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朝起きて、自室で制服に着替えていると、突然恐ろしい叫び声が聞こえた。
奈那子はあわてて部屋を出て、声がした方に走って行った。
そこには、顔を真っ赤にして暴れる雪男がいた。
訳のわからない言葉をいい、完全に気が狂っているのがわかった。
「落ち着いてください!」「何があったのか、教えてください!」たくさんの使用人たちが雪男の体を抑えながら、大声を出していた。
「ご主人様!大丈夫ですか!」そういって、雪男に近付いた男性は、思い切り殴られた。
若い男性は壁に体を打ちつけた。そして、動かなくなった。
さらに雪男は、周りにあった、高い家具や置物を、壁にぶち当てた。
奈那子は、いったい何が起きているのか、全くわからなかった。
足をがくがくと震わせ、ただ立ち尽くすことしかできない。
やがて、雪男の叫び声が、怒鳴り声に変わった。
「麻由美はどこだ!麻由美はどこに行ったんだ!返せ!麻由美を返せ!」
何度も繰り返した。
それを聞いていた奈那子たちは、全員顔を青くした。
「麻由美様の部屋に行くぞ!」誰かがそういい、数人が廊下を走って行った。
奈那子は、まだ固まったままだ。
しばらくして、走って行った数人が帰ってきた。
「いない……」白い顔で、震えた声を出した。
「麻由美様が……、いない……?」
そういって、今度は残っていた人が同じように走って行った。
奈那子は硬直したまま、足元を見ていた。
麻由美が、屋敷から出て行った……。
頭の中が、ぐるぐると回った。
麻由美は、雪男のことが嫌いだった。
奈那子も、この屋敷に来てしまったことを後悔した。
早くここから出て行きたいという気持ちに、奈那子も賛成していた。
この鳥居家に来てから、もう何もかもがおかしい……。
奈那子がそんなことを考えていると、すぐ後ろに誰かが来ていた。
「おい」
低い声で、その誰かは奈那子の肩に手を置いた。
奈那子は凍りついた。雪男に間違いなかった。
「おい、こっちを見ろ」
奈那子は震えながらゆっくりと振り向いた。
雪男の悪魔のような顔を見て、叫び声を上げそうになった。
「お前、麻由美をどこにやったんだ」
酒とタバコの臭いが混じる声を、奈那子は冷や汗を流しながら聞いた。
「……いえ……。あ……あの、……私は」
「お前、麻由美の世話をしていたな」
奈那子の言葉を遮り、雪男が訊いてきた。
「昨晩の麻由美のことを話せ。全部だ。昨日、麻由美はどうしていた?」
奈那子は首を横に振った。恐怖で、声が出せなかった。
「聞いてるのか!お前!」
怒鳴られて、奈那子は固まった。
「……ま……麻由美様は……、いつもと同じように、部屋に入りました。私はそれを見届けてから、自室に戻ってきました……」
「じゃあ、何でいなくなってるんだ!」
雪男は怒鳴りながら、奈那子の首に手を回した。
「お前は嘘をついている。本当のことを話さないなら、殺してやる」
そして、手に力を入れていく。
奈那子は泣いた。必死に首を振り、「何も知りません」と繰り返しいった。
「いつもと同じでした。本当です。信じてください。嘘なんてついていません」
しかし雪男は奈那子を睨みつけ、さらに首を締めていった。
奈那子は目をつぶり、助けて、と祈り続けた。殺されると思った。
すると、奈那子の気持ちに気づいたのか、使用人が駆けつけてきた。
「ご主人様!何をしているんですか!」
その一声で、いっせいに人々が集まった。
「こいつが嘘をついているから、殺してやるんだ」
雪男がまた力を強くし、奈那子は息が苦しくなった。
「やめてください!殺すなんてそんなこと……やってはいけません!」
そういいながら使用人たちは、首に巻いた雪男の手を放そうとした。
奈那子も雪男の腕をつかみ、必死に逃げようとした。
その時、ふと、ある言葉を思い出した。
麻由美が、清司と結婚をしたくなかったということだ。
「……もしかして……」
かすれる声で、奈那子は呟いた。
「何だ?」雪男が、じろりと奈那子の顔を見つめる。
「何か思い出したのか?」
雪男の手の力が、少し緩んだ。
奈那子は小さく頷き、話し始めた。
「……麻由美様は、北原さんのことを話していました。結婚をやめたことを、早く忘れたいって……」
雪男の手が、奈那子の首から放れた。
「北原との結婚を、忘れたい……?」
また奈那子は頷いた。
雪男は驚いた顔をした。そして、何か考えるように黙った。
しばらくそうしていると、急に大声を出した。
「いまから北原の家に行くぞ!用意しろ!」
使用人に命令をし、雪男は奈那子を残して立ち去った。
助かった、と奈那子は涙を流した。
体から一気に力が抜け、へなへなと座り込んだ。
「よかった……。本当によかった……」
そういって、奈那子は気を失った。




