7-8 魔石レンズと出会い
遅くなって申し訳ありません。
本日もよろしくお願いします。
都内にある喫茶店『SIZUKA』。
渋めの紳士と和風の美熟女の夫婦が経営している落ち着いた雰囲気のお店だ。
主婦や大学生、会社員あたりが客層で、チェーン店などを好む人はあまり来ない。
この店には、商談や打ち合わせに使える個室がいくつかある。パーテーションで区切られただけのものではなく、完全な個室だ。個室の予約はほぼ毎日のように入っており、人気があるのが窺える。
そんな個室には常に予約が取れない部屋が1つあった。とはいえ、他の個室も人気があるので誰も気にしたことはない。
カランカランと今日もまた2人の客がやってきた。
入ってきたのは白衣を着たロリっ子・竜胆と、その友達の中条さんだった。
中条さんはシュシュでポニーテールを留めた眼鏡女子で、普通の大学生女子である。
都会は奇妙な格好をしている人をよく見かけるので、白衣程度ではすぐに注目の視線は霧散する。
「マスター、こんにちは」
「やあ、いらっしゃい。お連れ様ならもう来ているよ。案内させよう」
「ありがとう。あと、ボンゴレの大盛りとブドウジュースを頼みたい」
「もー、夕ご飯が食べられなくなっちゃいますよ?」
「大丈夫だよ」
来て早々にボンゴレを頼む竜胆に、中条さんが呆れたように注意した。
「ははっ、君はよく食べるね。すぐに持っていくよ。あなたの方はいかがしますか?」
「あっ、さっぱりしたアイスティでお願いします」
「かしこまりました」
奥さんのシズカに連れられて、竜胆と中条さんは奥にある個室エリアへと消えていった。
カウンター席に座る50代ほどのサラリーマンが、その後ろ姿を見送って言う。
「はー、若いのに堂々とした子だね」
「ええ、素敵なお嬢さん方です」
サラリーマンもわざとではないのだろうが、他の客のことで勝手に盛り上がるのはマナーがあまりよろしくないので、マスターはすぐにドリンクやボンゴレの調理に入った。
ちなみに、他の客がいるのでマスターは竜胆たちの名前を出していない。
マスターの手際は素晴らしく、凄く良い匂いがし始める。
サラリーマンはスマホから顔を上げて、その調理風景を眺めた。
時刻は15時。
アサリこそちょくちょく食べるが、ボンゴレなんて洒落た物は久しく食べてない。
仕上がったボンゴレがドリンクと共にトレーに置かれる姿は滅茶苦茶美味しそう。
「マスター。私にもボンゴレを作ってくれるかい? 大盛りではなく並盛りで」
「かしこまりました」
SIZUKAは料理も美味しい隠れた名店なのである。
SIZUKAで予約が取れない個室は、賢者専用だ。
シズカに案内された竜胆と中条さんが部屋に入ると、そこには作務衣に羽織を肩にかけたオシャレ坊主のオッサンが座っていた。履物は下駄。
中条さんは「し、しまった!」と思った。
自分だけパンピーみたいだと。
「リアルで会うのは初めてだね。竜胆だ」
「な、中条さんです。普通に苗字も中条です。よろしくお願いします」
「鍛冶おじさんだ。よろしくな、お二人さん」
賢者ナンバー163、鍛冶おじさんだった。
なお、鍛冶おじさんは非常に器用だし物作りが好きだが、鍛冶はしたことがない。この名前はゲームキャラに鍛冶をさせたいという願望からつけた名前なのだ。300人の賢者の悲劇である。
「ああ、よろしく頼むよ。鍛冶おじさん」
「こっちは先に楽しんでいるが、2人共、ドリンクは?」
「来る時に頼んだから気にしなくていいよ」
今日初めて会ったとは思えない気安さでポンポンと会話を進めていく2人に、中条さんは目を白黒。
「それじゃあ、早速依頼の品を渡そうか」
鍛冶おじさんは革のカバンから小ぶりの段ボール箱を取り出した。
生産魔法で作った魔力のナイフでガムテープをサッと切ると、中には梱包材が詰まっていた。
「丁寧な梱包だな」
「ケースに入っているからそう簡単に壊れないだろうが、念のためにな」
そう言いつつ梱包材の中から密閉できるアクリルケースを取り出し、2人に渡した。
透けたフタの中には、円形の革製品から棒が突き出した物が見える。
「これは剣鹿の革か?」
「ああ。余り物で作ったからそれはサービスで良い。持ち手の先端にストラップ用の穴があるから、邪魔でないなら革ケースと紐で繋げておくといいぞ」
「ありがとう。そのあたりは使ってみて判断するよ。それじゃあ早速検めさせてもらおうか」
竜胆はワクワクしながらケースを開け、ポケットからゴム手袋を取り出してつけた。学者系女子と探偵の必需品であるお出かけ用ゴム手袋だ。
竜胆は棒の部分を手に取り、丁寧に革ケースを外す。
革ケースに守られていたのは直径3.5cmの虫眼鏡だった。
「おぉ、これが魔石レンズか……」
「一応確認したが、歪みはないはずだ」
魔石レンズはニャロクーンが教えてくれた魔法のアイテムだ。
高ランクの魔物が落とす魔石を磨いてレンズにすることで、目では見えない属性の粒子を観測することができる。
ミニャンジャ村の場合、今のところボスである水晶鹿だけがレンズにできる魔石を落とす。それでもニャロクーンからすると低品質の素材らしい。
鍛冶おじさんは日本でこの魔石レンズを作る依頼を竜胆たちから受けており、本日はその受け渡し。
「わぁ……」
竜胆がオモチャを貰った少女みたいな声を出して、目をキラキラさせながら虫眼鏡越しにあちこちを見始めた。
それを横目に、中条さんが話す。
「それにしても製作費は高かったんじゃないですか?」
「いや、別に? レンズ用ではないが、元から研磨機は持っていたからな。革も余り物だしな」
「レンズ用ではないのに……やっぱり生産属性は器用ですね」
「攻撃も回復もできないんだから、それくらいはな」
席を立った竜胆が観葉植物を観察し始めたところで、部屋にボンゴレが運ばれてきた。
「竜胆さん。ボンゴレが来ましたよ」
「もうちょっとだけ待ってくれ」
「もー、せっかくマスターが作ってくれたのに冷めちゃいますよ!」
「君らの力関係がわかるな」
鍛冶おじさんはそう言って小さく笑うと、コーヒーカップに口をつけた。
ボンゴレをモグモグし始めた竜胆に、鍛冶おじさんが言う。
「そうだ。水晶鹿の魔石を切り出した余りでこんな物も作った」
それは直径3cmほどの魔石の板だった。
「魔石で作ったフィルターだ。顕微鏡なんかにつけて試してみてくれ」
「ももむ!」
「食べるか喋るか片方にしてください。鍛冶おじさん、ありがとうございます」
「なに。依頼料はしっかり貰ったからな」
賢者同士の依頼でも、ちゃんと料金を貰う。
主に、生産属性と回復属性は日本で依頼があり、その他の属性はパトラシアで素材集めの依頼などがある。料金は日本円かお仕事ポイントで支払われ、依頼時にその辺りはしっかりと確認される。
せっかく会ったのでそれから1時間ほど話して解散した。
それから竜胆は召喚業務の傍らで、虫眼鏡による研究を始めた。容姿がロリっ子なので中学生が虫眼鏡に夢中になっているような感じである。
「地球にも魔素は存在するのか」
魔素というのは、ニャロクーンが言っていた目に見えない魔力の素だ。
特徴として、水の気が多いところでは水魔法が使いやすく、火の気があるところでは火魔法が使いやすい。とはいえ、これは最高効率になるだけの話で基本的にそこまでの違いはなく、例えば氷の世界でも火魔法は使える。
魔素は様々な色をしており、大気中にも存在するし物の中にも存在していた。水の気や火の気といったものはこの色が関係しているのかもしれないと、竜胆はワクワクした。
「それにしても……」
竜胆は虫眼鏡越しに夜空を見上げた。
夜空には星の光を隠してしまうほどの魔素が漂っていた。それには濃淡があり、唯一、月だけが薄っすらと見えている。
ただ、虫眼鏡越しだと遠近感が掴めない。虫眼鏡の中で上下が反転したスカイツリーの背景に魔素は広がっているので、少なくともそれよりも高い位置にあるはずだが。
試しに天体望遠鏡に鍛冶おじさんがサービスで作ってくれた魔石フィルターをつけて観測してみるが、直径3cmのフィルターなのでサイズが合っていないのを考慮しても、いまいち上手くいかない。
しかたないので、竜胆はミニャンジャ村に赴き、ニャロクーンに問う。
「ふむ、空の魔素か。昔と変わらなければ、このパトラシアでも同じように見えるぞ」
ニャロクーンには賢者たちが別の世界から来ていることをすでに教えていた。魔法や知識を教授してもらうのに、このことを説明しておかないのは面倒が多かったのだ。
『竜胆:あれはなんなのでしょうか?』
「残念ながら我にもよくわからん。ただ、女神の森や力ある土地の周辺では非常に観測しにくいのはわかっている。魔素が強すぎるから魔石レンズ越しではまるで濃霧の中のように遠くが見えんのだ」
『竜胆:なるほど。しかし、そうすると日本の魔素はパトラシアよりもずっと薄いのか』
日本の夜空は十分に観測できるので、そんな考察をした。
「昔の者もあれがなんであるのかわかっていなかった。少なくとも山よりも高い場所にあるとだけはわかっているがな。いまのお主の興味はあれなのか?」
『竜胆:はい。もしかしたら、という考えはいくつかありますが』
「ほう、候補があるか。なんであるかわかったら我にも教えてくれ」
それから竜胆は、魔石フィルターにサイズが合う望遠鏡を購入した。その結果、望遠鏡でも魔素を観測できることを発見した。その際に対物レンズの方に設置しなければならないようだ。
しかし、それでも空の魔素がある標高は依然として掴めない。
そこで竜胆はひとつの可能性を考えて、オーストラリア行きの夜間便の飛行機に乗った。白衣姿で。
座席はプレミアムエコノミーの窓際席を指定。隣にも座席はあるが、比較的ゆったりとできる仕様だ。
最高高度まで達すると、飛行機の窓から地上へ向けて魔石フィルター望遠鏡を向ける。地上方面には薄っすらと魔素が見える程度だ。
薄い霧でも遠方から見れば霧の向こう側を隠してしまうように、地上では薄かった魔素も遠方から見るとそれなりの濃さで観測できるようだった。地上に薄っすら見える魔素の理屈はつまりそういうことなのだろう。
逆に言えば、地上から見た夜空を覆う濃い魔素の天井はこの高度1万m以下には存在しないことがわかった。
今度は望遠鏡越しに空を見上げる。
すると、そこには地上から見たのと同じ魔素の天井が広がっていた。地上では薄っすらと見えていた月は上空だとより鮮明に見える。
最後に水平方向を観測する。
今度は、地表や地平線を覆うように薄っすらと魔素が見え、その背景となる夜空には濃密な魔素が観測できた。
「やはりそういうことか?」
竜胆が真剣な顔で考えていると、ふいに声がかかった。
『なにか凄い発見があったかい?』
竜胆がハッとしてそちらへ顔を向けると、隣に座っていた白人男性が英語で声をかけてきていた。歳の頃は40代くらいか。
『これは隣で騒がしくして失礼をしました』
流暢な英語で返答した竜胆に、男性は笑みを深めた。
『いやいや。お嬢さんのような若い子がこの世の神秘を探究している姿にとても感心していたんだよ』
竜胆はロリっ子である。
外国人男性からすれば、小学生くらいに見えていた。
『何を熱心に見ていたんだい?』
『申し訳ありませんが、それは秘密です。NASAが飛んできてしまいますからね』
『はっはっはっ! それでは聞くわけにはいかないな。ぐふっ、ふっふっ、失礼』
男性的に相当ツボだったらしい。
だが、竜胆は本気で言っていた。それだけ竜胆が視ていた景色は宇宙工学において重要なのだ。
『違ったら申し訳ないのですが、もしやロバート・アンダーソン氏ではありませんか?』
『おっとその名前は出さないでくれ。MI6がやってきてしまうからね』
さっきの竜胆のセリフがよほど面白かったのか、ロバートも似た返答をしてきた。
ロバート・アンダーソンは世界的な動画サイト・ニコチューブの創業者で現CEOだった。
ニコチューブは当時大学生だったロバートとその友人、そして日本人留学生の3人で作ったサイトであり、今では世界の動画市場の一角を担う大企業である。
かなりの親日家としても有名で、そのきっかけはアニメやゲームである。特に幼き日に見た美少女キャラが太陽のように明るく笑う姿に思い出が深いようで、そのキャラの笑顔から『ニコチューブ』と名付けられたと言われている。アメリカの企業なのに『ニコ』は『ニコリ』という日本語から取っているのだ。
竜胆は会話をしつつ、ウインドウでニーテストたちにこの出会いを報告し、驚きも束の間、指示が始まった。
とりあえず、生配信を始める。
日本で使う生配信は3つのモードから選択できた。視聴は不可の記録モード、賢者全てが視聴できる通常配信モード、一部の賢者のみが視聴できる限定モードだ。今回は限定モードを使用した。
なお、パトラシアで活動する賢者は問答無用で通常配信モード一択であり、過去動画も消せない。
『あなたとは一度お会いしたいと思っていました。ああ、申し遅れました。私のことは竜胆と呼んでください』
そう言った竜胆は『この偶然は女神様の導きか?』と考えて、すぐにそれを否定した。
すでに賢者の数は1500人を超えている。相手が日本にさえいれば、有名人と町中ですれ違うこともあるだろう。
実際にこの数か月の間に、奈良のベンチに座りながら鹿に煎餅を上げているハリウッド俳優を見たという報告を、雑談スレッドで書き込んだ賢者がいた。それから、俺も俺もと有名人の目撃談で盛り上がったので、分母が多いというのは、つまりそういう偶然が起こりやすくなるということである。
『それは光栄だね。それにしても、何回も日本に通っているが、日本人で私の顔を見てすぐに気づいたのはリンドウが初めてかもしれない。私は秋葉原や原宿によく行って、そこらのラーメン屋やカレー屋で食事をするのだけど、誰も気づかないからね。もちろん企業なんかに訪問すればその限りではないが』
『私もニコチューブを視聴して楽しんでいる身ですから、素晴らしい体験を提供してくれた人物がどんな人か調べたことがあるんですよ』
『おお! そう言ってくれると嬉しいね。じゃあナオマサも?』
『幸田直正氏も存じていますよ。素晴らしいプログラマーです』
『ああ、これは素晴らしい出会いだ。ナオマサに話したらさぞ喜ぶだろう』
幸田直正はロバートと共にニコチューブを作った留学生で、天才的なプログラマーだった。彼がいなければニコチューブは今ほどの成功を収めなかっただろうと言われるほどだ。
『しかし、あなたほどの人でもエコノミーに座るんですね。一応はプレミアムとつきますが』
『日本滞在中にオーストラリアに住んでいる友人の急病を知って、慌てて飛び乗ったのさ。だが、それを抜きにしてもファーストクラスは滅多に座らない。あそこには君のように面白いことをしている子はいないからね』
『アイデアのためですか?』
『まあそうだね。人がいなければ出会いもない。嫌な出会いももちろんあるが、君のように面白い子と出会うこともある。私がニコチューブのアイデアを思いついたのも、旅先で隣の席に座った女の子がホームビデオの録画を見せてくれたことがきっかけだった。友達と見せ合って、誰の旅行先が一番良かったか品評会を開くのだと言っていたよ。それを世界規模でやったら、さぞ面白いだろうと思って作り始めたわけだね』
『それは素晴らしい出会いでしたね。いや、そこからアイデアが生まれることこそ称賛されるべきか。なんにせよ、そういうことでしたら、ロバートさんのインスピレーションの助けになるために、張り切ってお付き合いしなければなりませんね』
『はっはっはっ、頼むよ。オーストラリアまで暇だからね。そうだ、最近の君のオススメ動画はあるかい? 日本語もある程度は理解できるよ。細かな笑いに反応するのは難しいがね』
『ふむ、私のオススメですか……』
『ああ、こう見えて私はニコチューブを大切にしているからね。各世代がどのような動画を好んでいるのか、データではなくユーザーの生の声を知りたいんだ』
ロバートの質問は竜胆を試す雰囲気があった。
日本人に大人気の配信者の名前なんて出そうものなら、きっとガッカリするだろう。
しかし、賢者たる竜胆に死角はない。
機内Wi-Fiを使い、スマホでニコチューブを開く。
『私のオススメはこれですね。英語版もあります』
竜胆は最強女神教団が作っている動画をそのプラットフォームの大ボスに教えた。最近は海外需要も多くなったので、翻訳版も制作され始めたミニャンジャ村の開拓日記だ。
他にも釣りっぽの魚獲りシリーズや、武闘派賢者のダンジョン攻略シリーズ、グルコサの町の散策シリーズ、トマトンたちの異世界食材のお料理シリーズなど、枝チャンネルが展開されている。
『ほう、これは……』
ロバートが自分のスマホで視聴を始めたので、竜胆はニーテストたちとやりとりする。
しばらくすると、ロバートが呟く。
『これはどうやって撮影をしているんだ? CG? AI動画? いや、それにしては……』
夢中である。
ロバートは英語版のコメントを閲覧し、同じような疑問を持っているクリエイターが大勢いることに納得と安堵の頷き。わからないのは自分だけではないと。
【ロバート・アンダーソン(公式):いまこの動画の存在を知ったのだけど、撮影方法が全くわからない。日本人がまた変な技術を開発したのか?】
【:ふぁ!? ロバート・アンダーソン!?】
【:ついにロバートに見つかってしまったか】
【:この動画は素晴らしいです。ロバートもネコミミをつけてミニャンジャ村へ行きましょう】
などとコメントに書き込んで騒然とさせている。
1時間ほど視聴して、ロバートが戻ってきた。その1時間で英語版の登録者が大きく跳ね上がるのを見るに、海外でのロバートの知名度の高さが窺える。なお、日本語版のほうは通常営業。
『レディを放ってすっかり夢中になってしまった。申し訳ない』
『いえ、私のオススメをお気に召したようで私も嬉しく思っています』
『私たちが作ったサイトなのに、これほど面白い作品が作られているとは知らなかったな』
『いまや動画の投稿数は膨大なものですからね、無理もありません。それだけ世界中の人を夢中にさせるサイトということです』
『ああ、それは私の誇りでもある』
フライトは約9時間。
その間、竜胆とロバートは楽しくお喋りをして過ごした。
『オーストラリアには何をしに?』
そんな会話になった。
竜胆はこの話題を待っていた。
『夜空の観測をしに行きます。マゼラン星雲を視たいのです』
魔石レンズで見える空の色には濃淡がある。淡いと言っても相当に濃いのだが、それでも明らかに濃く見える部分もあった。
『マゼラン星雲? 聞いたことはあるな』
『南半球でしか観測できない天体です。地球のある天の川銀河から最も近い小さな銀河です。今の時期は肉眼でも観測できるそうですよ』
『オーストラリアには何度か行ったことがあるが、天体観測はしなかったな。では夜になったら私も見てみよう』
『ロバートさんはご友人のお見舞いということでしたか。ご容体が悪いのですか?』
竜胆はこれを尋ねたかった。
ロバートほどの人物がわざわざ会いに行くほどなので、ただ事ではない。しかし、違う可能性も十分にあるし、それならそれで良いことだ。これを確かめたかったのだ。
『ああ、たぶん今生の別れになるだろうね』
ロバートの返答はそういうものだった。
それを知ったニーテストたちは、すぐにプランを構築する。
『そうですか。それはお辛いことを聞いてしまい申し訳ありませんでした』
『いや、いいさ。この歳になると別れのひとつやふたつは体験しているからね』
フライトを終えてオーストラリアに到着し、空港で一緒に降りる。
『これからどこへ行くんだい?』
『先ほども話した天体観測が一番の目的ですが、2、3日は町を散策してみようかと思っています』
『もしかして、本当に夜空の観察だけのために来たのかい?』
『そうですよ』
『これは君のしていたことをもう少し質問しておくべきだったな。いや、そうするとNASAが来てしまうのだったか』
『ええ。ですが、いずれ私のしていたことがわかり、世界が仰天する日も来るかもしれませんよ』
『君が学会に殴り込みに行った際には、この子は私と飛行機の中でお喋りした子だ! と自慢させてもらうよ』
『そんなことをしたら、ロバートさんの命が危ないですよ』
『はっはっはっ! やはり面白い子だ!』
そんなことを話しつつ到着ロビーへと向かう。
さすがにネット業界の重鎮だけあって、現地に到着すると迎えが大勢見えた。スーツを着た屈強な人物もいる。
『別れる前に、ロバートさん』
竜胆が立ち止まって切り出した。
ロバートもその場で立ち止まり、竜胆を見下ろす。
『なんだい?』
『神の存在や霊の世界を信じますか?』
『ハグでもしてくれるのかと思ったら、なかなかセンシティブな別れの言葉だ』
ロバートは少し考えて、言った。
『これはオフレコで頼むよ。私の中で神は道徳心を養うためと心の慰めのために作られた存在だと思っている。残念ながら信仰心の篤い人間であっても道徳心が崩壊している者はいるが、まあ一定の役割はあっただろう。かくいう私もそうやって道徳心を養ってきたつもりだ』
『霊については?』
『見たことはないね。もしかして君は見えるのかい?』
『はい。ロバートさんにも今ここでお見せしましょうか?』
『おいおい、そういう面白そうなことは飛行機の中でしてくれよ。もうお迎えが来ちゃってるよ』
『お見せしますか?』
再びの質問をした竜胆は幼く見えるが、その神秘的な様子に倍ほど年の離れたロバートは一瞬圧倒された。
『じゃ、じゃあ見せてくれるかい?』
『わかりました。では、周囲の人間を見回してみてください。霊視』
光属性の竜胆が霊視を使用する。
その瞬間、ロバートの目にこの世の裏の姿を見せ始める。
『ふぁ!?』
到着ロビーを進む人々の中に、明らかに異質な存在が現れた。
それは体に黒い鎖を巻いた人たち。中にはそれに加えて指をさして浮かんでいる霊の姿も見える。
『な、な、なん……』
言葉にならない声を出すロバートに、竜胆が落ち着いた声で説明する。
『人々の足に巻きついているのは冥府の鎖と呼んでいるものです。人の道から外れた者に巻きつき、死後に暗き穴の中へと連れて行きます。そして、人を指さして浮かんでいるのはその人物に直接的にあるいは間接的に殺された人たちです。彼らはその人物が裁かれる時までずっとその罪を訴えかけ続けます』
ロバートはハッとして自分の足下や背後を見る。
そこには何もない。再び周りを見ると、やはり先ほどと同じ現象が見えた。
『包丁を使って犯された罪を包丁の発明者や製作者が負うことはありませんよ。私刑や誹謗中傷の場に使われがちなニコチューブだって同じです。もちろん、あなたが悪意をもって扇動してしまえばその限りではないでしょうが。あなたは楽しいものを世界に提供しただけです』
竜胆はそう言って霊視を切った。
目をごしごしと擦ったロバートは、もう先ほどの光景を見ることはなかった。
『リ、リンドウ、君はいったい……』
『それはお教えできません』
『NASAか……』
ロバートはそう呟くが、今度は冗談ではなく本気の声色だった。
『これを渡しておきましょう。私の連絡先です。ご友人が重体ということでしたが、私はそれを治す伝手を持っています。必要なら連絡をください』
竜胆はそう言って名刺を渡すと、その場を去っていった。
白衣を翻したその後ろ姿はミステリアス系ロリっ子。
『ジーザス……日本はついにアニメのような少女を生み出すようになったのか?』
アニオタでも有名なロバートは茫然としながら竜胆の後ろ姿を見送るのだった。
読んでくださりありがとうございます。
ブクマ、評価、感想、大変励みになっています。
誤字報告も助かっています、ありがとうございます。




