後編
その後、どのように帰ってきたのか覚えていない。
気がつくと、着替えもせずに部屋のベッドに突っ伏していた。
服が皺になってしまった。後でメイドに謝らなくては。
そう思いながらも着替えを呼ぶ気にもなれず、力無く起き上がる。
もう外は暗くなっていた。
――トラビス様が好き?
そんなわけない。
ユリアナと婚約したトラビス様はとにかく学者肌で難しい議論を交わすのが好き。言動も比較的乱暴だ。そこがユリアナは好きなようだが、私は、正直少し怖かった。あんなふうに議論をふっかけられたら、何も答えられないだろうと容易に想像がついた。
それに――。
「私はたぶんトラビス様にユリアナを取られた気がしてるのね」
そうつぶやいた言葉がお腹に落ちてくるように実感を伴って染み込んだ。
そうか。最近元気が出なかったのは、そのせいか。
そこまで考えて、自分の身勝手さに心が沈んだ。
エルモに、トラビス様が好きなのかと聞かれて、あんなに腹を立てて、失礼な態度をとったのに、ユリアナと同じと言われて、あんなに怒ったのに、結局ユリアナから離れることを一番恐れていたのは自分なのだ。
エルモの驚いた顔を思い出して、私はもう一度ベッドに顔を埋めた。
恥ずかしい。
乾いたはずの涙がまたシーツに染みた。
そのあと、しばらくしてユリアナの婚約が発表された。結婚準備で忙しくなるユリアナと私は別行動になることが多くなった。そうなると、夜会で一人でいる私に、話しかけてくる令嬢が現れた。私たちの区別なんてついていないようにふるまっていたのに、ちゃんと私の方が、おとなしい方だということはわかっているようで、ユリアナがいる時よりも露骨な態度をとってくる人もいた。
そんな時はヨアキム様やアルヴィがさりげなくそばに来てくれたり、カティが面と向かって「何が言いたいんですか」なんて言ってくれたりした。
だけど、エルモは、近づいてこなかった。
正直、絡まれるのはあまりいい気持ちではなかったけれど、今は侍女として殿下のそばに居て、令嬢に絡まれても強く出られないだろう大好きなヘレナ様を守っていると思うと我慢できる気がした。でも、心細かった。
アルヴィに相談があると言われたのは、そんな日が少し続いた後だった。
登城する日ではなかったけれど、アルヴィの非番の日と合わせていたら、ずいぶん先になってしまいそうだったので、急遽お城で会うことになった。
騎士の詰め所近くの庭園の四阿で待ち合わせしたアルヴィは、騎士になってますます大きくなった体を今日は縮こまらせている。珍しくいつもの快活さがなりをひそめていて、もごもごと挨拶をしてきたきり、手元をみたり、景色を見たりして落ち着かない。
私も、会話の口火を切るのは苦手なので、アルヴィの様子を訝しみながらも、一緒に景色を眺めていた。
しばらくそうしていると、アルヴィがすうっと息を吸った。
それに気づいて、アルヴィを見ると、ひどく深刻そうな顔をしていた。私もそれにつられて背筋を伸ばした。
「俺、――侍女として上がっている子爵家のベスが好きなんだ」
「――え?」
偉く堅苦しい手紙で呼び出されたと思ったら、どんな深刻な話かと思ったら、恋愛相談だった。
「それで、呼び出されたの、私。……どうして私に?」
「いや、姉様は一緒に侍女として働いているから、気まずいだろうし。カティやユリアナに相談しても、とにかく当たっていけ、当たって砕けろとしか言われないのは目に見えてる」
「まあ――」
そうだろうなと思った。アルヴィは、小さいころから体を動かすのが大好きで、そのまま騎士になって男性ばかりの生活だから、正直私たち以外の女性との交流は少ない。だけど、侍女のべスさんね。
確か、ヘレナ様と一緒でヴィルヘルム殿下付きの侍女だ。
アルヴィも殿下付きなので、顔を合わせる機会も多いだろう。
そういえば、二人で一言二言話しているのを見たことがある。
アルヴィに向けるベスさんの笑顔は柔らかく、感触は悪くなかったけど。
「それとなく、好意は伝えているつもりなんだ。嫌がられているわけではなさそうだけど、のらりくらりとかわされているというか……」
それは、わかる気がする。
ベスさんは、地方の子爵家の出だ。ご本人が優秀だから、王子付きにまで抜擢されたけれど、おうち自体にそんなに力があるわけではない。中堅どころとは言え、侯爵家出身の近衛騎士に「それとなく」好意を伝えられたからと言って、自分から積極的に動くことなどできないだろう。
私が、それを言うと、アルヴィは目を丸くしたあと、納得したように笑った。
「そうか。まあ、結局は当たって砕けろなんだな」
そう言われてしまうと身も蓋もないけれど、まっすぐな性格のアルヴィはどうやらふっきれたようだ。
ともかく、家格が上のアルヴィがはっきり求婚しないことには、向こうとしても家格の低い家の娘をからかっているだけなのか、それとも本気で好意を持っているのか測りがたいだろう。
「ヨハンナに相談してよかったな。やっぱり同じ問題を抱えているからよくわかるんだな」
「……え?」
驚いて目を見開く私に、アルヴィはいたずらっぽい笑みを向けた。
「エルモ、頑張ってるよ。殿下や俺ほどの剣の腕はないけど、さすがヨアキムさんの弟だけあって、周りをよく見て戦略を練ることにかけてはほかに引けを取らない」
「……そう」
「このままいけば、伯爵家の次男ってだけでなく、騎士として叙勲される日も近いよ。でもしょせん騎士爵だ」
そこまで言われて、私はやっと気づいた。
アルヴィに言ったことは、私にも当てはまるって。
「エルモとなんかあったんだろ。最近、暗いんだよな。夜会でも、ヨハンナになるべく変なのが近づかないようにけん制しているのに、いざとなったら近くに行かないし」
「――え?」
知らなかった。エルモも、私を守ってくれていたの? 私、ひどい態度をとったのに。
アルヴィは、私ではなく、四阿の周りの茂みに視線を向けていたけれど、視線をわたしに戻して、私の顔を覗き込んだ。
「ヨハンナ。お前も当たって砕けてみろよ。天下の公爵令嬢様だろ」
「アルヴィ……」
じゃあ俺は、これで! よし、交代だ!
そう大声で言うと、アルヴィは茂みに向かって走り出し、そのまま飛び込んだ。
ドン!という音がして、茂みから何かが飛び出してくる。
私は、思わず腰を浮かしたが、出てきたのは――。
「エルモ……」
気まずそうな顔のエルモだった。休憩時間なのだろうか。騎士服のままだ。
「やあ。ヨハンナ」
目線を下げたまま、いつもより小さな声でエルモが話す。久しぶりに聞くエルモの声だ。
「アルヴィがヨハンナと会うというから……。いや、決して何かを疑ってとかじゃなく……。いやまあ、なんか気になってというか……」
もごもごと話すエルモに、だけど、久しぶりに近くで見たエルモに、私は何故だか泣きたくなった。震えそうになる声を抑えて努めて冷静な声を出す。
「――座らない? エルモ」
はっとして顔を上げたエルモは、私の顔を見て、少し眉を寄せたけれど、うんと言って先ほどまでアルヴィが座っていた席に着いた。
私は手元に目を落として口をひらく。
――なにから話そう。
「エルモ。あの時はああ言ったけれど、私、別にトラビス様のことが本当に嫌いなわけではないのよ。多分、寂しかったの。ユリアナがトラビス様に取られた気がして。ユリアナと一緒にされて怒ったのに、勝手でしょう」
「別に、ユリアナと一緒にしたわけじゃ……」
「うん。誰よりもユリアナと違う私を見てくれているのはエルモなのにね」
そう言ってエルモの顔を見る。目を見開いて固まっているエルモがいた。
「夜会で、私のこと守ってくれていたんですってね」
「――アルヴィか」
あいつめ……と呟くエルモの耳が赤い。そんなことにも泣きそうになる自分がいた。
「でも私、寂しかった。ユリアナがいないことより、エルモがいないことが」
「ヨハンナ……」
「私ね。勝手に、エルモは私ので、私もエルモのなんだって思ってたみたい。私が、トラビス様を好きなんじゃないかって言われて、ショックだったのは、それをエルモに否定されたような気がしたから」
「そんなつもりじゃ――」
「うん。アルヴィが教えてくれた。私、何も考えていなかったし、何も伝えていなかった。エルモが苦しんでいたのも知らなかった。ごめんなさい」
「苦しんでなんかいないよ。全く望みがないとも思っていなかった。だけど、自信がなかった。もっと釣り合う相手がいるんじゃないかって。そうしたら、今の関係も終わってしまうんじゃないかって。だから、焦ってあんなこと――」
ごめんと呟く声は後悔に塗れていた。
私は、そっと手を伸ばして、エルモの手を取った。はっとして、エルモが顔を上げた。
「私ね。公爵家の令嬢とは行っても、上にはたくさん兄弟がいるし、国の情勢も安定していて政略結婚の必要はないのよ。ユリアナも、たまたま相手が侯爵家の嫡男だっただけで、別に子爵でも男爵でも反対されなかったと思うわ。――エルモは? そういうの気にする?」
それは、本当だ。公爵家には以前から、お世話係の事情は伝えられていた。殿下がヘレナ様を望んでいること、けれど八つも年上のヘレナ様を年頃になっても望むかどうかについて周りの大人たちは懐疑的なこと。王子妃候補と言われるだろうけれど、殿下が大人になったときにどうなるかはわからないこと。そう言った事情をすべて飲んでのお世話係だ。末の双子で政治的な結婚をしなくて良い二人だからこそ選ばれたのだ。ユリアナの結婚も、トラビス様が侯爵家の嫡男だということは考慮されていない。
私がエルモの瞳をみて微笑むと、エルモが私の手を強く握り返してきた。
「ここからは、僕が言っていい?」
私は黙ってうなずく。
「身分差を気にするかと言われたら気にする。いくらヨハンナのうちが良いと言ってくれたって、周りまでそう考えてくれるとは思えないからね。だから、このまま努力は続ける。このままいけば、騎士爵がもらえそうだ。それでも公爵家には釣り合わないけれど、もっと努力してヨハンナにふさわしい人間になる。だから、ずっと一緒にいてくれる?」
エルモ以上に側にいてほしい人なんていないのに。でもエルモらしいと思った。
「――ええ。私もエルモにふさわしい人間になるよう努力するわ」
安心したように微笑んだエルモは、私のよく知っているエルモだった。
その後政情的な問題から正式な婚約発表の時期までは殿下の婚約者候補筆頭として過ごさなくてはならず、なかなか正式発表させてくれないヨアキム様に珍しく怒っていたエルモだけれど、いざ二人の婚約を発表したらヘレナ様が誘拐されかける(というかほぼされた)ということがあったので、やっぱりちょっとくらい夜会で嫌味を言われても婚約はギリギリまで隠しておいてよかったんだなと思った。
そうエルモに伝えたら、ヨハンナは人がいいなと何故かため息をつかれた。
「そう?」
「そうさ。兄さんにうまくタイミングを計られたんだよ」
そういえば、誘拐未遂事件のあと、すぐに婚約を正式に結ばれた殿下とヘレナ様に続いて、カティとヨアキム様も婚約を発表していた。
カティは成人したばかりだった。それと関係があるのだろうか。
「まあ、いいよ。ヨハンナはそのままで。兄さんの腹黒さを思い知る必要はないからね」
呆れたように言うエルモの言葉の意味はよくわからなかったけれど、聞き返す前にその話はもうおしまいと言って、エルモは花の図鑑を目の前に置いた。
私たちの結婚式に飾る花を選ぶのだ。
「ヨハンナ、どれがいい?」
そう尋ねるエルモに寄り添うように花の図鑑をのぞき込む。
「これがいいわ」
私が指さしたのは、私たちが幼い頃から過ごした王宮の中庭に咲く花。私たちの思い出の多くはあの庭につながっている。
エルモを見上げると、同じことを想っている瞳と目が合った。
侯爵家にお嫁に行ったユリアナ。殿下の婚約で解散となったお世話係。
だけど、私はたぶんもう一人でも大丈夫。
これからはエルモと一緒に一つ一つ選んでいこう。
私たちの結婚式は、あの中庭を模した暖かな日差しの庭で執り行われた。