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すみれはしばらく黙っていたが、覚悟を決めたように口を開いた。
「杉尾さんがあさがお園に来た時、私はまだ高校生だった。赤ちゃんを連れてくる親なんて、いままで一度もなかったからすごくびっくりしたよ。それから、あまりにも若かったこともね」
「若かった?」
栄一は身を乗り出した。驚いてまた声を大きくしてしまった。
すみれは頷き、続けた。
「若かったよ。同い年なんじゃないかなって思った。後で大学生だって聞いたけど、本当に、まだ高校生くらいだった。そして、ものすごく綺麗な人だった。女優さんみたいだった」
「大学生……」
ため息をつくように栄一はいった。
「泣き顔もすごく綺麗で、私も一緒に泣いちゃった。あまりにもかわいそうなんだもん」
栄一は驚いた。泣き顔とはいったい何か。
「杉尾さんは学校で付き合ってた彼と子どもを作っちゃったんだっていった。まさか本当に子どもが出来るとは思ってなかったみたいで、何てことをしちゃったんだって泣いてた。杉尾さんは一人で子どもを産んで、一人きりで育てようとした。彼とは嘘をついて別れて、実家の親にも内緒にして」
栄一は椅子からずり落ちそうになった。
さらにすみれは話し続ける。
「でも無理だよね。まだ大学生の女の子が一人きりで子どもを育てることなんて。自分のことだけでも精一杯なのに。学校はあるし、生きていくお金も仕事をして稼がなきゃいけない。それなのに子どもの育児までなんて、私だったらもう一週間で力尽きちゃう」
そこまでいうと、すみれは緊張を沈めるように小さく深呼吸をした。
「何日もおろそうかどうしようかってことで、気が狂いそうだったっていってたよ。でも誰にも相談できないし、お腹は大きくなっていくし、一人きりで泣くことしかできなかったんだっていってた」
栄一の体から力が抜けていく。何も答えられない。
「でも、せっかく生まれてきた大切な命を無理矢理殺すなんてことできなかった。杉尾さんは子どもを産んでしまった」
栄一は何もいわず、ただ黙っていた。まさかこんなことがあったとは全く知らなかった。
「近くに頼れる人なんていないし、自分はもうどうすることもできない。だから、あさがお園に来たの。自分の代わりに、母親としてこの子を育ててくださいっていって」
栄一の心の中に大きな穴がぽっかりと開いた。そしてそこに引きずり込まれそうになった。
自分は母親に嫌われて、育てるのが嫌だったから捨てられたのだろうと栄一はずっと考えていた。
しかし違ったのだ。母親は自分を育てたくても育てられなかったのだ。
「杉尾さんは、自分で産んだ子どもを育てられないなんて、母親失格だって泣いてたよ。あまりにもかわいそうで、一緒に泣いちゃった。そして、その杉尾さんのために私は代理の母になることにしたの」
ぼんやりした頭で栄一は思った。
自分は愛されていたのだ。顔もわからない、話したこともない、美しい母親に。
「杉尾さんに、この子を幸せにしてあげてねっていわれて、絶対に幸せにしますって誓った。それから私は毎日栄一くんのことを考えてたよ。家にいる時も、学校にいる時もね。栄一くんはあんまり私のこと好きじゃないみたいだったから、ちょっと残念だったけど。でも、本当に栄一くんのことを幸せにしようって思ってた」
母親だけでなく、栄一はすみれにも愛されていた。24時間365日、この代理の母は自分のことを想ってくれていたのだ。
もう何もかもが自分の勝手な妄想と違っていた。栄一は幸せになるために生まれてきたのだ。母親にもすみれにも愛されるために生まれてきたのだ。
すみれは栄一の手を握り、母親の声で話した。
「初めて子どもができた時、私すっごく嬉しかった。ああ、私、お母さんになるんだって。栄一くんは男の子だからわからないかもしれないけど、お母さんってものすごく大変なんだよ。子どもを産む時もそうだけど、産む前も産んだ後も、すっごく大変。だけど大変でも笑って生きていけるのは、血の繋がった子どもが可愛いからなの。幸せにしたいって心の底から思うの。いま私は光一がいてくれてものすごく幸せだよ。わがままばっかりいって頭にきちゃう時もあるけど、嫌いになったことは一回もない。だって、大切な宝物なんだもん。誰にも取られたくない、命よりも大事な宝物なんだもん」
そしてまた小さく深呼吸をして、栄一の目をじっと見つめた。
「杉尾さんも、栄一くんのことすごく大事だったと思う。自分を犠牲にしてでも育てようなんて、もうどれだけ栄一くんのことが大切だったか、母親の私にもわからないよ」
栄一の体の中で何かが動いた。いままで必死に押し殺してきたものだ。
「栄一くんが引き取られる時、私嬉しかった。やっと家族ができたって。寂しかったけど、嬉しかった」
その時、目の前のすみれの顔がぼやけた。
ずっと小さい頃から我慢してきた想いが、一気に溢れてきた。
栄一は泣いていた。いままで泣いた奴は負けだと思っていた。負けないために、どんなことがあっても泣かなかった。
「栄一くん……」
すみれは栄一の手をしっかりと握り締め、優しく見つめた。
誰とも繋がっていないと思っていた。
自分が死んでも、誰も悲しまないと思っていた。
しかし違った。もう全てが違った。
自分は、たくさんの人たちに愛されて生きていたのだ。
そっとすみれが声をかけてきた。
「栄一くんは一人じゃないよ。人間は、絶対誰かに愛されて生きてる。愛されるから生きていけるんだよ。杉尾さんはあさがお園から出る時、もうここには来ないっていった。大きくなった子どもを見たら、育てられなかった自分を一生恨むからっていって」
栄一は泣きながら頷いた。心の中の濁りが綺麗な水に流されていく。寂しいという気持ちが全て涙となって出ていく。
「栄一くんが幸せになるためなら、私、何でもするからね。私は、栄一くんの母親だから。血が繋がっていなくても、母親だから。困ったことがあったら、何でも相談してね」
すみれの優しい言葉を聞いて、また栄一は頷いた。




