第零話 社
ーー神様を最初に見たのはいつだったか。
私は記憶を遡った。古く、所々が剥げ落ちた記憶の間を通り抜け、最も古い記憶にたどり着いた。
それは全く衰えていなかった。時の流れという風雨にさらされながらも、その記憶はしっかりと生きていた。
そう、確かこの日ーー
・ ・ ・
夏の日差しを受けて緑葉が薄くその身を透かしている。
漏れ落ちた光の雨の中を、一人の少女が声を上げながら走り回り、黒い髪に映る木漏れ日をなめらかに滑らせている。
三歳ほどだろうか。橙の瞳を宿し、まだ伸びていない髪を揺らしながら、溢れんばかりの笑顔で父を呼んだ。
「前を見ないと危ないぞ」
男は笑顔で返した。
小さなは林を抜け、道に出ると、その勾配は途端にきつくなった。
少女は数歩足を進めたが、途端に立ち止まり、また父を呼ぶ。
「お父さん、抱っこ...」
よしよし、よく頑張った、と撫でながら、男はその腕に少女を担ぎ上げた。
太陽はその背をじっと見つめたまま、同じように少女を照らした。
ーー父の肩から見た景色はいつも特別だった。自分が新しくなれたような、そんな気がした。
「もうすぐだ」
前を見ながら、腕に抱いた私に話しかける。
この時の父の挙動一つ一つは鮮明に私の記憶に縫い付けられている。息遣いも、歩を踏み出す時の揺れも、彼が見ていた景色も。
首を前方に据えると、古びた赤い鳥居が石階段の上に取り付けられていた。
「ついたぞ」
父はゆっくり、私を地面に降ろした。
手を繋ぎながら、おぼつかない足取りで石段を一つずつ踏み、小さな一歩で登っていく。
鳥居をくぐった先には、小さなお賽銭箱が前に置かれた社が一つと、その奥には首を垂直にして見上げるような御神木がうわっていた。
木々が取り囲む場の中で朱は異質でありながら、同時にとてもよく馴染んでいた。その相反を共有した風景が、私は好きだった。
「神社を見に来たのは、初めてだった?」
「うん」
私は目の前の光景に釘付けになりながら頷いた。
社は古びていて、地震が起きればすぐに壊れてしまいそうなくらい脆そうなのに、そこから感じられる気配はこの上なくしっかりとこの地に根付いていて、太い御神木は地面に打ち込まれた杭のようにすら思えた。
どこにでもあるような、普通の景色。
それなのに私は、それに雄大さを感じずにはいられなかった。
「この村を守ってくださる神様がお住まいになっている。一度挨拶して行こうか」
父はそういうと、目を見開いたままの私の手を引っ張ってお参りをさせてくれた。
神が住んでいる。
父は、半ば概念的な捉え方で、そう言ったのだろう。今なら分かる。
しかし社に近づいた時、私には神が見えた。
父親は気づいていないようだった。
神は、賽銭箱の奥、私たちより高いところにある床に、上半身だけ見える形で佇んでいた。御神木の場に通ずる道の照らす光が逆光を作り出し、神を影に染めていた。
顔を隠す白い布には墨の模様。純白の布を浮かせ、黒い煙を纏ったような巨体でこちらを見下ろしている。その両脇から伸びる堅そうな黒く細い手が、徐々に、ゆっくりと、こちらへ伸びてくる。
私はなぜか、怖いとは思わなかった。
神がいたことも、その硬い手で私に触れたことも。
ーーだからその後、父が私の額を見て悲痛な表情になった時、本気で驚いたのだ。
「...なんで......その額は...」
そう呟いてから、しばし震えていた父は私を突然ぎゅっと抱き寄せた。私は何が何だか分からず、ただ父の変わりように驚き、目を瞬かせるだけだった。
思えばあの時、父は泣いていたのだろう。
私はもう一度、神を見た。
何事もないように、神はそこでじっとしていた。
静かな時の流れ、その最古の記憶。
私は初めてあの時、この村に触れたのだった。
私の書きたいことを全て盛り込んだ作品です。次話以降もお付き合いしていただけるならこれに勝る喜びはありません。