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栄一にいわれたことを、清司は毎日考えていた。
人間は、必ず殻を持っている。
だから、自分の殻に篭るって言葉があるんだ。
殻の中にあるのは、人間の汚らしい心、残酷なところ、そして、信じたくないこと。
妬み、恨み、憎み、そして、恐怖、後悔、孤独、劣等、絶望………。
栄一は、清司はいままで、ずっと幸せな日々を送っていたから、こういう気持ちに気付かなかったといった。
確かに清司は、人を妬んだり、恨んだり、憎んだりしたことはない。
名外科医の息子として、何も不自由なことなどなかった。
そして、これからもそれが続いていくのだろうと思っている。
さらに、栄一は、一度殻を見つけてしまったら、一生、その人間の汚らしい心を見ながら生きていかなくてはならないといった。
どんなに努力をしても、忘れることができない。
そんなこと、あるんだろうか。
考えれば考えるほど、わからなくなった。
そんな日々を送っていたある日、清司にとって、嫌なことが起こった。
栄一が、北原家から出て行く、といったのだ。
「ちょっと待ってよ」
清司はあせった。どうして、そんなことをいい出したのか、わからなかった。
「どうして出て行くの?どこに行くの?住む家とか、あるの?それに、お金だって……」
動揺しながら、清司は訊いた。
しかし栄一は何もいわず、黙々と荷物をまとめていた。
といっても、着替えの服と、学校の教材くらいだ。
「ねえ、聞いてる?栄一くん……」
もう一度、清司がいうと、栄一はため息を吐き、ゆっくりと話し出した。
「この前、いい忘れたけど」
「えっ?なに?」
「この前、殻の話をしただろ。あの時、いうのを忘れてたことがある」
「いい忘れたこと?」
驚いて清司が目を丸くすると、栄一は、じっとその目を見つめた。
「人間は、殻以外に、もう一つ持っているものがある。何だと思うか?」
栄一の方から訊かれることなど、ほとんどなかったので、清司はどきりとした。
「知らないよ。なに?」
栄一は、また息を吐くと、一言、いい切った。
「もう一人の自分だよ」
「もう一人の自分?」
「そう。人は、もう一人の自分を持っている」
栄一の言葉を聞いて、清司はなぜか麻由美の顔を思い出した。
まるで二重人格のような麻由美の顔だ。
「始めは、みんな、そのもう一人がどこにいるのか、どんな性格なのかとかは知らない。子どもには、それはわからない。けれど、成長して、一人前になっていくうちに、そのもう一人の自分の正体に気付く。だんだん、はっきりしてくるんだよ」
清司はよくわからなかったが、「そうなんだ」と答えた。
「ということは、僕にも、もう一人の僕がいるんだね」
清司がいうと、栄一は首を横に振った。
「お前には、もう一人の自分は現れない」
「えっ?どうして?」
驚いて訊き返した。
栄一は、清司を馬鹿にするような目で見た。
「お前は、一生成長しないからだ」
「成長しない?」
「そうだ。お前は、成長しない。もうずっとこの家にいたが、お前は、年をとるだけで、頭の中はずっと子どものままだ」
清司はむっとした。少し頭にきた。
「なにそれ。僕のこと、子どもだっていうの?何で、僕、子どもなんていわれなきゃいけないの?」
すると栄一は、ふっと小さく笑い、答えた。
「だって、お前、一人じゃ何もできないだろ」
「何もできない?どういうこと?」
「そんなの、いわなくたってわかるだろ。学校にいる時も家にいる時も俺にしがみついて、離れようとしない。誰かが一緒じゃねえと、生きていけないんだよ。お前は」
頭がきて、清司は思わず声を大きくした。
「そんなことないもん。僕は一人でも、ちゃんと生きていけるよ。っていうか、栄一くんの方が何もできないじゃないか。僕たちが引き取ってあげたから、こうやって学校にも行けたんだよ?僕たちがいなかったら、栄一くん、何もできなかったんだよ?」
「違う」
栄一は素早く答えた。
「俺は、お前自身のことをいっているんだ。お前が、俺と同じ立場になったら、生きて行けないだろってことだよ」
そして、また馬鹿にしたように清司を見つめ、訊いた。
「お前は、親がいなくなった時、何もかもを失った時、一人で生きていけるか?」
栄一にいわれ、清司は少し黙った。親がいなくなったら、自分は歩いていけないかもしれないと思ったからだ。
しかしすぐに強くいい返した。
「大丈夫だよ。もう僕は子どもじゃない。……何かさあ、栄一くんって、ちょっと威張ってるよね。養子のくせにさ」
清司の言葉を聞いて、栄一は小さくいった。
「殻の中では、そんなもの関係ない。養子だろうが、外科医の息子だろうが、全員同じ人間なんだよ」
「そう。それだよ。殻の中とか、もう一人の自分とか、訳がわからないこといって、栄一くん、頭がおかしいんじゃないの?馬鹿みたい」
格好良くいったつもりだったが、栄一は何とも思っていないようだった。
「まあ、別に、お前が俺のことどう思おうが、気にしないけど」
あっさりといわれて、清司の怒りが増した。
「栄一くん……、いい加減にしないと」
清司の言葉を遮って、栄一は話し出した。
「お前、前に、俺と仲良くしたいのにって泣いただろう。寂しいっていって」
「それが何だっていうの?」
清司が訊くと、栄一は清司の顔を指差した。
「昔からいってるだろう。寂しいって泣いた奴は負けだって。負けた奴は、一人前の人間になんかなれねえよ。お前は一生子どものまま、生きていくんだな」
その言葉に、清司は完全にキレた。
「うるさいな!」
威嚇するように叫んだ。だが、栄一は何も反応しない。
「お前と結婚する婚約者も、気の毒だなあ」
突然、栄一は麻由美のことを話し出した。
「麻由美ちゃんが、気の毒……?」
清司がいうと、栄一は完全に見下した顔でいった。
「だって、いつまで経っても成長しない子どものお守りをしなきゃいけねえんだもんなあ」
「な……、何だって……」
清司の体が、わなわなと震えた。麻由美のことまで悪くいわれたのだ。
「本当はお前のことなんか、ただの頭の悪い、情けない男だと思ってんじゃねえの?」
「黙れ!」
清司は大声で怒鳴った。殴ってやろうかとも思った。
「栄一くん、妬んでるんでしょ。僕が、可愛い麻由美ちゃんと結婚するから……」
低い声でいうと、代わりに栄一は高い声で「はあ?」といった。
「何で俺がお前のこと妬まなきゃいけねえんだよ?」
「だって麻由美ちゃんの話、聞くの嫌がってたし」
清司は勝ち誇った顔で、まだ本人からいわれてもいないのに、自信たっぷりに話し始めた。
「麻由美ちゃんはねえ、僕のためだけにご飯やお菓子を作ってくれるんだ。麻由美ちゃんは、僕のことが好きなんだよ?頭が悪いとか、情けないとか、そんなこと、絶対に思ってないよ」
ふふん、と笑い、栄一を見た。きっと、すごく悔しがった顔をしているに違いない。
しかし、栄一は興味がなさそうに「あっそ」といって、清司を残して歩いて行った。
置き去りにされた清司は、怒りで震えていた。
息が荒く、体は炎のように燃えていた。
自分だけならまだいい。しかし栄一は、麻由美のことまで馬鹿にしたのだ。
養子のくせに、馬鹿にしやがって………………
「畜生!」
大声で怒鳴った。声に出さずにはいられなかった。
すると、母親と家政婦のおばさんが、あわてて駆けつけてきた。
「どうしたの?何かあったの……?」
母は泣いていた。家政婦のおばさんも、心配そうに清司を見つめた。
「何でもない。何でもないから……」
小声でくり返し二人にいった。ここが家なのだということを、すっかり忘れていた。
「本当に、何でもないのね……?」
「うん。大丈夫だから。心配しないで」
そういって、清司は「ごめんなさい」と謝った。
それから数日後、栄一は北原家から出ることになった。
玄関で、清司は栄一に、捨て台詞を吐いた。
「僕、栄一くんがどうなっても知らないからね。一人きりになっても、助けてやらないからね」
すると栄一は、また馬鹿にするような目をし、答えた。
「じゃあ、俺も、お前が一人きりになって、どうしようもなくなっても、助けてやんねえから」
そういって、栄一は笑った。
栄一が笑ったところを見たのは、これが最初で最後だった。




