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先日のことで、清司は完全に、何もかもを失った。

自分を助けてくれる人も、雨風凌げる場所も、生きがいも未来も……もう何もかもを失った。

これが殻の中なのか……。

心の中で、清司は何度も呟いた。


栄一がいっていた、「殻の中」。

殻の中には、喜びや幸せなんてない。ほとんどが、人間の汚らしい心、残酷なところ、そして信じたくないことだけだ。

人間の汚らしい心は数え切れないほどある。妬み、恨み、憎み……。綺麗な心の持ち主なんて、この世にはいないのだ。

どんなに優しいとか穏やかだとかいわれる人だって、そういう気持ちはあるのだ。

そして信じたくないことは、後悔、恐怖、孤独、劣等、絶望……。

例え今が幸せでも、いつか必ず人間はそういう「信じたくない」と思う時を経験するのだ。

ずっとずっと幸せな人間なんていない。ずっとずっと不幸だけの人間もいない。

だから名外科医の息子だった自分は、地獄のような日々を送り、天涯孤独だった栄一は、美しい女性と結婚をした。

「人間、皆平等」というのは、本当なのだ。

殻の中を歩くようになって、清司は強く感じた。


ある夜、清司は、久しぶりにぐっすりと眠った。

いままでの緊迫した気持ちが、なぜか和らいでいた。

そして夢を見た。くっきりと記憶に残るほど、鮮明な夢だった。

夢の中には家族がいた。死んでしまった、父、母、叔母が、優しい目で清司を見つめていた。

三人の背後には、神々しい光が差し、天国のようだった。

清司、ここへおいで。

突然母の声が聞こえてきた。昔と同じように、柔らかな口調だった。

またおいしいお菓子やご飯が食べられるよ、清司くん、こっちにおいで。

次は叔母の声だ。手招きをしているのがわかった。

清司、早くここに来なさい。ここに来れば、また昔のように、幸せな日々を送れるぞ。

最後に父の声が聞こえた。名外科医の、しっかりした口調だ。この父を、清司は誇りに思っていた。

まるで清司を迎えに来るような夢だった。

目が覚めた時、清司は決意した。

三人が行った世界に、自分も行こうと決めた。

もうこんな毎日は嫌だ。独りきりは嫌だ。

昔のように、家族みんなで笑い合いたいと思った。


最後に自分が行くべき場所を探すことにした。ただ足が進む方に歩いていった。できれば誰にも見られずに、静かに逝きたかった。

真っ暗闇になるまでひたすら歩き続け、清司はある場所で足を止めた。

街灯が一つだけ、ぽつんと立てられていた。その街灯が照らす光の先に、小さな空き地が見えた。

空き地の入り口に、汚らしい文字で「ゴミ捨て場」と書かれていた。中にはゴミ袋と乗り捨てられた自転車と土で変色した、折りたたまれたダンボールと空き缶が置かれていた。

そして周りには、大きく成長した雑草が好き勝手に生えている。

清司はそれらを見ながら、自分もこのゴミと同じ存在なのだと感じた。

誰も回収にきてくれない、見捨てられたゴミ達。自分も世界から見捨てられたのだ。

中に入り、清司はダンボールに腰を下ろした。顔を上げると、どす黒い雲が、清司の最後を見届けようと重なって浮いていた。

清司は前を向き、静かに目を閉じた。すると、いままで生きてきた出来事が、頭の中に駆け巡った。

名外科医の家に生まれ、何の苦労もせず、楽しい毎日を送った。一つ嫌だったことは、兄弟がいないことだった。

六歳の時に、杉尾栄一という同い年の少年がやってきた。どんなに仲良くしようとしても、栄一は心を開いてくれない。栄一が何を考えているか、わからない。とにかく嫌われないように、いつも気をつけながら過ごした。

中学生になり、初めていじめられた。馬鹿だとか、太っているとか、いろいろな人にいわれて悲しかった。けれど栄一は助けてくれなかった。

15歳の時、「鳥居麻由美」という美しい少女との婚約が決まった。毎日麻由美のことばかり考え、彼女にどうしたらもっと好きになってくれるか、悩んだりしていた。しかしその時も栄一は話を聞いてはくれなかった。

麻由美とのお茶会も、全て覚えている。麻由美は、いつもは優しく穏やかだが、突然態度を変える不思議な少女だった。栄一と同じく、何を考えているかわからなかった。

そして栄一に子ども扱いされ喧嘩し、仲直りせずにそのまま栄一と別れた。

それから清司に不幸が降りかかった。栄一の名前を麻由美にいってしまったり、嫌われたくないという思いで不法侵入したりした。

そのせいで父は信用を失い、さらに麻由美を殺したのではと鳥居雪男に疑われ、北原家は全てを捨てて生きることを強いられた。

地獄のような世界で、母は死に、父が死に、さらに叔母も死に、清司は何もかもを失った。

そしていま、自分も同じように、死のうとしている。

涙も出てこなかった。自分は、もう死ぬのだという気持ちに慣れてしまった。嫌な慣れっこだと清司は思った。


清司は閉じていた目をそっと開けた。

すると、空き地の入り口に、人影のようなものがちらりと見えた。

何だろう、と清司は思ったが、気にしないことにした。

また清司が目を閉じたと同時に、突然誰かの言葉が耳に入ってきた。

「あの……」

清司はまた目を開けた。

誰かが、自分を見ている。

死のうとしている自分を見ている。


街灯の光がゆらゆらと揺れた。

誰かが、空き地の入り口に立って、清司を見つめていた。















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