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杉尾真衣が、北原真衣となって一ヶ月ほど過ぎた。
美代は毎日、本当の母親のように真衣の面倒をみた。
清司は、まだ「血の繋がらない子ども」という考えが頭の中にあった。
だがそのうちに、美代のように本当の父親になれるだろうと信じ、心の底から真衣を愛した。
真衣はあまり泣かず、いつもにこにことしていた。栄一はいつも無愛想だったので、この子は母親似なのかもしれない。
きっと大人になったら、あの妻と同じく美女になるだろう。そう考えると、これからの娘の成長が楽しみになった。
しかしその裏で、栄一のことも考えていた。
真衣を渡した後、栄一はどこかに向かって歩いて行った。
すぐに清司は呼び止めた。
「待って!」
すると栄一は立ち止まった。だが振り向きはしない。
「栄一くん、どこに行くの?これからどうするの?」
どきどきしていた。何と答えるか、不安だった。
栄一は前を向いたまま、頭を上げた。空はどんよりとたくさんの雲が浮かんでいる。
「栄一くん」
もう一度いうと、栄一は話し始めた。
「前にいっただろ。俺は、一生殻の中で生きていくんだって」
昔と同じく、馬鹿にしたようないい方だった。
「殻の中って……、栄一くんの殻の中って……どこにあるの?」
しかし今度は答えなかった。そのまま真っ直ぐ歩き、やがて姿が見えなくなった。
何故か追いかけることができなかった。栄一の背中が、連いてくるな、といっていた。
それから約一ヶ月経った。いま栄一は、どこにいるのだろうか。
生きていてほしい。
清司は何度も祈った。殻の中でもどこででもいい。生きていてほしい。栄一が死んでしまうということが、とてつもなく怖かった。
栄一を探すことではなく、真衣を育てることの方が大事だと清司は思うことにした。
もうどんなにがんばっても、栄一とは会えないだろう。だったら、もっと違うこと……真衣を幸せにすることの方が、大切だと決めた。
たくさんの愛を注ぎ、真衣はすくすくと育っていった。真衣の笑顔は、清司と美代の心を癒してくれた。
わがままは一つもいわず、親思いの優しい女の子になっていった。
真衣はとても手先が器用で、美代の料理の手伝いをするのが大好きだった。
そんな真衣を、清司は栄一に見せてあげたいと何度も思った。
大切な我が子の姿を見たら、栄一はどんな想いになるだろう。
もちろん、腹を痛めて真衣を産んだ、あの妻にもだ。
彼女はもう死んでしまった。栄一がいっていた悪魔とは誰なのか。
「真衣ね、お父さんのこと、大好き」
そういわれると、清司の胸はちくちく痛んだ。本当の父親は、自分ではなく栄一だ。真衣が大好きという相手は、栄一なのだ。
真衣は何も知らない。
自分の両親も、本名も。
大好きという相手も、料理の手伝いをしてあげる相手も。
何も知らないまま、生きていくのだ。
真衣のことが、かわいそうだと清司は思った。
「いつか、真衣が大人になったら、本当のことを教えてあげよう」
清司の言葉に、美代は反対した。
「そんなことをしたら、真衣はもっと傷ついちゃうよ」
「どうして?」
そういうと、美代はちらりと真衣を見て、話し始めた。
「もし本当の両親のことを知ったら、誰だって会いたいと思うでしょう。でも、もう栄一さんとは会えない。そうしたら、真衣、孤独で押しつぶされちゃうよ」
清司は真衣が独りきりで泣いている姿を想像した。そんな真衣は、絶対に見たくないと思った。
「じゃあ、ずっと嘘をついたまま一緒に暮らしていくの?」
「それが一番いいよ」
美代は即答した。そして、真剣な眼差しを向けてきた。
「私、真衣を手放したくない。血が繋がっていなくても、真衣は本当の娘だって思ってるもん」
清司は頷いた。清司も、美代と全く同じ考えだった。
「そうだね。真衣を幸せにするのが、僕たちの使命だ」
そういって、真衣をじっと見つめた。




