。
「――――」
彼は、少し驚いたような表情を見せていた。黒色の瞳を丸くして、口をあんぐりと開けて。
今まで無視していたのだが、唐突に反応を得られたことで驚愕が隠せずにいるのだろうか。根拠もなく、くだらない噂話に付き合うくらいなら無視を選ぶが、私がようやく答えを返したのが意外なのか。
どうせ日直もこれで最後である。高校3年生の私は、もうすぐ卒業を控えていた。日直日誌を書くことも最後になるし、この名前も知らない彼のくだらない噂話から解放されるなら、最後ぐらいは厳しいことを言っておかないと気が済まなかった。
言いたいことも言えて満足した私は、書きかけの日直日誌に向かう。これで静かになってくれれば万々歳だ。
がらがらッ。
突然、教室の扉が開き、私の心臓がどきりと跳ねた。
「あれ、まだ残ってたの?」
「あ、うん」
閉ざされた教室の扉を開けて入ってきたのは、クラスメイトの女子生徒だ。彼女は迷いなく自分の座席に向かうと、机の中身を覗き込んで「あ、あったあった」なんて言う。
彼女の手には可愛らしいデザインのパスケースが握られていた。どうやら定期券を机の中に置いてきてしまったらしい。
定期券を回収した彼女は、私に視線を投げかける。
「帰らないの?」
「日誌がまだ書き終わっていないから……」
「ふーん、そう」
私の回答に至極興味なさそうに応じる彼女は、
「あの子に攫われるよ」
――あの子?
「えっと……」
「あ、聞いたことない? こんな噂話があるんだけど」
戸惑う私に、彼女がある噂話を共有してきた。
今まで聞いてきたくだらない噂話とは訳が違う、身の毛もよだつ怖い話である。噂話の定番だ。
微塵も興味の湧かない噂話よりも、断然引かれる話の内容。彼女の桜唇から紡がれる声に耳を傾けていくうちに、私はようやっと現実を認識した。
あの男子生徒が、いつのまにかいなくなっている。
「放課後に居残っていると、どこからともなく男子生徒が現れて噂話を教えてくれるんだって。見覚えのない男子生徒なんだ。どこのクラスにいるのかも分からなくて、名前も分からない男の子」
彼女は思い出すように、
「その子のする噂話って、本当にくだらないものばかりでね。『渡り廊下を歩いたカップルは別れない』とか『学校の裏の木の下で告白すると成功する』とか、本当にどこにでもあるような噂話」
言葉を紡いでいく。
「でも絶対に、男の子に反応しちゃダメなんだって。何でかって言うと――」
話のオチが近づくに連れて、私は足元から感覚がなくなるような気がした。
その先は聞いてはダメだ。
だって、私は。
「――入れ替わっちゃうんだって」
女子生徒は「ただの噂話だよ」なんて笑うけれど、私はそれどころではなかった。
見覚えのない男の子、くだらない噂話。
彼に反応すれば、入れ替わる?
だってさっき、私は彼に反応したばかりで。
「ねえねえ、知ってる?」
背後から、聞き覚えのある少年の声が。
音もなく伸びてきた冷たい指先が、私の肩を掴む。
頭上から誰かが覗き込んでいるような、痛い視線がひしひしと降り注ぐ。見たくはないのに、何故か自然と天井に目を向けてしまう。
名前も知らないあの男子生徒が、心底嬉しそうに笑っていた。
「つ ぎ は お ま え」
こんな噂話を知っているだろうか。
放課後、教室に残っていると、どこからともなく女子生徒が現れる。
彼女は教室に残っている生徒にくだらない噂話を教える。「渡り廊下を歩いた恋人はずっと幸せになれる」とか「3階のトイレの個室にはお化けが出る」なんて、ごくありふれた内容だ。
だが、絶対に彼女の噂話に反応してはいけない。
「ねえねえ、知ってる?」
彼女と入れ替わってしまうから。
「ねえねえ、知ってる?」
今日も誰かに気づいてほしくて、くだらない噂話に縋る。
――――「ねえねえ、知ってる?」