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悪夢のような日々が始まったのは、麻由美と完全に関係を断ってから二週間程経ってからだった。
清司が部屋から出ると、幸司の声が玄関先で聞こえた。
夜に人がやってくることはあまりなかった。
清司は階段の上から、そっと盗み聞きをした。
「ですから、もう何度もいっているでしょう。おかしなことをいわないでください」
いつも冷静沈着な父は、動揺しながら、話し相手と会話をしていた。
何だろう、と清司は小さく顔を出した。
幸司の前にいたのは、鳥居雪男だった。
それを見て、少し不安になった。
もう関係を断ったはずなのに、どうしてここにやって来たのか。
雪男は低い声で幸司にいった。
「不法侵入の次は誘拐か。あんたんとこの息子は、何を考えているんだ?」
清司の体から冷や汗が噴出した。誘拐とはどういうことか。
幸司はため息をつき、首を横に振った。
「何回いえばわかるんですか?息子は何もしていませんよ。もうさっさとお帰りください」
「嘘だ」
雪男は幸司を睨み、顔を指差した。
「お前は嘘をいっている。お前の馬鹿息子が、麻由美を連れて行ったんだ」
断言した。清司の体が凍りついた。
「どうやって、鳥居さんの屋敷に入るんですか?もう鍵も持っていないし、連れ出すなんて無理でしょう」
そういったが、雪男はさらに疑いの目を向けてきた。
「不法侵入した時に、もう一つ、鍵を見つけたんだろう。それを使って屋敷の中に入り、麻由美を連れ出したんだ」
雪男の勝手な妄想に、清司は驚愕した。
「そんなことできるわけがない!」
幸司の叫び声が聞こえ、清司は思わず耳を塞いだ。
また深いため息をつき、幸司は面倒くさそうにいった。
「馬鹿なことをいわないでください。お嬢さんがいなくなったのは、息子のせいではありません。さっさと帰ってください」
そして無理矢理ドアを閉めようとした。
しかし雪男は足をはさみ、中に入った。
「麻由美を返せ!大人しく返したら、警察は呼ばないでやる。いますぐ麻由美を連れてくるんだ!」
雪男の大声は、たぶん他の家にも聞こえたはずだ。
「こんな時間に、そんな大声を出さないでください」
あわてて幸司が注意した。清司は壁にかけられた時計を見た。もう夜の11時を超えていた。
「お願いします。早く帰ってください」
そういって幸司はくるりと後ろを向いた。明らかに嫌がっている口調だった。
「待てっ」
雪男は土足で家に上がった。
「麻由美を返せといっているんだ。早く出せ」
しかし幸司は無視し、部屋の中に入ろうとした。
その時、雪男が突然、衝撃的な言葉をいってきた。
「もうこの世にいないから、出せないのか?」
幸司は足を止めた。そして驚いた顔で振り向いた。信じられないという顔だ。
「この世にいない……?」
幸司がいうと、雪男は睨みながら続きを話した。
「お前は外科医だ。外科医は手術をするために、いろいろな医療器具を持っているはずだ。その中には、使い方を変えれば凶器になるものだってある」
「そ……そんな……」
幸司はぶるぶると震えた。もちろん、清司も震えていた。
「そんなこと……、出来るわけが……」
「いいや」
雪男は首を横に振った。
「麻由美を殺したのか。本当のことをいえ。いう通りにしなかったら、いますぐ警察を呼ぶぞ」
その時、ふと雪男は階段の上を見た。清司の視線に気が付いたのかもしれない。
そして、目を大きくした。
「お前、降りて来い!」
そういいながら、階段を駆け上がって来た。
清司は凍りついた。逃げようと頭の中では思っているのに、体が動かない。
「人殺しめ!」
叫びながら、雪男は清司の腕をつかんだ。
「何をするんだ!」
幸司が怒鳴りながら雪男の体にしがみつき、清司を助けようとした。
しかし雪男の巨体に、幸司は勝てなかった。思い切り殴られ、階段の下に頭を打ちつけた。
清司は泣きながら、雪男から放れようとした。だがやはり雪男の力は強かった。
「来い。警察に連れて行く」
雪男の低い声を聞きながら、清司は引きずられるようにして階段を降りた。
もうだめだ、と清司は思った。
自分は捕まり、一生牢獄で暮らすのだ。
頭の中で、誰かがそういっていた。あきらめようとしていた。
幸司は這うように雪男の足元に行ったが、頭を足で踏みつけられ、動かなくなってしまった。
その時、後ろでものすごく大きな音がした。ドアが開く音だ。
清司と雪男と幸司は、同時に顔を向けた。
そこには、包丁を構え雪男を睨みつける母親が立っていた。
「良子!やめろ!」
すぐに幸司は大声を出した。
良子の目は血走っていた。本気で、雪男を殺そうとしていた。
「出ていかなかったら、殺す……」
小さく呟きながら、包丁を両手で握り締めている。
「母さん!」
清司が泣きながらいうと、突然雪男の手が放れた。
見上げると、雪男は青い顔をして、良子を見ていた。
雪男でも、包丁には勝てないようだった。
じりじりと近付いてくる良子を睨み、悔しそうに怒鳴り散らした。
「今日はここまでにしてやる。だが、次、麻由美を出さなかったら、本当に警察を呼ぶからな!」
そして、乱暴にドアを閉め、ようやく家から出て行った。
清司も幸司も良子も、床に倒れた。
良子は泣き、幸司も打ち付けた頭を抱えていた。
清司は腕を見た。雪男が握っていた場所が、赤くなっている。
清司は声を上げて泣こうとした。しかしその前に、幸司の消えそうな声が聞こえた。
「清司、お前……麻由美さんを殺したのか……?」
そして疑いの目を見せた。
清司は驚いた。まさか、父まで自分のことを疑っているのか……?
「……僕が、人を殺せるわけないよ……」
答えると、次は母が訊いてきた。
「誘拐もしてないのね?」
清司は愕然とした。味方だと思っていた母も、疑っている口調だったからだ。
「当たり前だよ」
すると、幸司は起き上がり、清司の目をじっと見た。
「本当に、殺してないんだな?お前、人を殺したらどうなるかってこと、ちゃんとわかってるのか?」
清司は項垂れた。両親に信用されていないということに、ひどく傷ついた。
小さく頷くと、二人はまだ疑っている顔で清司を見つめた。
「でも、どうするの?また鳥居さん、家に来るっていってたでしょう。もし麻由美さんを出さなかったら、警察に捕まっちゃう」
良子がまた暗い顔をした。
幸司はぐっと目をつぶり、腕を組んで考えた。
清司も良子も、黙ってそれを見ていた。それしか出来なかった。
しばらくその状態でいたが、急に目を開けた。
「逃げよう。誰にも見つからない場所に」
清司は固まった。信じられなかった。悪い夢であってほしかった。
それから数時間後、必要最低限のものを持って、清司たちは家から出た。
家を捨て、仕事も捨て、何もかもを置き去りにして、新しい生活が始まるのだ。
これからどんな悲劇が待っているか、清司はまだ知らなかった。




