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いつものように清司が家に帰ると、さっそく幸司の声が聞こえた。
「清司、酒」
その言葉だけで、清司は意味がわかった。
「買ってないよ」
そう答えると、幸司は大声を出した。
「何で買ってこないんだよ。気が利かない奴だな」
清司は無視をした。さっさと部屋に入ってしまおうと思った。
「おい。清司」
また父の声が聞こえてきた。
「うるさいな。酒を買うお金なんてどこにもないんだよ。飲みたかったら、自分で働いてお金稼いだらいいじゃないか」
振り返らず前を向いたままいうと、幸司は「何だよ」といって横を向いた。
清司はさらに思っていたことを話した。
「それに、父さん、昔、酒とタバコには絶対手を出すなっていつもいってたじゃないか。僕にも患者さんにも。外科医で、みんなから尊敬されて、僕、父さんみたいな立派な外科医になるのが夢だったんだよ。それなのに、いまは何もしない、ただ酒飲んでるだけの男になって、僕すごくつらいんだよ」
そこまでいうと、突然幸司は固まった。
さらに清司は続けた。
「僕のこと、ブタだとか頭が悪いとか散々いってきたのに、父さんの方が最低じゃないか。母さんも死んじゃって、父さんはそうやって酒ばっかり飲んでて働かない。僕はどこにも雇ってもらえない。もう僕たち、この先どうやって生きて行ったらいいのか全然わからないよ。僕も悪いけど、父さんも悪いんじゃないの」
だんだん悲しくなってきた。目の前が歪んだ。
「僕は自分のことだけで精一杯なんだ。父さんの面倒なんて見てられない。それに、僕もう父さんのこと、父親だと思ってないから」
そういうと、父が何かいっていた。
清司は振り向いた。
「何かいった?」
そして少しずつ近付いていく。
「父さん……?」
顔を覗き込むように見ると、何と幸司は眠っていた。
いま清司がいったことを、全て聞いていなかったということだ。
気持ちよさそうに寝息を吐いている父を見て、清司の体の中が一気に熱くなった。
胸がどくどくと早くなっていく。そして、小刻みに体が震える。
ふと足元を見ると、酒の空き瓶が転がっていた。
清司は頭の中であることを思い付いた。
……こんなことをしてはいけないと頭の角で誰かがいっていた。
しかしもう父親がいることに耐えられない。
一生父の面倒を見なきゃいけない人生なんて、絶対に嫌だ。
父親がいなくなれば……
そう思った。
だが急に怖くなった。
警察に捕まってしまうということだ。
捕まってしまったら、一生冷たく四角い空間で過ごさなくてはいけない。
もう青い空を見ることができなくなるのだ。
清司は戸惑った。拾おうとしていた瓶から後ずさりした。
父の面倒を見る人生と、牢獄の中で一人きりで過ごす人生。
どちらがましだろうかと迷った。
その時、父の声が聞こえた。
寝言ではない気がした。
清司はもう一度、幸司の顔を覗き込んだ。
幸司は泣いていた。
泣きながら、清司に話していた。
「ごめんな……」
はっきりと聞こえた。清司は驚いた。寝ていたと思ったが、幸司はしっかりと清司の言葉を聞いていたのだ。
さらに幸司は続けた。
「……お前にこんなに苦労をかけて……。本当にごめんな……。こんな……、ろくでもない父親で……」
「……父さん……」
無意識に清司も声を出していた。
「こんな父親で……、本当にごめんな……」
何回も「ごめんな」といった。幸司の涙は止まらなかった。
清司も涙が出てきた。父は完全に狂っていなかった。清司の気持ちをわかってくれていたのだ。
「お前には幸せになってもらいたい。ほんの少しでいいから、幸せな人生を歩んでほしい……」
そして、清司の方にそっと目を向けた。
「父さんはもうすぐ死ぬ。死んだら、お前は自由だ。父さんのことは、もう何もしなくていい。だから、絶対に人を殺そうとしてはいけない。お前を殺人者にしたくない」
「父さん……」
清司はついさっき自分がしようとしていたことを思い出した。
もし幸司が声を出さなかったら、絶対に清司は瓶を握っていたはずだ。
そんなことをしてはいけないんだ、と心の底から反省した。
「父さんは……、もう……死ぬの……?」
涙声で訊くと、父は頷いた。
「こうして酒を飲み続ければ、必ず体を悪くする。お前が自由になれるように、父さんは酒を飲んでたんだ」
清司の涙は止まらなかった。父は無理矢理命を捨てようとしていたのだ。
「いいか清司。お前はもう家も親も何もかもを忘れていい。新しい人生を送るんだ。そして絶対に人を殺そうだとか間違ったことを考えてはだめだからな」
うん、と頷いた。父の口調は、外科医であった時と同じだった。
「わかった。僕、人を殺してやろうだとか考えないよ。絶対に」
幸司はゆっくりと頷いた。
「お前は、父さんの大事な息子だからな。お前が幸せになるように、ずっと見守ってるぞ」
数日後、清司は動いていない父親の姿を見て、狭いアパートから出て行った。




