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栄一が何もすることがなく、ぼんやり空を見上げていると、すみれが声をかけてきた。
事務室に来てくれる?と訊いてきた。
何だか嫌な予感がしたが、暇だったので行くことにした。
部屋に入ると、2人掛けのソファと1人掛けのソファが向き合って置いてあった。
栄一がそれを見ていると、後ろから声をかけられた。
「こんにちは」
振り返ると、人の良さそうな男が笑って栄一を見下ろしていた。
誰にでも好かれそうな顔をしていた。
「栄一くん、ちょっとお話しをしたいんだけど、いいかな?」
優しくて、穏やかな口調だった。
「そんなに難しい話じゃないから」
そういいながら、男は栄一の背中を押しながら部屋の中に入った。
ソファに座り、栄一にも座るようにソファに手を向けた。
栄一は体を固くして、男の顔を見つめた。
嫌な予感がじわじわと広がっていった。心の中が黒く濁っていく。
「僕は北原幸司というんだ。ちょっとでいいから、話に付き合ってくれないかな」
にこにこ顔で、栄一に話しかけてくる。
栄一は黙ったまま男を見た。警戒していた。何を考えているか、探ろうとした。
「知らない家族と一緒に暮らすのは嫌かな」
北原幸司は愛想よく栄一にいった。
栄一はさらに体を固くした。思った通り、北原幸司は栄一を引き取りにやって来たのだ。
「栄一くんのために、家に来て欲しいんだけど」
「俺のため?」
栄一は初めて声を出した。
栄一の声を聞いて、北原幸司は嬉しそうに目を細めて笑った。
「うん。君は家族と一緒に家で暮らしたことがないんだと聞いて、僕は君を北原家の家族にしたいと思ってね」
栄一は何もいわずに黙っていたが、しばらくして、また声を出した。
「何で俺なんですか」
低い声で訊いた。
「だから、君のためだといっているだろう」
「でも他にも親がいない子がいるじゃないですか」
「いいや」
北原幸司は首を横に振りながら、栄一にいった。
「君は家族も住む家もないだろう。家族の愛を感じたことがない。ずっと施設暮らしなんてかわいそうじゃないかと思ったんだ」
その瞬間、栄一は体に雷が落ちてきたように体を震わせた。
かわいそう……?
栄一は馬鹿にされたような気がした。
家族も住む家もなく、かわいそうな子どもだから、仕方なく家に入れてやる。
杉尾栄一は、誰かがいないと生きていけない。一人じゃ何もできない人間なのだ。
そう、栄一には聞こえた。
いままで栄一は死ぬほどの努力をして、誰の力も借りずに、一人きりで生きてきた。
その栄一の姿をこの男は知らない。勝手に栄一を弱い人間だと決め付けたのだ。
栄一は、金も親も住む家も持っていない。
たったそれだけの理由で、北原は栄一のことを見下したのだ。
「どうかな?僕は君を家族にしたいんだ」
わなわなと怒りに震える栄一に気がつかず、北原幸司は愛想よく笑いかけてくる。
「それに」
北原幸司はじっと栄一を見つめた。
「僕には子どもがいるんだ。君と同じ六歳で名前は清司というんだけどね。清司は一人っ子で、いつも寂しそうにしている。だから、清司と兄弟になってほしいんだ。同い年だから、すぐ仲良くなれると思うよ」
栄一は北原幸司を睨んだ。
栄一のためなんていってるが、本当は実の息子の清司の遊び相手を作るために栄一を家に呼びたいんだろう。
清司の遊び相手は、同じ年の少年であれば誰でもいいのだ。
栄一は運悪く、清司の遊び相手になることになってしまったのだ。
さらに家庭の愛を知らない、天涯孤独の栄一を引き取ることで、北原家のイメージがよくなると考えたのかもしれない。
北原さんは優しい人ね………ただ、そういわれたいだけなのかもしれない。
「栄一くん」
北原幸司は真っ直ぐに栄一を見た。大事な清司の遊び相手になってくれないかな、という目だ。
栄一のことなんか何も考えていない。全ては愛しい息子のためなのだ。
栄一は体を動かさず、何もいわず、その場に立ち尽くしていた。
「だめかな?やっぱり」
北原幸司は困った顔をした。それでも、栄一は何もしなかった。
「ごめんね、嫌なこと話しちゃって。もう戻っていいよ」
北原幸司は頭を下げながら、栄一に謝った。
だが栄一は部屋から出なかった。
不思議な顔で、北原幸司は栄一を見つめた。
「どうしたんだ?」
北原幸司が栄一の肩に触れようとした。
栄一はそれをかわし、小さく呟いた。
「いいですよ」
「えっ?」
北原幸司は驚いた顔をした。
「いいって……僕の家に来てくれるってことかい?」
「はい」
ぶっきらぼうに栄一は答えた。
「ここにいても、何もいいことなんてないから」
そういいながら、栄一は愛子の顔を思い出した。
「そうかそうか」
北原幸司は嬉しそうに頷き、また栄一の肩に手を伸ばした。
栄一はすっと体を捻り、そのまま部屋から出た。
愛子がいないんだったら、ここにいても仕方がない。
そして、勝手に一人じゃ何もできない人間だと決め付けたこの北原という男と、息子の清司に、自分がどれほど努力をしてきたか、どれくらいの力を持っているのかを見せてやりたかった。
このまま……弱い人間だと思われたままで、北原と別れるわけにはいかなかった。
俺はこんなにも強い力を持っているのだ。
何もできないのは、お前たちの方だろう……………………
怒りで体は火が出てくるように燃えていた。
しかし頭の中は氷のように冷たく凍っていた。
それから数日後、栄一は養護施設という殻から出て行った。




