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目が覚めると、白い天井が見えた。
始め、それがなんなのか奈那子はわからなかった。
しかしすぐに、自室のベッドに寝ていることに気が付いた。
気を失った自分を、誰かが運んでくれたようだ。
まだ頭の中はどんよりしていたが、だんだん先程の気持ちが舞い戻ってきた。
雪男に殺されかけた、あの恐怖だ。
奈那子は身震いした。本当に、本当に、自分は死んでしまうのだと、半分諦めていた。
何の罪も無いまま、死んでしまうのだと。
よろよろと起き上がり、壁にかけられた鏡を見た。
首には、雪男の指の痕がくっきりと残っていた。
ため息をつきながら、奈那子はベッドに寝た。
しばらくは、この指の痕は消えないだろう。
そして、この痕を見るたびに、またあの恐怖を思い出す。
奈那子は目をつぶった。もう麻由美のように、ここから出て行きたいと思った。
そのまま、また眠ろうと思ったが、睡魔はやって来なかった。
というか、鳥居家に来てから奈那子は、ぐっすりと眠ったことがなかった。
ここでじっとしているのも嫌だったので、奈那子は部屋から出ることにした。
雪男がいないことを祈りながら、静かに廊下に出た。
廊下は真っ暗だった。
雪男はもちろん、使用人の姿もなかった。いま鳥居家にいるのは、奈那子だけだ。
無駄に広い迷路のような廊下を見て、深くため息をついた。
廊下に出たはいいが、どうすればいいのか考えていなかった。
その時突然、麻由美が夜遅くに行っていたあの部屋を思い出した。
何もない、誰にも必要とされていない、誰も知らない部屋。
自分が何をしていても、他人に気付かれない場所だ。
そして、あの部屋には広いバルコニーがあった……。
まさか……、
まさか、麻由美は、あの部屋から出て行ったのではないか……?
胸がどくどくと速くなった。冷や汗が噴出した。
奈那子は二階に上る階段を駆け上がった。そして、突き当たりの部屋のドアを開けた。
やはりそこには何も置かれていなかった。ただ、ぴんと張り詰めた不思議な空気が漂っているだけだ。
奈那子は中に入ってみた。麻由美がいたらどうしようと思った。
しかし麻由美はいなかった。
ガラス戸がほんの少し開いていただけだ。
奈那子はバルコニーに出た。
二階とはいえ、ここから地面に降りるのはかなり危険だった。打ち所が悪かったら死ぬかもしれない。
そっと奈那子は下を覗いた。
すると、どきりとするようなものが目に入った。
雪男がコレクションしている車の車庫の屋根が、すぐ目の前にあったのだ。
雪男は車が好きで、何台も持っている。
だが一年もしないうちに、「デザインが古い」、「乗り飽きた」といって、すぐに捨てるのだ。
この車庫にはそういったゴミに変わってしまった車が駐車されているのを、奈那子は知っていた。
緊張しながら、奈那子は屋根の上に足をのせた。地面に降りるのは危ないが、車庫の屋根に乗るのは簡単だった。
そのまま車庫の端まで歩くと、すぐ近くに背の高い車が停まっていた。
捨てられて、さらに車庫に入れることが出来なくなった車だ。
車の屋根に降りるのも容易だった。奈那子は車の上を階段を降りるように進んだ。
そして、地面に降り立った。
屋敷の外の地面にだ。
これなら何の怪我も無く、簡単に屋敷から出られる。
お母様に会いに行っていたんです
そういっていた麻由美の顔を思い出した。
あれは母親に会いに行っていたのではなく、この脱出方法を練習していたのだ。
そしてついに昨晩、脱出を決行した。
奈那子は羨ましくなった。
自分もこのまま逃げてしまおうかと思った。
早くこの屋敷から出て行きたいと思った。
だが、奈那子はまた屋敷の中に入った。
早くその日が来てくれるのを望んだ。
しかし翌日、奈那子は屋敷から出ることを許された。
もう麻由美がいないのだから、世話係は必要ないということだった。
さらに雪男に嘘つきだと嫌われたおかげで、もう鳥居家と関係を持つことはなくなった。
こんなにもすぐに願いが叶ったことが、不思議だった。
奈那子は、いなくなった麻由美に感謝した。
麻由美が出て行ってくれたことで、奈那子もこの屋敷から出ることが出来たのだ。
もう会えないというのは寂しかった。
しかしそれよりも、自由になれたという気持ちの方が強かった。
また奈那子はフリーターとして働くことにした。
いままで男性と付き合えないという人生に悲観的になっていたが、あの屋敷で過ごした日々よりも、ずっと幸せだと感じた。




