52
死神が目の前から消え去り、清司は麻由美との恋愛を楽しめるようになった。
これからは、あんな奴のことを考えなくていいんだ。
麻由美ちゃんは僕のものだ。
絶対に、あんな奴に取られたりしない。
さっさと忘れてしまえばいい。
僕は、美しい麻由美ちゃんと、幸せになるんだから。
そう思いながら、清司は毎日を過ごした。
しかし。
なぜか、栄一のことが頭から出て行かない。
なぜだろう。毎日、栄一のほっそりとした姿が、幻のように目の前に見えるのだ。
おかしい……。
僕は、どうしたんだろうか。
なぜ、栄一を忘れることができないのだろうか。
そんな気持ちで過ごしていたら、誰でも気分が悪くなるのは当然だ。
栄一がいなくなってから初めてお茶会の誘いが来た時も、うきうきとした気持ちはなく、実際に麻由美に会っても、何の楽しみもなかった。
ずっと仏頂面で黙っている清司を見て、麻由美は心配そうに話しかけた。
「どうしたの?清司さん。気分が悪いの?」
「違うよ。何でもない」
清司はぶっきらぼうに答えた。せっかくこんなに心配しているのに、この態度はあまりにも失礼だった。
「本当に何でもないの?もし、何かあるんだったら、私に話して」
「何でもないから。あんまり話しかけないでくれない?」
偉そうな口ぶりに、麻由美も少し気に障ったようだ。
「そう。じゃあ、今日のお茶会はここで終わりにしましょう」
えっ?と清司は麻由美の顔を見た。まさか、こんなことをいわれるとは思っていなかった。
「どうして?」
「だって、お話ししたくないんでしょう?だったら、ここにいても仕方ないじゃない」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
あわてて清司は立ち上がる麻由美にいった。せっかくのお茶会。次に呼ばれるのはいつか、わからないのだ。ここで、麻由美に不快な思いをさせてはいけない。
「ごめん。いまの、無しにしてくれないかな」
頭を下げる清司を冷めた目で見つめ、麻由美はソファに座り直した。
「……じゃあ、何があったのか、教えてくれる?」
麻由美にいわれ、清司はどうしよう、と迷った。
栄一の名前を、麻由美にいってもいいのだろうか。
しかし、いわなければ、麻由美に不愉快な思いをさせてしまう。
何か、違う話を考えようと思ったが、清司の回らない頭では、何も思いつけなかった。
仕方なく、清司は栄一のことをいうことにした。
頭のどこかで、「いってはいけない」と誰かが警告をしていた。
だが、清司はその警告を無視した。
「実は、僕、すっごく嫌いな人がいて」
「嫌いな人?」
予想外の答えだったらしく、麻由美は目を大きくした。
「清司さんが、人を嫌うなんて」
その言葉に、清司は、自分のイメージが悪くなった、と思った。
「うん。で、その人の名前は、杉尾栄一っていうんだけど」
清司がいうと、麻由美は口を手で塞いだ。いままで見たことがないくらい、大きな目をしていた。
「どうしたの?麻由美ちゃん」
清司が訊いても、麻由美は石のように固まったまま、動かなかった。
「麻由美ちゃん?」
清司が肩を触れようと手を伸ばした瞬間、はっと麻由美は我に返り、清司の手からさっと身をかわした。
「ううん。何でもない。……その、杉尾栄一さんが、清司さんの嫌いな人なの?」
「うん」
清司は力強く頷いた。
「すごく嫌な奴なんだよ。口も悪いし、性格も悪いし、目つきも悪いし。いいところなんて、ひとっつもないよ」
清司は、麻由美に栄一がどういう人間か、全ていうことにした。
きっと麻由美は、「嫌な人ね」というだろう。
悪い印象を持たせれば、麻由美が栄一の方に気を向けることなどない。
「杉尾栄一はね、養子のくせに威張ってて、大人ぶってて、最低最悪の男だよ。僕ん家が引き取ってあげなかったら、今頃餓死してるんじゃないかな」
「養子!?」
麻由美は、また驚いて、目を大きくした。
「杉尾栄一さんは、養子なの……?」
「そう。親もいないし、家もないし、お金もないし。痩せぎすで、背ばっか高くって。カカシみたいで、全然格好良くないよ」
栄一が悔しがる顔を想像し、清司は思わずにやりとした。
「どんなに話しかけても無視して、迷惑そうな顔で睨んでくるんだ。そうだ、それから、中学校のテスト、いつも一位だったんだけど、全部カンニングだったんだって。卑怯者って、一番嫌だよねえ」
口から次々と言葉が出てくる。栄一を罵倒するのが、いまの清司にとって、ものすごく快いことだった。
「……そうなんだ……」
麻由美は小さく呟くと、俯いた。
「どうしたの?」
清司が訊くと、麻由美は顔を上げた。麻由美の目は、涙で潤んでいた。
「麻由美ちゃん、何で泣いてるの!?」
驚いて、清司は大きな声を出した。
すると、麻由美は小さく何かいった。
「なに?もっと大きな声でいって」
清司にいわれ、麻由美はもう少し大きな声で、もう一度、いった。
「……かわいそうだわ……」
「えっ?」
「その、杉尾栄一さんが……、かわいそうだわ……」
「え……、かわいそう……?」
清司は目を丸くした。麻由美が、こんなことをいうとは思っていなかった。
「何でかわいそうなの?あんなに性格が悪いのに」
そういうと、麻由美は涙を拭きながら、首を横に振った。
「……親がいないなんて……、養子なんて、かわいそうよ……。それに、お家もお金もないなんて……。杉尾栄一さんが、かわいそう……」
麻由美は、自分に同情してくれると清司は思っていた。
栄一に、あんな態度をとられ、もう何年も嫌な気持ちで過ごしていた自分を同情し、栄一を「ひどい性格ね」というに違いない、と。
しかし麻由美は自分ではなく、栄一の方を同情した。涙を流すほど、深く栄一を想っているのだ。
「あんな奴のこと、同情しなくてもいいよ。あんな奴、さっさと一人きりで死んじゃえばいいんだよ。麻由美ちゃん、泣かないで」
麻由美は清司の言葉を無視し、両手で顔を覆った。
「……私、杉尾栄一さんに会いたい……」
「なっ……」
清司は愕然とした。一番、あってはいけないことだ。
「何で会いたいと思うの?あんな非常識な奴のことなんか、どうだっていいじゃん」
「でも……」
そういって、麻由美はまた俯いた。
清司の胸が、どくどくと速くなっていった。
まさか……、まさか……、麻由美ちゃんは、栄一のことを…………
「だめだよ。麻由美ちゃん」
力強く、清司は麻由美にいった。
「絶対に、あいつと会ったらだめだ」
「どうしてだめなの?」
じっと見つめられ、清司は冷や汗を流した。
「と……とにかくだめなんだ。会っちゃいけないんだ」
「だけど、私、杉尾栄一さんと仲良くなりたい……」
麻由美の言葉を聞き、清司は思わず、がたがたと体を震わせた。
「……仲良くなりたいって……」
麻由美は頷き、寂しそうに呟いた。
「私、お友だちがいないでしょう……?だから、杉尾栄一さんと、お友だちになりたいの」
麻由美の口から、「杉尾栄一」と出てくるのが、清司にはもう耐えられなかった。
「そんなこと」
無理矢理明るい声を出し、清司は胸を、ぽんと叩いた。
「大丈夫だよ。友だちなんかいなくても、僕がずっと側にいてあげるよ。心配しないで。僕は、麻由美ちゃんが一人きりにならないように、一緒にいてあげるから。ね、もう杉尾栄一のことなんか忘れて……」
「でも」
清司の言葉を遮り、麻由美はぽつりといった。
「あなたには、親がいない私たちの気持ちはわからない」
それを聞いた瞬間、清司は突然、孤立したような気持ちになった。
仲間外れにされたような気がした。
清司には、きちんと親がいる。
だから、親がいない、栄一と麻由美の気持ちは、わからない………。
確かにその通りだ。
清司は言葉を失った。
何もいえなくなった。
頭の中で、いま麻由美がいった言葉が、ぐるぐると浮かんでいた。
栄一と麻由美が行ける、二人だけの世界には、清司は行けないのだ。
「二人だけ」の世界には…………。
あなたには、家族がいていいわね………。
以前、麻由美はこういっていた。
それがあまりにもリアルで、清司は驚いた。
家族がいない子どもの気持ちを、清司は知ることができない。
「清司さん?」
麻由美の言葉で、清司は我に返った。
「どうしたの?急に……」
清司は、麻由美と目を合わせないようにしながら、しどろもどろに答えた。
「い……いや……。何でも……」
ないわけなかった。何でもないなんて、思えなかった。
清司は想像した。
嫌というほど見慣れた、痩せた栄一が目の前で立っている。
そして、その栄一に、美しい麻由美が近づいて……
二人で手を繋ぎ、また、あの「どこか遠くを見る目」で、清司には見ることができない場所を見つめている………。
清司は首を激しく横に振った。
そんなこと、あってはいけない。
栄一に、麻由美を取られるなんて、死ぬよりつらいことだ。
「清司さんは」
麻由美が話し始めたので、清司は悪夢のような想像を消し去った。
「なに?僕が?」
清司が訊くと、麻由美は「もう一人の麻由美」の顔をして、いった。
「杉尾栄一さんのことが、嫌いなのよね」
「うん」
「……養子で、親がいない栄一さんを、あなたは嫌っている」
そして、じっと清司を冷たい目で見た。
「私、あなたが栄一さんを嫌う理由がわからない」
「えっ?」
清司はどきりとした。この場から、走って逃げたくなった。
「あなたは何でも持っているでしょ。ご両親もいるし、立派なお屋敷だって持ってる。それなのに、何も持っていない栄一さんを悪くいうなんて……。……ひどい……」
清司は気が狂いそうになった。
「ねえ、本当に、栄一さんに会えないの?」
清司は、もう何も答えられなかった。
完全に麻由美の心が栄一の方に向いているのが、頭の悪い清司にもわかった。
「……出て行ったんだ……。この前……」
「出て行った?」
麻由美は驚いたような顔をし、それから、ひどく残念そうな顔をした。
「うん。殻の中で生きるとか、変なこといって。栄一くんは、頭がおかしいんだ」
口早に答えた。悪夢のような想像が、また頭の中にざわざわと広がりだす。
「……そうなの……」
ため息をつき俯いた麻由美を見て、清司の体から冷や汗が噴出した。
清司は必死に頭の中で、もっと栄一を罵倒する言葉を探した。
「麻由美ちゃん、あんな奴に会ったらだめだよ。あいつは人間じゃない。死神だよ。もし会ったら、殺されちゃうかもしれないよ!」
しかし麻由美は驚いたりせず、真っ直ぐと清司を見つめ、いい切った。
「平気よ。私、もう死んだも同然なんだから」
清司は衝撃を受けた。冷や汗で服がびしょびしょに濡れていた。
「死んだ……?」
震える声で何とか声を出すと、麻由美は少し笑ったような顔をして、短く答えた。
「そうよ。私、殺されたの。悪魔に。もう、何年も前にね」
それ以上、話を続けることはできなかった。
清司は逃げるように鳥居家から出た。最後に見せた麻由美の死人のような笑顔が、頭の中から離れなかった。




