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栄一は駅前にある小さな食堂に来ていた。
そこは料理が美味い上に客が少ないということで、栄一にとって有り難い場所だった。
いつものように食事が終わると、そのまま殻に帰るのだが……
なぜかその日は遠回りしたくなった。
そうして歩いているうちに、誰かが強く見つめていることに気が付いた。
始めはただの気のせいだと思っていた。
しかし目線は全く離れようとしない。
栄一は見られている方を向いた。
すると目の大きな女性が立っていた。
女性は栄一と目が合うと、にっこり笑いながら近付いてきた。
その笑顔を、栄一はどこかで見たことがあった。
「もしかして、栄一くん?」
女性は明るい口調で訊いた。その声も、どこかで聞いたことが……
「……すみれ姉ちゃん?」
栄一がいうと、女性はうん、と頷いた。
「わあああ!久しぶりねえ、栄一くん!」
すみれは、はしゃぎながら栄一の肩を叩いた。
「もう、こんなにおっきくなっちゃってえ!すごいかっこいいわねえ!」
栄一は苦笑した。すみれの声を聞いて、周りは不思議そうな顔をしていた。
「ちょっと、姉ちゃん、はしゃぎ過ぎだって」
そういうと、すみれは「あっ」といって照れくさそうに笑った。
「だって栄一くん、すっごく男っぽくって。びっくりしちゃった」
「男なんだから、男っぽいのは当たり前だろ」
栄一の声を聞き、すみれは「声まで素敵!」と少女のような顔をした。
栄一は喜んでいるすみれの顔を見つめながら、声をかけてくれた女性が愛子ではなかったことに、少し残念な気持ちでいた。
だがやはり懐かしかったので、栄一も自然に笑顔になった。
「久しぶりねえ。もう何年ぶりかしらねえ」
すみれは考える顔つきになった。
「栄一くんってもう19歳よね?」
「そうだけど……、よく覚えてるな」
そういうと、静かな声で話した。
「絶対に栄一くんのことは忘れないわよ。一生忘れない」
突然真顔になったすみれを見て、少し不思議な感じがした。
「そうだ。ちょっとお茶しない?」
すみれはまた笑顔に戻り、栄一の目を見つめた。もう30歳を超えているはずなのに、昔と全く変わらない。
栄一は困った。本当は早く帰りたかったが、こんなに喜んでいるのに断るのはよくないかなと思った。
「じゃあ、ちょっとだけ」
するとすみれは満面の笑みで栄一を見つめた。
あまり客のいない喫茶店に入り、二人がけの椅子に座った。
よく来ているらしく、店員とは友だちのように話していた。
「奢るからね。何でも頼んで」
座りながら、にっこりと笑った。
お茶を飲みながら、すみれはいろいろなことを話した。
栄一はほとんど「うん」とか「そうか」しかいわなかった。
話す内容は19歳になった栄一のことだった。「かっこよくなったね」「こんなにいい男になるなんて」といって、笑ったり驚いたりするだけだ。
引き取られた後の北原家での生活は訊いてこなかった。愛子の名前も出さなかった。
ただ忘れているという感じではなかった。
自分のために違う話をしているのだろう、と栄一は心の中で思っていた。
すみれの話が終わり、今度は栄一が口を開く番になった。
「姉ちゃんはちょっと太ったな」
にやりと笑いながらいうと、すみれは目を丸くし、少し照れたように笑った。
それを見て栄一は不思議に思った。太っているといわれて照れる女性はあまりいないような気がした。
「姉ちゃん、どうしたんだよ」
そういうと、すみれは自分の腹を触り、栄一の目をじっと見つめた。
「やっぱり目立つのね」
栄一は何のことか全くわからなかった。ただ黙ってすみれの腹を見ていた。
だが、だんだん意味がわかってきた。
「……子どもがいるのか……」
小さく呟くと、すみれはこくりと頷いた。
栄一は衝撃を受けた。妊婦を見たのは、たぶんこれが初めてだ。
「ってことは、結婚も……」
いいかけると、すみれは「当たり前でしょ」と笑った。
膨らんだ腹を優しく撫でながら、すみれは話し始めた。
「二人目なんだ。一人目は男の子でもう四歳。わがままで毎日大変なんだ」
栄一はさらに驚いた。もうすでにすみれは母親になっていた。
「でね、名前はコウイチっていうの。光るに一番の一。栄一くんが「栄」だから、「光」にしたんだ」
「俺が栄一だから?」
訊くとすみれは頷き、話し始めた。
「私、「栄光」って言葉が好きなの。すごくいい意味でしょ?漢字を逆にしても「光栄」。どっちもすごく素晴らしい意味よ。だからもし子どもが生まれて、その子が男の子だったら「栄一」か「光一」って名前にしようって、ずっと決めてたんだ」
栄一は体から冷や汗が出ているのに気が付いた。なぜか震えそうになる。
「じゃあ、その腹の中にいる子が男だったら「栄一」になるのか」
そういうと、すみれは首を振った。
「違うよ。もう「栄一」はいるでしょ」
「いるって……?」
まさか、と思った。さらに冷や汗が多くなっていく。
「栄一くんの名前を付けたのは私よ」
驚いて、栄一は固まった。
「だから次は出来れば女の子がいいな……」
「姉ちゃん」
すみれの声を遮り、栄一は訊いた。
「俺の名前を付けたのは……、姉ちゃんなのか……?」
「そうだよ」すみれは軽い口調でいった。
「私は栄一くんの代理の母親なの。生んではいないけど、私は栄一くんのことを自分の子どもだと思ってる。杉尾さんと決めたことだからね」
「杉尾さん!?」
大声を出してしまった。近くにいた店員や客は不思議な顔で栄一を見た。
「杉尾さんって……、誰だ……?」
栄一の動揺に、すみれも少し戸惑ったような顔をした。
「誰って……。……栄一くんのお母さんだよ」
思わず栄一は立ち上がった。すみれの話を聞くのが怖くなった。
このまま逃げてしまいたくなった。
だが、栄一は座り直した。
愛子と別れる時、自分は逃げてしまった。そのせいで、ずっとあの日から後悔しているのだ。
心配そうにすみれは訊いてきた。
「ごめんね。びっくりしたでしょう」
栄一は首を横に振った。そして、すみれの目をじっと見つめた。
「姉ちゃん。教えてくれ。俺の知らないこと、全部」
栄一は体を鉄のように硬くした。




