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鳥居雪男は有名な大富豪だったため、麻由美が突然屋敷から出て行ったという話はほとんどの人間が知っていた。
北原家に襲われた疑いがあるということは、まだ出回っていなかった。
清司たちは隠れながら生活をしていた。
いつ雪男が清司の名前を出すか、びくびくしながらの生活は、三人にとって地獄のようだった。
もう明るい道を歩くことはできないと清司は思った。
生まれつき体が弱い母は何度も倒れ、清司や幸司も、緊張やストレス、ホームレス生活に、心身共に弱っていった。
持ってきた金はすぐになくなり、あんなに太っていた清司は、醜くやつれた。
これは夢ではないか、と夜眠るたびに清司は思った。
目が覚めたら、いつもの大きな部屋にいる。暖かい布団に包まり、居間に行ったらたくさんの甘いお菓子がある。そして、母のおいしい朝ごはんが、清司を待っている。
毎日信じていた。
しかし現実は厳しかった。
そんな日々を過ごし、ようやく清司たちは新しい家を見つけた。
周りに店もなく、人もほとんどいない、狭いアパートだ。
管理人の姿もない。要するに、もう廃墟と化した場所だった。
清司はいつものように不満をいおうとした。
しかし痩せ衰えた両親の姿を見ると、とてもそんなわがままなことはいえなかった。
清司は、昔住んでいた家を思い出した。
誰もが羨む大きな屋敷、綺麗に掃除された日当たりのよい部屋、何度も遊んだ広い庭。
もう何もかもが素晴らしかった。
だがいまはどうだろう。
誰も知らない、捨てられた狭いアパート、壁には茶色い染み、床は埃まみれ、天井にはクモの巣が張っている。
窓ガラスは割れ、冬になったら冷たい風が三人を吹き付けるだろう。
さらに水も電気も通っていないので、日が暮れたら真っ暗になってしまう、大好きなテレビも見れない。遠くにある、小さなコンビニで水を買いに行かなくてはいけない。
清司は失望した。
まさかここが新しい家になるとは、夢にも思わなかった。
悲しいことに、これから清司が暮らす場所は、この廃れたアパートだったのだ。
そして何よりも不安だったことは、雪男が何をしているかということだった。
清司を探すために、警察に通報したに違いない。
もしここにまで警察がやって来たら……
そう思うと、清司は眠れなかった。
清司は、また父が外科医として働いてくれるだろうと期待していた。
しかし幸司は働かなかった。
畳の上でゴロゴロと寝転がり、安い酒を飲んでいるだけだ。
酒は体に悪いといっていたのは誰だったか。
母は部屋に篭って泣いているだけで、一切家事をしない。
というか、このアパートで家事をするのは無理だった。
何も食べられず、水だけしか飲めないという日もあった。
仕方なく清司は働くことにした。
しかし頭が悪く、一人では何も出来ない清司を快く雇ってくれる場所などなかった。
ほとんど金にならない、雑用ばかりだった。
その雑用も長くは続かなかった。清司は不器用で、いつも何かトラブルを起こし、他人に迷惑をかけていた。
洗濯していない皺だらけの服を着て、清司はとぼとぼ歩いた。
誰かに会うと、みんなから変な目で見られた。
清司は幼い頃、胸の中に込めていた気持ちを思い出した。
父と同じ、立派な外科医になりたいという気持ちだ。
絶対に自分は外科医になれると信じていた。
どうしてこんなに惨めなことになってしまったのか。
そんな清司のことなど考えず、父は酒を飲み続けた。最近は自分で買いに行くのも面倒になり、清司に買ってこいと命令するようになってきた。
「酒買ってきたか」
呂律の回らない口調で話しかけられ、清司は不快だった。
「買ってきてないよ。酒なんか買うお金、どこにもないよ」
そういうと、幸司は大声で怒鳴った。
「いますぐ買ってこい!」
仕方なく清司はなけなしの小遣いで幸司の酒を買った。
さらに最悪なことが起こった。
いままでずっと部屋ですすり泣いているだけの母が、暴力を振るうようになったのだ。
清司が廊下を歩いていると、突然現れて、思い切り平手打ちをするのだ。
痛みはほとんど無かったが、あんなに優しかった母がこんなことをするということが、清司の心を痛めた。
だがその後、清司が眠ろうと毛布に包まった時に、必ず泣きながら謝りに来た。
「叩いてごめんね……。痛かったでしょう……。ごめんね……清司、ごめんね……」
それを聞いて、清司は涙を流した。
本当はこんなことをしたくないのだ。
自分が母に乱暴している時に、自己嫌悪で死んでしまいたくなった。
きっと母もそう思っているはずだ。
だが母の乱暴は終わらなかった。廊下で顔を合わせると追いかけてくる。
以前住んでいた家には鍵があったが、こんなボロアパートにそんなものは付いていない。
部屋の中にある机や棚などをドアの前に置き、母の侵入を防いだ。
ドアの向こうで、母は何度も「お前なんか生まなきゃよかった」と大声を出していた。
それを聞きながら、清司は声を上げて泣いた。
母がこんな姿になってしまったのは自分のせいだと清司は思った。
前に清司はストレス解消をするため、母のことを殴ったり、乱暴なことをした。
その時の仕返しをしているのだ。
清司はただ部屋の中で膝を抱えて泣くことしか出来なかった。
だって、お前、一人じゃ何もできないだろ。
清司は栄一がいっていた言葉を思い出していた。
誰かが一緒じゃねえと、生きていけないんだよ。お前は。
お前は、親がいなくなった時、何もかもを失った時、一人で生きていけるか?
あの時、自分は何と答えたか。
僕は一人でも、ちゃんと生きていけるよ。
大丈夫だよ。もう僕は子どもじゃない。
栄一は、もう何もかもわかっていたのだ。
清司が一人では何も出来ないことも、一人で生きていけないことも。
ずっと清司は、栄一のことを養子だといっていた。
養子は何も持っていないのだから、すごく弱いんだろうと決め付けていた。
しかし弱かったのは自分だったのだ。
栄一はものすごく強い人間だということに、初めて気が付いた。
僕、栄一くんがどうなっても知らないからね。一人きりになっても、助けてやらないからね。
そういうと、栄一は笑いながら答えた。
じゃあ、俺も、お前が一人きりになって、どうしようもなくなっても、助けてやんねえから。
そして栄一はどこかに行ってしまった。
もう助けに来てくれないのだ。
麻由美にも会えない。
一生、清司は、この地獄のような日々を過ごさなくてはいけない。
こんな状況になったら、栄一はどうするんだろう。
どうやって生きていくのだろう。
雪が降っても、アパートにはストーブも何も置かれていない。
清司は震えながら自室として使っている部屋から出た。
すると幸司が目を見開いて、廊下に立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
清司が声をかけると、ゆっくりと首を動かし、同じ目で清司を見た。
そして、衝撃の言葉を口にした。
「……死んだぞ……」
「えっ」
始めは何のことだろうと思った。しかしすぐに意味がわかってきた。
「……母さんが……?」
そういうと、幸司は小さく頷いた。
「胸に……」
その一言で全てがはっきりした。
わざわざ見に行かなくても、その状況が頭に浮かんだ。
部屋を覗いてみると、やはり想像した通りの姿で横たわっていた。
涙は出なかった。
「どうする?」
幸司が声をかけてきた。
「どうするって?」
訊き返すと、また小さく声を出した。
「ここにずっと置いておくわけにはいかないだろう。もし誰かに見つかったら、大変なことになるぞ」
清司も頷いた。もうすでに答えは見つかっていた。
「確かこの近くに川があったよね」
清司がいうと、幸司は固くした目で見返した。
どうやらそれが返事だったらしい。
「じゃあ後で川に行って来るよ」
幸司は何もいわなかった。
ただ清司と目を合わせないようにしていただけだった。




