7-2 大いなる子猫の使い
遅れて申し訳ありません。
本日もよろしくお願いします。
稲穂銀行の頭取にまで昇りつめた篠原は、昔から奇妙なものを視る体質だった。人はそれを霊感と呼ぶのかもしれない。
死んだ祖母もまた同じものを視る人で、篠原は視えない両親よりも祖母から多くのことを学んだ。
それは、人の足に絡みついている黒いノイズのようなもの。そして、そのノイズの隙間には黒いヘビやムカデが這いまわっているのが視えることもあった。
それがまとわりついている人は、どんなに善人面をしていても何か後ろ暗い過去や嗜虐的な習慣がある人間だった。
とはいえ、即座に自分に危害が加えられるわけではないし、話してみれば案外面白い人もいた。後ろ暗いことがある人だって全方位を敵にする者ばかりではない、と祖母からは教えられ、その後の人生でその言葉が正しいものだと学んだ。
だが、注意をするべき人物であることは間違いなく、そういった人たちから恨まれず舐められず、程よい距離感の付き合い方にも慣れていった。
かなり明確に悪の濃度を識別してしまうので、篠原は死後の世界というものを信じていた。というよりも、この黒いノイズが自分の足にまとわりついた時、自分はきっと正気のまま人生を送れないと恐れたのだ。つまり、あるかどうかわからないが、死後の世界に対して保険を掛けるようにして、念のために正しく生きるように自分を律してきたのだった。
稲穂銀行の副支店長をしていた頃のことだ。
色濃いノイズを纏う男が稲穂銀行に融資を希望してきた。そのノイズの向こうではヘビやムカデがズボンを透過して這いまわり、まるでその男が行きつく先を暗示しているような不吉な見た目をしていた。
建設会社クリーンドームの社長だった。
融資のお願いなんて断られるのを前提に何軒も銀行を巡って行なうものなので、篠原は恐怖を感じつつもこの件を断った。篠原の想定通り、黒いノイズを纏う男とはそれ以来関わることはなかった。
しかし、この男の情報を知ってしまったことが、未来で娘に対していくら懺悔しても足りない贖罪の日々の扉を開くきっかけになってしまうのだった。
この能力について話した人はそこそこの数いるが、その中で話を信じて真摯に受け止めてくれたのは3人。
元部下であり一回り年下の妻、人生の歩き方を教えてくれた祖母、そして、恩師とも言うべき前頭取である。
前頭取は篠原の能力を利用して野心渦巻く金融界を泳ぎ回り、時には敵対派閥の不正を暴き、頭取にまで昇りつめた。派閥でも篠原は前頭取の腹心のような立ち位置になっており、任期の中頃で前頭取が急逝してしまうと、気づけば稲穂銀行で篠原と並ぶ者はいなかった。
クリーンドームの情報は、この前頭取の時代にとある大手地方銀行の力を削ぐために使用された。その目論見は成功するものの、その代償は前頭取の死後、篠原が頭取に就任してから降りかかってくることになる。
最愛の娘が事故に遭ってからというもの、篠原はいつも悪夢にうなされ続けていた。
ハープが好きな娘が華々しい発表会の壇上で、トラックに撥ねられたり、落下してきた照明機材に押しつぶされたりする悪夢だ。
メガバンクの頭取としての重圧もあり、今年57歳になった篠原の精神はもうボロボロだった。
ある日の夜、寝室。
隣のベッドに妻はいない。娘が退院してからというもの、妻は娘と同じ部屋で看病しながら寝るようになったのだ。
薬を飲んで床に就いた篠原はその日もまた夢を見た。
それは今までの悪夢とは全く違う夢。
小学6年生の時に亡くなった祖母の膝に泣きすがる子供の頃の夢だった。
その光景を篠原は知っていた。小さい頃、黒いノイズを纏う大人たちを怖がって、よく祖母にこうやって慰めてもらっていたのだ。
祖母はそんな篠原の頭を撫でながら言う。
『正司や、よぉくお聞き。大いなる子猫の使いがやってくるよ』
『ぐすっ、大いなる子猫?』
『そう、大いなる子猫。今日、訪ねてくる風間という男に助けを求めなさい。それで全てが上手くいくからねぇ』
『婆ちゃん……ホントに?』
『本当よ。正司や。これまで真面目によく頑張ってきたねぇ。もう大丈夫。もう大丈夫だからねぇ』
ここ最近の篠原は、深夜に悪夢から抜け出すように布団を跳ねのけて起きる日々を続けていたのに、この日は枕の上に頭を乗せて、カーテンの隙間に差し込む夏の日差しを見つめながら目を覚ました。
「婆ちゃん……本当ですか?」
篠原はベッドから起き上がり、タンスの上に飾られた祖母の白黒写真を見つめて、唇を震わせながら問いかけた。写真の祖母は優しく微笑むばかりで何も答えない。
それは失ってしまった日常を取り戻したいという願望から見た夢なのかもしれない。しかし、祖母は自分と同じく不思議なものを視る人生を送った。ならば、もしかしたら……。
ひとつの組織のトップにまで昇りつめたそんな男の背中を、ベッドの下にある黒い影がジッと見つめていた。黒い影は薄く煙を出していた小瓶を影の中に回収すると、やがて窓枠の隙間からスッと外へと出ていった。
夕方。
娘と一緒に居てあげたいという想いで休憩もろくにとらずに仕事をこなし、事情を知っている部下たちも可能な限り気を使ってくれる。
それでも外せない会議に出席したり、銀行外の人と会うことが多いので夜まで働くことはざらにあったが、この日は定時に上がれそうだった。
秘書には念のために風間という人物が訪ねてくるかもしれないと言付けしておいたが、数組の来客はあったものの、元から会う予定のあった人物たちばかり。その中に風間という人物はいなかったし、娘の話題をあげる者すらいなかった。
夢なんてそんなもの……そんなものだ……。
そう思いつつも全身から力が抜けてしまうような感覚になりながら、帰りの支度を始めようとした時だった。
「頭取。風間様が受付にお見えになりました」
秘書から告げられたその言葉に心臓が跳ね上がった。
「え……?」
まさか本当に来るとは思わなかったので、篠原の口から驚きの声が漏れた。だが、事情を知らない美人秘書からすれば、何を驚いているのかさっぱりわからない。
「ご案内いたしますか?」
「あ、ああ。風間氏は何某と名乗りましたか?」
「風間宗麟様です」
「宗麟……八菱の風間宗麟さんか!?」
篠原が驚くたびに、秘書の困惑は続く。自分で来訪するかもしれないと言っていたのに、下の名前を尋ねて驚いたり、反応が奇妙過ぎる。
「お、大いなる子猫の使い……」
極めつきは思わず口から零れてしまったこの言葉。秘書は「え」とキョトンとした。凄い立場のオッサンがアニメみたいなことを言い始めたのだから、それはそう。
「い、いえ、何でもありません。すぐにこの部屋にお通ししなさい」
秘書が出ていくと、篠原は混乱して部屋の中を歩き始めた。
風間は八菱を影から支えた知る人ぞ知る人物。とはいえ、すでに定年で引退した身だ。現役で頑張っている役員たちを差し置いて、風間が八菱のために稲穂銀行本店にやってくる理由が皆目見当もつかなかった。
しばらくすると、秘書が1人の紳士を案内してやってきた。
一回りは歳が離れているのに、心労を差し引いても篠原の方が老け込んで見える。風間はそれだけ生気に満ち溢れた男だった。
「風間さん、お久しぶりです。以前お会いした時とお変わりないようで驚きました」
そう言いながら歩み寄った篠原は、物心ついた頃からの癖で相手の足下をチラリと確認する。風間の足には黒いノイズなどなく、磨き上げられた品の良い靴を履いていた。
娘が重体になってからというもの、いくつかの宗教関係者がすり寄ってきた。篠原の立場上、末端の勧誘者が来るはずもなく誰もが幹部クラス。そして、その全てが黒いノイズを宿しながら慈愛に満ちた顔をしていた。
だから、風間の足下を見た篠原は少し安堵しながら、握手を交わして歓待した。
篠原は風間と10年ほど前に数回会ったことがあった。
とても印象に残る好人物だったので、篠原は鮮明に覚えていた。
「篠原さん、お久しぶりです。そう言っていただけると日々摂生に努めたかいがあります」
「いやはや、私も見習わなければなりませんね」
そう言った篠原は、睡眠不足や心労、職務への重圧のせいでここ最近はとても人前に出られるような顔色ではなく、それを隠すために薄く化粧をしている。
「あぁ、立ち話もいけませんね。どうぞ、お座りください」
篠原が応接用のソファに案内し、風間は礼を言って座った。
「本日は急な訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
「いえ、今日はもう帰るだけでしたので、お気になさらず。私の方こそ風間さんに再会できて光栄です」
そんなわずかな挨拶をしているうちに、お茶が出てきた。
「ありがとうございます。あぁ、これは美味しい」
風間は恐縮せずされど偉ぶらず、出されたお茶をさっそく口にして、嬉しそうに微笑む。
スマートなその所作に、秘書は、こういうのをロマンスグレーというのかしらとドッキドキ。胸や足ばかり見て、お茶が出されるのが当然と思っている脂ぎった政治家とは全然違う!
秘書が退出すると、室内には篠原と風間だけになった。
「それで、今日はどういったご用件なのでしょうか?」
そう口にした篠原は、自分の心が思っている以上に興奮していることにハッと気づいた。世間話すらせずに本題に入ったのだから、人によっては機嫌を損ねられてもおかしくない。
この問いに対して、風間はひとつ頷いて言った。
「篠原さん。こちらから訪ねてきたのに礼を失しますが、これから見聞きすることは許可なく他言することをお控え願いたい」
「ご安心ください。決して他言いたしません」
「結構です。では篠原さん、少し失礼を。興奮すると腰を痛めるのでこれから起こることを冷静に受け止めてください」
風間はそう言うと指をパチンと弾き、篠原に空中浮遊の魔法フライをかけた。すると、篠原の体がソファから浮き上がった。
「どわっ!? は、え、な、ちょ!? えぇええ!?」
すんごく偉い立場の篠原だが、所詮は人の子。初めて生身で空中に浮いたことで目を白黒させてジタバタした。
そんな篠原の前で風間はソファに座ったままの体勢で空中に浮かび、優雅にお茶を飲んでいた。
慌てる篠原とは裏腹に、風間は落ち着いた声色でこの世の真実を告げた。
「篠原さん。この世には魔法が存在します」
「まっ、魔法……っ!?」
「はい。私が持つ力は風を操る能力なのですが、魔法の中にはほぼ全ての傷を治す力も存在します。そして、私はその力を操る者との伝手を持っています」
風間は驚愕に見開く篠原の瞳を真摯に見つめて、問うた。
「篠原さん、助けが必要ですか?」
篠原邸は千葉県の高級住宅街にあった。
金融機関のボスみたいなものだから大変な資産家と思われがちだが、そんなことはなかった。たしかに一般人の年収よりも遥かに貰っているが、東京の高級住宅街に邸宅を建てて、一生無理なく維持していくのは無理だった。
頭取とはいえ株式総会で選任された役員にすぎない篠原に比べれば、自社の株や不動産を多く保有しているカスミ製薬の創業者一族であるヤクジンや、銀行員と違って投資にほぼ制限がないニーテストの方が遥かに資産を有していた。
そんな篠原邸だが、豪邸である。東京ではないのでそこまで無理なく建てられたのだ。特に防犯面に重きが置かれており、泥棒が入れば警備会社や警察が飛んでくる。
送迎用の車で送ってもらった篠原と風間は、玄関の前に立つ。
自動でライトが点き、そこから見える庭先には最近増設したであろう広い雨避けの下に、車椅子用の電動昇降機が設置されていた。玄関からではなく、居間から入るようになっているのだ。
玄関に入った風間は、屋内の明るさでは隠しきれない不幸があった家特有の悲しみや切ない雰囲気を感じ取っていた。
一方の篠原は車の中からずっと緊張と興奮が続いていた。本当に治癒の魔法があるのか、娘は助かるのか。そんなことで頭がいっぱいだった。
「あなた、おかえりなさい。お客様ですか?」
そう出迎えたのは、篠原の妻だった。
歳の離れたその女性は、家の中だというのにしっかりと身だしなみを整え、良家の出だとわかる品のある雰囲気をしていた。ただ、娘の看護疲れが所々に見え隠れしている。
「ああ、こちらは風間さんです。今日はお願いがあってお越し願いました。風間さん、家内の美咲です」
「風間と申します。本日は夜分にお邪魔して申し訳ありません」
「そんな、風間様、ようこそお越しくださいました。大したおもてなしもできませんが、どうぞゆっくりしていってください」
履き心地の良いスリッパに足を通した風間は、客間へと案内しようとする美咲を手で制して、篠原に言った。
「おもてなしを受けるのは後にしましょう。その方が篠原さんから存分におもてなしを受けられそうですからね」
風間が微笑みながらそう言うと、篠原は弱々しい笑いを見せて頷いた。
「そうしていただけますか? 落ち着かない気持ちでは何か失礼を働いてしまいそうです」
「お気持ちはお察しします」
「ところで、紹介を頂けるという方は?」
「ご安心ください、すでに控えていますから。さあ、案内をお願いします」
篠原は頷き、邸宅内を進み始めた。
「あ、あなた、どちらへ?」
「奏のところです」
「あ……風間様はお医者様でしたか。これは失礼をいたしました」
そう勘違いした美咲と共に1階を移動する。本来なら2階が娘の部屋だったが、看護のために1階で暮らすようになったのだ。
ドアをノックし、篠原が言う。
「奏、入りますよ。風間さん少々お待ちください」
少しの間を置いてから、まずは篠原が入って娘の様子を確認する。娘の尊厳を傷つけるような状態ではなかったので、風間の下へ戻った。
「申し訳ありません、娘は起き上がることができません。寝たままの対面になりますが、ご容赦ください」
娘に聞かれて傷つけないように、小さな声で謝罪する。
風間が大きく頷くと、3人は部屋の中へと入った。
奏の部屋は15畳ほどの広い部屋。
奏の心を慰めるために用意されたであろうテレビやぬいぐるみ、花で飾られている。
ベッドは2つあり、その片方の上で娘の奏はボーッと天井を見上げていた。
その左目には眼帯をつけ、顔の左半分に抉るような大きな傷跡があった。
「奏さん。初めまして、風間と申します。今日はあなたに紹介したい人がいて伺いました。どうぞよろしくお願いします」
枕元で風間がそう挨拶するが、返事はない。15歳の身で多くのものを失ってしまった少女の心は、酷く虚ろなものになっていた。
「あの、先生、娘はどうでしょうか?」
今まで夫を立てて静かにしていた美咲が、期待と諦めが混ざったような表情で問う。多くの医師に診てもらい、その全ての人に芳しくない診断をされてきたのだろう。自分の心を守るために、もう期待はほどほどなのだ。
「美咲さん。これから起こることは決して誰にも話してはなりません。それをご理解いただきたい。犯罪行為を行なうわけではありませんが、人に話して良い結果を招くことはない」
「え? それは……?」
美咲は不安げに夫を見上げた。安楽死という言葉が脳裏をよぎったのだ。
夫が頷くので、美咲もおずおずと頷いた。
「美咲さん、これから起こることは口で説明するのが極めて難しい事柄です。しかし、ひとつだけ訂正させていただきます。私は先生ではありません。ただの奇跡の仲介人です」
風間がそう言い終わると、風間の背後に不自然な2つの黒い影が現れた。
1つの黒い影から2人ずつ、4人の男女がズルリと現れる。
回復属性のネコ太とボディーガードのエンラ、サスケの闇属性2人、そして、見学者のニーテストである。
「きゃっ!?」
「っっっ!?」
影から出現した4人を見て、美咲と篠原が驚愕する。
「美咲さん、そして奏さん。篠原さんにはすでにお伝えしましたが、我々は魔法使いなのです」
茫然とする美咲と、空中浮遊以外の魔法を見て期待に興奮する篠原。
そして、今まで無反応だった奏がかすれた声でポツリと呟いた。
「おおいなるこねこ……」
読んでくださりありがとうございます。
ブクマ、評価、感想大変励みになっています。
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