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愛子は鳥居家にいた時のことを話した。こんな話したくないんだけど、と前置きをしてから話が始まった。
「毎日毎日どうやって逃げ出せばいいのか、寝ないで考えてた。栄ちゃんとまた会うには、屋敷から出て行かないといけないからね。考えながら、もう死んじゃおうかとも思ったよ。でも死んじゃったら栄ちゃんに会えなくなっちゃう。本当につらかったよ」
愛子の話を聞き、栄一は北原家にいた時のことを思い出した。
自分も、何度も死にたいと思った。毎日清司の世話をしなきゃいけないのかと思うと、眠れなかった。いったいいつまでこいつの面倒を見なきゃいけないのかと思うと、気持ちが悪くなった。
「金持ちの家だっていってたけど、実際はどうだったんだ?」
訊くと、愛子は不快な顔をした。
「最悪だよ。地獄よりもひどいんじゃないかな。あの鳥居雪男って男は悪魔だよ。にやにや顔で、タバコとお酒の臭いがして……。本当に最低な人間だった。死んじゃえばいいのにって思ってた」
そこまでいうと、愛子は少し声を小さくした。
「それに、あの男は娘を殺したんだよ」
「殺した?」
驚いた。殺したとはどういうことか。
「そう。あいつは自分の娘、麻由美って子を見殺しにしたの。海で娘が迷子になっちゃって、だけど探しもしないでただ待ってた。だから、その麻由美って子は溺死したの……。それなのに涙一つ落とさなかった。何となく娘がいないと格好悪いからとかいって、あたしを『麻由美人形』として引き取ったってわけ。要するに、六歳の女の子だったら誰でもよかったってことだよ」
「そうか、それでお前は麻由美って呼ばれてたのか」
そういうと、愛子はまた話し始めた。
「だからあの馬鹿男は『麻由美ちゃん』とかいってたの。デレデレしちゃって気持ち悪い男だった。馴れ馴れしくって、顔も見たくなかった。あいつと結婚するくらいなら、死んだほうがまし。あんな馬鹿男と結婚したいなんて思う女の子、一人もいないと思うよ」
愛子は清司のことを名前で呼ばなかった。「馬鹿男」や「気持ち悪い男」など、いろいろな名前で呼んでいた。もう本名を呼びたくない程嫌っているということがはっきりとわかった。
そして、愛子の口から「死」という文字が出てくることが、栄一は悲しかった。
愛子がこんなことをいうようになってしまったのは清司のせいだ、とさらに憎んだ。
「栄ちゃんもあの気持ち悪い馬鹿男に付きまとわれてたのね」
「うん」
栄一は大きく頷いた。栄一も清司のことが大嫌いだ。
「勝手に兄弟にされて、大親友とかいわれて迷惑だった。一人じゃなにもできないくせに、自分は子どもじゃないとかいってんの。頭も悪いのに、将来の夢は外科医だっていってさ。情けない男だったよ」
「そうそう。情けない、格好悪い男だった」
愛子は、清司がいった栄一のことを罵倒した言葉を全て話した。
「頭おかしいのは自分だってどうして気づかないんだろうな」
そういうと、「馬鹿だからだよ」と愛子は答えた。
「栄ちゃんのことをそんな風にいうなんてってすごく頭にきた。顔叩いてやろうとか思っちゃった」
「俺はどついてやったぞ」
栄一がいうと、「じゃあ、あたしもやればよかった」と残念そうな顔をした。
「でも」
そういって、愛子は栄一をじっと見つめた。
「栄ちゃんとなら、幸せになれる」
栄一はゆっくりと頷き、愛子の目を見返した。
愛子は少し黙ってから、頬を赤くしていった。
「結婚してください。栄ちゃん」
想像以上の幸福感に、栄一は少し動揺した。夢ではないかと思った。もう一度出会えた上に、愛子と結婚までできるのだ。
しかしこれは夢ではない。現実なのだ。神様はいたのだ。
何と答えたらいいのか考えたが、もうそれどころではなかった。あまりの幸せに、何も思い付けない。
「結婚しよう。お前と結婚したいって、ずっとずっと願ってたよ」
何とか返事をした。愛子にも、いま自分が感じている程の幸福感を味わって欲しいと思った。
「嬉しい。あたしも、ずっとずっとずっと願ってたから」
にっこりと笑い、愛子はいった。栄一も笑った。こんなにも心の底から笑ったのは初めてだ。
「幸せになろうね。栄一」
「幸せにするよ。絶対」
誓うようにいい、愛子の体を強く抱きしめた。




