ある洋食屋の風景 ガスパチョ編
「おはようシェフ!またいっぱい出来ちゃったからさ、これ使ってくれよ」
私は家庭菜園で収穫したトマトとキュウリを自宅近くにある洋食屋のシェフに差し入れた。
「もぎたてで瑞々しくて美味しそうですね!いつもすみません!」
「シェフのマジックでこいつらを美味しい料理にしてくれや!もっとも、トマトとキュウリじゃマジックのかけようがないか?」
現役時代は仕事人間で無趣味だった私。しかも家庭の事は全て妻任せ、家族を旅行にさえ連れて行った事が無かった。
ふたりの子供も巣立った事だし、定年後はゆっくりと海外旅行にでも行って、妻を労いながら夫婦ふたりの生活を楽しむつもりだった。
しかし、妻は旅行などには行きたくないと言い出した。小さな畑を借りて、私と一緒に家庭菜園で野菜を作るのが長年の夢だったと言う。
それまでは、全くそんな話しを口にした事も無かったので、私は少し面食らったのだが「実はもう、畑も借りて有るんだよ♪」と話す妻。子供の様に目を輝かせる姿を見ていたら、私自身も楽しみになってきた。
妻の友達である経験者にアドバイスをしてもらいながら人生初の野菜作りを始めたのだが、最初はなかなか思うような収穫は獲られなかった。しかし、それでも妻は楽しそうだった。そんな妻を見ていると、それまで仕事にかまけて殆ど家族をかまわなかった自分を悔いた......
経験を積むと少しづつまともな野菜が作れるようになった。自分達が手塩にかけて作った新鮮な野菜達の味は格別だ。
ある日、我が家では食べきれない程に収穫した野菜を近所の洋食屋にお裾分けしようと妻が言い出した。私自身は家族の記念日くらいにしか利用した事がない店だったが、妻は度々友達とランチに訪れていた様で、シェフやシェフの奥さんとも懇意にしていると言う。
それからは、差し入れをした日にはその野菜を使ったシェフの料理をお店で頂くのが二人の楽しみとなった。
しかし、家庭菜園を始めて二年が経った頃、妻の身体は癌という病魔に侵されていた。気が付いた時にはもう手遅れだった。
あまりにも呆気なく逝ってしまった妻。私は暫くの間、魂の抜けた様な状態になってしまった......
シェフはそんな私の姿を見兼ねて、手を差し伸べてくれた。「奥さんと一緒に頑張っていた畑は続けましょうよ!大変な時は私も手伝いますから!」私はその一言に支えられて、家庭菜園を続けられた。
そしてもう一つ、シェフの趣味であるジョギングに誘われた。学生の頃、陸上部で長距離を走っていたとはいえ、60歳を過ぎてから始めるジョギングには抵抗が有ったが、身体を動かす事も良い気分転換になるだろうと思い、シェフの誘いに乗った。今ではジョギングも家庭菜園と供に私の生き甲斐になっている。
「シェフ、明日の定休日は何か予定でも有るの?一緒に走れるのかい?」
「仕込みは午前中にケーキを焼くくらいなので、午後から走りましょうか。7月に入って、気温もかなり高くなってきたから無理せず軽くながしましょう」
シェフの休日には一緒に走り、その後ふたりでシェフの店でビールを頂くのがささやかな楽しみだ。
約束の日にふたりで気持ち良く走って、いつもの様にシェフの店へと赴いた。カラカラに渇いた喉を早くビールで潤したかったのだが、その日はビールより先によく冷えたガラスの器に注がれた真っ赤な液体が用意されていた。
「今日はこれを先に頂きましょうよ。昨日頂いたトマトとキュウリで作った冷たいスープ『ガスパチョ』です。汗をかいたあとにこれを飲むと生き返りますよ!」
「ほー、ガスパッチョか......」私は今までそれを味わったことが無かった。私は特に好き嫌いは無いのだが、何故か冷製スープというのが苦手だった。
「奥さんから聞いてますよ。旦那さんは冷製スープがあまり好きじゃないって。だけど、今日は敢えてご用意しました。騙されたと思って飲んでみて下さい!」
恐る恐る口に含む。すると、身体中の力が抜けるような美味さが私のからだを潤してくれた。
「あのトマトとキュウリでこんなに美味いスープが出来るのか。まさにシェフのマジックだな!」
「トマト、キュウリに玉ねぎ、ピーマン、にんにくとオリーブオイルを加えてミキサーで粉砕するだけですけど、どうです、いけるでしょう!」
そして、添えられているフランスパンとチーズがいい。フランスパンはスープに浸して食べると更に美味いし、チーズはその塩気がスープと良く合う。
「シェフ、悪いんだけど今日はビールじゃ無くてワインが欲しいね!」
「そう言うと思って、もう用意して有りますよ」
ひとしきり飲んだあと、私はふと妻の事を思い出して、思わずしんみりとしてしまった。
「なあシェフ、うちのやつはこのスープの美味しさを知っていたのかな?」シェフがその答えをあっさり出してくれた。
「ええ、かなりの好物だったようですね。夏場は予約注文されるほどでした。旦那さんが冷製スープを好まないので、お友達とのランチで召し上がってましたよ」
「そうか、そんなにこのスープが好きだったのか......」
自分の好物のスープを予約注文して、友達とお喋りでもしながら味わっていたのだろう。こんな私に気を使う生活をしながら、彼女も彼女なりに自分の人生をささやかに楽しんでいたのだ。
妻に苦労をかけ通しだった私。これから第二の人生を供に楽しもうと思っていた矢先に逝ってしまった妻に負い目ばかりを感じていたが、そんな一面を知り、ほんの少しだけホッとして胸を撫で下ろしたのであった......
fin