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少し震えながら、栄一は施設に向かって歩いた。
冷や汗が滝のように流れる。胸はどくどくと速くなっていく。
玄関の前で、すみれが誰かと話していた。
その相手は、もうかなり老けてしまっているが、ご飯を作ってくれたおばさんだった。
栄一は建物の壁に隠れ、二人の会話を聞いた。
「お久しぶりです。私、すみれです。覚えてますか?」
おばさんはゆっくりと頷き、にっこりと笑った。
その笑顔を、栄一は何度も見た。
「懐かしいわねえ。もう何年ぶりかしらねえ」
すみれもにこにこ笑っている。
「また会えて嬉しいです。みなさん、元気ですか?」
「ええ、元気ですよ。施設の子どもたちも、元気ですよ」
そしておばさんは玄関のドアを開けた。
「もしよかったら、ちょっとお茶飲んでいって。たくさんお話ししたいから」
栄一は戸惑った。すみれが施設の中に入ってしまったらどうすればいいのか。
一人で帰ることもできない。自分も中に入らなくてはいけないのだろうか。
迷っていると、すみれが突然栄一の名前を出した。
「実は、栄一くんも来ているんですよ」
どきりとした。体が石のように固まった。
「栄一くん?」
おばさんは首を傾げた。
「栄一くんですよ。杉尾栄一くん。覚えてませんか?」
栄一の胸がさらに速くなる。冷や汗が出てくる。
「うーん……。えいいち……」
おばさんが目をつぶり必死に思い出そうとしているのを見て、栄一は体が震えそうになった。
その時、雷が落ちるほどの衝撃的な言葉が聞こえた。
「愛子おねえちゃあん」
小さい男の子の声だ。栄一は指一本動かせなくなった。
「愛子お姉ちゃん、あたしもオレンジジュース」
次は女の子の声だ。
「はいはい、ちょっと待ってね」
そして若い女性の声だ。その声を、栄一はどこかで聞いたことがあった。
「ああ、倉本さん、お客さんが来たからお茶用意してくれる?」
おばさんが施設の中にいる倉本という女性に声をかけた。すぐに「わかりました」という声が聞こえた。
「あら、愛子ちゃんがいるの?」
すみれが訊くと、おばさんは頷いた。
「あさがお園ですごくお世話してもらったから、ここで働きたいっていって」
「そうなんですか。わあ、愛子ちゃんに会えるなんて、すごく嬉しいなあ」
栄一はただ黙って立っていることしかできなかった。
もう二人の会話など頭の中に入ってこない。
「お茶用意できました」
女性の声が聞こえ、おばさんは中に入っていった。
栄一は動かなかった。そこに行ったら自分はどうなってしまうのかと怖くなった。
すみれは栄一の方を見た。栄一が隠れていることに気が付いていたようだ。
「栄一くん、愛子ちゃんがいるんだって」
そういいながらこちらに向かって歩いてくる。栄一は後ずさった。
「愛子ちゃんに会えるって。栄一くん、一緒に行こうよ」
栄一は首を横に振った。
「……いい……。別に、会いたくもないし……」
栄一の言葉を聞いて、急にすみれは厳しい目つきになった。
「せっかくここまで来たのに会わないなんて、愛子ちゃんがかわいそうでしょ?愛子ちゃんは栄一くんにものすごく会いたがってるはずだよ」
「愛子はそうかもしれないけど、でも、俺は……」
栄一の言葉を遮り、すみれはいい切った。
「愛子ちゃんが引き取られてあんなに寂しそうにしてたのに、会いたくないなんておかしいでしょ。愛子ちゃんも、栄一くんと離れ離れになっちゃうってすごく悲しんでたよ。私は、栄一くんのことを幸せにしたいし、愛子ちゃんも幸せにしたい。だからお願い。一緒に来て」
栄一は返す言葉が見つからなかった。
仕方なく、栄一は施設の玄関に向かって歩いていった。




