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女性の名前は西口美代といった。
心理カウンセラーを目指し、日々努力をしていると話した。
しかし全く患者を助けられず、悶々としているようだ。
清司は美代を警戒していた。部屋に入ってからも、余計なことはいわないように口を閉ざし、美代を睨みつけていた。この女を信用していいのか、迷っていた。
もしかしたら部屋に連れて行き、こっそり警察に報告しようと考えているのではないか。
もう警察にびくびくする生活は嫌だった。
死んでしまえば、そういうことはないだろう。早く、早くこの世から消えてしまいたい……。
「何か話してください」
美代は優しい目つきで清司を見つめた。だがこれも芝居なのでは、と思ってしまう。清司は黙ったまま、目を逸らした。
美代はため息をつき、もう一度話しかけた。
「せめて名前だけでも教えてください」
だが清司は何もいわなかった。完全に無視をしていた。
「どうして何もいわないんですか」
しかし答えなかった。何が何でも、この女を信じないことに決めていた。
これ以上、何をいっても無理だと思ったのか、美代も黙ってしまった。
そのまま長く沈黙が続いた。
何時間もそうしていて、やっと清司は声を発した。
「僕はもう決めたんだ」
美代は驚いた顔をし、顔を覗き込むようにして訊いてきた。
「何を決めたんですか?」
清司は独り言のように呟いた。呪文を唱えるような口調だ。
「僕はもう死ぬんだ。死ぬしかない。僕の人生は、これで終わりなんだ……」
美代はさらに目を見開いた。まさかこんなことをいうとは思っていなかったのだろう。
「死ぬって……死ぬってどういうことですか……」
震える声で美代は訊いた。清司は少し笑い、もう一度いった。
「僕はもう何も持っていない。住む家も、家族も、金も、何もかも。何も無くなったんだ。もうこの世にいなくてもいいんだ」
「何をいっているんですか……」
清司は美代の青ざめた顔を見た。他人に怖がられるのは、もう慣れてしまった。
「僕はもう死ぬんだよ。決めたんだ。だからゴミ捨て場に行ったんだ」
「……そんな……」
美代は目をつぶり、首を横に振った。そしてまた訊いてきた。
「もう死ぬなんて、どうしてそんなことをいうんですか。いったい何があったんですか」
清司は美代を睨んだ。いい加減にしてくれ、という目だ。
「あんたには関係ないだろ。早く死にたいんだ。邪魔をするな」
しかし美代は引き下がらなかった。清司を見つめ、震える声で訊いた。
「邪魔だなんて、どうしてそんなことをいうんですか」
「は?」
呆れたように清司は首を傾げた。
「だって邪魔じゃないか。自分が決めたことを、会ったこともない人間にだめだなんていわれたら、迷惑じゃないか」
それを聞いて、美代は悲しげにいった。
「あなたは、目の前で自殺をしようとしている人を見ても助けないのですか?」
清司はすぐに頭を縦に振った。そして、当たり前じゃないか、という目をした。
「信じられない……」
美代は頭を下げ、近くにあった椅子に倒れるように座った。
清司はドアに向かって歩き出した。ゴミ捨て場に戻ろうと思った。
「待って!」
すかさず美代はドアの前に立ちふさがった。両手を広げ、悲しげな目つきで清司を見た。
「どけ」
しかし美代は首を横に振った。
「嫌よ。絶対外に出さない」
清司はいらつき、美代の肩をつかんだ。あまりの痛さに、美代は小さく悲鳴を上げた。
「早くどけって……」
そういいかけた時、清司の目にあるものが入った。
美代の涙だった。死んでほしくない、ずっと生き続けてほしいという涙だ。
人々から気味が悪そうに見られていた自分に、この女性は涙を流してくれたのだ。
突然清司の頭の中に、最後に父がいった言葉が浮かんだ。
「絶対に人を殺そうとしてはいけない」というものだ。
はっとした。いま自分は、自分を殺そうとしていた。殺す相手は他人ではなく自分も入るのだということに初めて気が付いた。
さらに父は「新しい人生を送れ」ともいった。清司のために、父は自分の命を絶ったのだ。それなのに、ここで人生を終わらせてしまったら、父に申し訳なく思えてきた。
「死なないで……」
美代の小さな声が聞こえた。その瞬間、美代の優しさが、心の中に溢れ出てきた。
つかんでいた手を外し、清司は頭を下げた。
「……僕は……」
足元を見つめながら、清司は無意識に声を漏らした。
「僕は、幸せになれる……?」
そういいながら、「人間、皆平等」という言葉を思い出した。
ずっと幸せだけの人はいないし、ずっと不幸だらけの人もいない。
それは、自分が一番知っていたことではないか。
「僕……、幸せになりたい……」
清司は目をつぶり、その場にしゃがんだ。それと同時に涙が溢れてきた。
「幸せになりたい……。また、昔みたいに笑いたい……」
両手で顔を覆い、清司はいった。幼い頃の、幸せだった自分が頭の中に浮かんだ。
「幸せになれますよ」
美代が柔らかな声をかけてきた。ずっとずっと、清司が聞きたかった言葉だった。
「一緒に幸せになりましょう」
清司は頷き、美代にしがみついた。泣いたら負けだと思っていても、涙を止めることなどできなかった。
しばらくして泣き止むと、清司は美代に自己紹介をした。
暴言を吐いてしまったことを、美代は許してくれた。
いままで清司はいろいろな人々に迷惑をかけてきた。
栄一にも、麻由美にも、家族にも、名前の知らない、栄一の妻にも、街の人々にもだ。
後になって自分がやってしまったことに気が付いても、誰にも謝れなかった。
しかし初めて清司は美代に謝ることができた。
そして、許された。
他人に謝ることが、こんなにも心の中がすっきりするものだとは思っていなかった。
美代のおかげで、清司は殻の外に出られた。
殻の外に出るためには、誰にも負けない、強い愛情が必要なのだ。
そうして、清司は美代のクライアントになった。




