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「栄一くんの子どもを、僕たちが?」
栄一は頷き、震える声で話した。
「俺一人じゃ、子どもを育てられねえ。育てられたとしても、幸せにはできない」
そして、真剣な目で清司を見た。お願いだ、といっているように感じた。
「でも」
清司は動揺を抑えながらいった。
「僕たちだって、栄一くんの子どもを幸せにできるかわからないよ」
しかし栄一は顔を変えず、さらに続けた。
「俺は、生まれてすぐに養護施設に連れて行かれて、そこで育った。毎日気が狂いそうなほど、孤独でいっぱいだった。あそこがどれだけ酷い世界か、俺が一番知ってる。誰にも愛されていないと思いながら生きていくんだ。俺は、自分の子どもが、あの世界で孤独に生きるなんてことは、絶対したくねえんだ」
そして、いらついた口調でいった。
「俺一人じゃ、子どもを愛することはできねえ。あいつが一緒にいなかったら、意味がねえんだよ」
「栄一くん……」
以前とは全く違う栄一を見て、清司の胸は暗くなった。栄一が、どれほど孤独な日々を送ってきたか、そしてどれくらい妻を愛していたか、さらに、その妻を失ってしまった悲しみが、痛いほどわかった。
栄一は、もう一度頭を下げた。自分に向かって、あの栄一が頭を下げる時がくるなど、夢にも思わなかった。
「頼む。お前しかいねえんだ」
栄一の低い声が聞こえた。しかし清司は迷っていた。
血の繋がっていない子どもを、自分は愛せるだろうか……。
そして、幸せにすることができるだろうか……。
立ち尽くしている清司の後ろから、突然声が聞こえてきた。
振り返ると、美代が真剣な眼差しで清司の顔を見つめていた。
「育てようよ」
「え……」
驚いて目を丸くすると、美代はまたいった。
「育ててあげようよ。私たちで」
本気なのだとはっきりわかった。本気で、栄一の子どもを育てようと思っている。
「でも、血が繋がっていないんだよ?」
そういうと、美代は首を横に振った。
「血が繋がっていなくたって、私は子どもを愛せる。よくいうでしょ。産みの親とか育ての親とか。私たちは、育ての親として、子どもを愛してあげよう」
子どもが生まれず、ずっと悲しんでいた美代にとって、これは最大のチャンスだった。例え他人の子どもでも、母親になれるのだ。これを逃したら、もう完全に美代は母親にはなれない。
どうしたらいいのか、清司はわからなくなった。美代も望んでいるのだから、育ててあげた方がいいのだろうか。
「頼む。俺の子どもを、幸せにしてやってくれ」
「二人で、大切に育ててあげよう」
栄一と美代の声が重なった。二人の強い想いが、清司の迷いを消した。
「……わかった」
その一言に、二人はほっとしたように息を吐いた。
栄一は振り返り、すたすたと歩き出した。
あわてて清司は靴を履いた。すると栄一が首を横に振った。
「子どもを連れてくるから、ここで待ってろ」
清司は緊張した。子どもの姿を想像し、怖くなった。
だがもう子どもを育てるといってしまった。逃げることはできないのだ。
しばらくすると、赤ん坊を抱えた栄一が戻ってきた。赤ん坊はすやすやと眠っていた。
「可愛い」
美代は目を輝かせた。ついに夢が叶ったのだ。もう粉々に砕け散ることはない。
美代に赤ん坊を渡す栄一に、清司は訊いた。
「性別は?」
「女の子だ」
清司の顔を見ず、静かに答えた。
「名前は?」
同じように訊くと、栄一はふっと息を吐き、清司の顔を見つめた。
清司が、最後の最後までわからなかった、どこか遠くをを眺める目をしていた。どす黒く濁り、光など見えない。清司はその真っ黒の世界から目が放せなくなった。
「真衣だ。……愛子が付けたんだ」
消えそうな声を聞き、清司は声が出せなくなった。栄一の心の中の寂しさを、もろに感じた。
蝉は、殻の外では、二週間しか生きられない。
すぐに死んでしまう。この世から消えてなくなる。
風で飛ばされるほどの、小さな抜け殻だけを残すだけだ。
けれど殻の中では何年も永く生きる。
だったら、殻の中にじっとしていればいい。
誰も知らない、もろい殻の中。
人間の汚らしい心、残酷なところ、そして信じたくないことだけしかない殻の中。
これが、栄一の「殻の中」なのか………。
突然涙が溢れてきた。そして止まらなくなった。
殻の中で、栄一は、ずっとずっと生きている。
清司には想像できないような殻の中で、栄一は生きている。
そして、これからも、その殻の中で生きていく。
栄一の殻の中を知り、清司は鋭いナイフが胸に深く刺さったように感じた。




