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しばらくして、清司は正気に戻った。

心の中がぽっかりと空き、目の前が霞んでいた。

何もわからない。自分が生きているのか死んでいるのかもわからない。

だが、もう自分の人生はここでお終いだという言葉が頭のどこかでぼんやりと浮いていた。

よろよろと立ち上がると、突然後ろから「おい」という低い声が聞こえてきた。

振り向くと、喧嘩強そうな男が睨んでいた。

「何やってんだ。お前」

男はいまにも清司を殴ろうという目をしていた。

清司は体から血の気が引いていくのを感じた。体内が氷のように冷えていく。

「……いえ……」

震える声でそういうと、男はさらに目つきを鋭くし、じりじりと近寄ってきた。

清司は周りにいる人間を見回した。誰か助けてくれ、と願った。

しかし喫茶店にいる誰もが、清司を白い目で見つめていた。完全に軽蔑していた。

いきなり店内に飛び込み大暴れし、人妻を無理矢理連れて行こうとした男に同情する者などいるわけがない。清司は、いま自分がやったことを思い出した。後悔しても、もう遅い。いつもこうして後になってから、自分がやってしまったことに気が付くのだ。大人の頭だったらもっと考えて行動するだろう。

「婚約者とか、何馬鹿なこといってるんだ?お前、頭おかしいのか?」

清司は頭を激しく横に振った。

「いえ……。ただ、その、昔、僕の婚約者だった女の子にすごく似てたから……」

「それで、こんなに大騒ぎして、みんなに迷惑かけたってことか」

じろりと見つめる目に、清司は気圧された。もう何をいってもこの男には勝てないと思った。

「誰か、警察を呼んで」

どこかで恐ろしい言葉が聞こえてきた。

清司は顔を真っ青にした。そんなことをされたら、また警察に狙われることになってしまう。しかも次はたった一人で逃げるのだ。誰も助けてくれない、悪夢の日々が始まるのだ。

「ごめんなさい……。大暴れして、迷惑をかけて、ごめんなさい……」

頭を下げて謝ったが、誰も顔を変えない。こいつは犯罪者だ、と全員が思っている。清司を庇う人間は一人もいなかった。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」

祈るように両手を合わせた。しかし神も清司のことを助けてはくれないようだった。

昔、父に、「父さんではなくて麻由美さんに謝れ」といわれたことがあった。

失礼なことをしてしまったのは麻由美なのだから、父親に謝っても意味がないということだ。

いまここで謝らなければいけない人物は栄一と妻なのだ。

しかしもう二人は店を出て行ってしまった。

どれだけ泣いて謝っても、清司は許されないのだ。


とぼとぼと公園に戻ると、清司は地面に大の字になって倒れた。

栄一に殴られたところが、じんじんと痛んだ。歩き続けた足も痛い。しかし、それよりも悲しかったのは、栄一と麻由美にそっくりな美しい女性が結婚していたということだ。

清司の心はずたずたに引き裂かれ、風に飛ばされるように散っていった。

いつだったか。美しい麻由美との婚約が決まった時、清司はこういった。

「大丈夫だよ、栄一くん。きっと栄一くんも、可愛い女の子に出会えるよ」

そういって、栄一を励ました。

確かに栄一は美しい女性と出会い、結婚した。

だが、あれは、「自分も麻由美ちゃんと結婚して」という意味でいったのだ。栄一が幸せになり、自分は地獄に堕ちるという意味ではなかった。

なぜこんな目に遭うのか。どうして自分はこんなに酷い生活を送らなければいけないのか。


そして、栄一の妻となったあの女性は、本当に麻由美ではないのか。

鏡に映したように、まるっきり何もかもが同じだった。

顔も、体つきも、声も、睨んだ目まで、麻由美と一緒だった。

では誰なのか。麻由美は一人っ子で、双子もいないはずだ。名前も聞けなかったから、彼女を探すことはできなかった。

ふとあることに気が付いた。

麻由美は、まるで二重人格者のようだと思ったことがあった。

いつもは穏やかなのに、突然冷たくなるのだ。

もしかして、栄一の妻になったのは、麻由美のもう一人の人格の人間ではないのか。

だったら清司を知らないのは当然だし、清司を好く思わないというのもわかる気がする。

本当なのかはわからない。たぶん、もうあの喫茶店に栄一たちはやってこないだろう。清司も、もうあの喫茶店には行けなくなってしまった。

たった一つの、小さな小さな幸せを、清司は失ったのだ。


清司の泣き声をかき消すかのように、雨が降り始めた。

とても静かな雨音だった。









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