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愛子は栄一の顔をじっと見つめ、もう一度いった。
「あたし、愛子じゃなくなるの」
「愛子じゃなくなるってどういうことだ?」
栄一は震える声で訊いた。全くわけがわからない。
愛子は緊張した顔で栄一を見つめた。
そして栄一の質問に答えず、続きを話し出した。
「前に、二人で何か……大きな何かを残そうって約束したよね。誰にも踏み潰されない、ものすごく大きな何かを」
「うん」
栄一は蝉の話をした時のことを思い出した。
そういえばそんなことをいっていた。情けないことに、栄一はすっかり忘れていた。
「あたし、ずっと探してたんだ。あたしたちがちゃんと生きてたっていうのを残すための何かを」
栄一は、そんなことはもっと後で見つければいいと思っていた。
ずっとずっと一緒に、何年間もこの施設で生きていくんだろうと、のんびりしていた。
こんなにも早く別れがくるなんてことに、全く気づかなかった。
愛子はあの日からずっと一人きりで、残せる大きな何かを探していたのだ。
「あたし……愛子は殻の外に出て、一瞬で消えるの。2週間も生きられない。何も残さず死んで、みんなすぐにあたしのこと忘れちゃうよ」
愛子は無表情でいった。こんな顔を見たのは初めてで、栄一は驚いた。
「こんなふうに残せるものを見つけられないまま、あたしと栄ちゃんは離れ離れ。愛子は死んで消える」
「ちょっと待ってくれよ」
愛子の話があまりにも飛躍しすぎていて、栄一はあせった。
「どうして愛子じゃなくなるのか、教えてくれよ。愛子が死ぬとか、さっきから全然……意味わかんないよ」
栄一の質問に、愛子は即答した。
「教えられない」
雪男から、愛子が麻由美になるということは誰にもいうんじゃない、といわれている。
愛子はそれに従って、誰にも話していない。これからも話す気はない。
逆らったら、殺されるかもしれないのだ。
「でもね、あたしは殻の外に出たら愛子じゃなくなるんだけど、一つだけ、愛子が消えない方法がある」
「消えない方法?」
「そう。その方法が、ミサンガを栄ちゃんと付けるってことなの。愛子は栄ちゃんとミサンガで繋がってる。愛子が作ったミサンガで繋がってる。そうすれば、あたしは愛子として生きていられる」
愛子はじっと栄一の顔を見つめた。栄一がどんなことをいってくるのか、待っているようだ。
「殻の中にいる俺がおまえとミサンガで繋がってるから、殻の外に出ても愛子は消えないってことか」
栄一は確認するようにいった。愛子はこくりと頷いた。
「そう。だから、もし栄ちゃんがミサンガを付けないなら、あたしは何にも繋がらず、一人きりで消えちゃう。何も残さないで」
このまま終わらせるわけにはいかなかった。
殻の外では『麻由美』という別の自分で生きて、殻の中では『愛子』という本当の自分で生きる。
それをするには、栄一が愛子とミサンガで繋がっていないといけない。
愛子のことを絶対に忘れないのは栄一だけなのだ。
栄一と繋がっていなかったら、愛子はそのまま『麻由美』という人間になってしまう。
愛子と繋がれるのは栄一だけだ。そして繋がるための方法は、ミサンガを付けるということだ。
「あたしは違う家で違う名前で生きていく。でも本当は愛子は生きていて、栄ちゃんとミサンガで繋がってるの」
そして、愛子はまた祈るように両手を合わせた。
「まだ今日は愛子でいられる。でも明日には違う人間になっちゃう。もう時間がないの。お願い、あたし、愛子として生きていたい。栄ちゃんと繋がっていたい。違う家で、違う名前で生きるなんて嫌だよ」
愛子は泣きそうな顔をした。
栄一も嫌だった。愛子が消えたら、どうやって生きていけるのだろうか。
そして、どうして愛子が違う名前で引き取り先の家で生きなければいけないのか、わからなかった。
愛子がいっている、『違う名前』とは何だろう。
栄一は気になって仕方がなかった。しかし教えてくれない。
「……じゃあ、二人で残す大きな何かはどうやって見つけるんだ。もう明日は愛子じゃなくなるんだろ?」
栄一が訊くと、愛子はすぐに答えた。
「それは、後から見つけてもいいんじゃない」
「えっ?」
驚いて変な声を出してしまった。
後から見つけてもいい、とはどういう意味だろうか。
「いまはもう無理だよ。だって、もう明日は違う人間になっちゃうもん」
そして愛子は大きな目で栄一の顔を見つめた。
栄一は体が固まった。愛子の目が、六歳の女の子の目に見えなかったからだ。
落ち着いた口調で、愛子は話し出した。
「あたしたち、まだ六歳でしょ。まだ六年しか生きてない。でも、これから何年か経ったら、いつか大人になるでしょ」
栄一はどきりとした。なぜか頭のどこかで、聞いてはいけないと思っていた。
「大人になったあたしと栄ちゃんはいつかどこかでまた出会う。そして、その時二人で大きな何かを見つけよう。ね、約束しようよ」
「ちょっと待て」
栄一は動揺した。心臓がどくどくと速くなっていった。
愛子は不思議そうな顔をした。栄一とは反対に、愛子は落ち着いていた。
「何でいま大人になった時の話するんだ」
「だって、もう会えるのは大人になってからじゃないとだめでしょ。いま約束しないと。また会おうねっていう、大事な約束」
「約束しても、必ず会えるわけじゃないんだぞ。それに、その、おまえは大金持ちの家に行くんだから、どっかの金持ちの男と生きるんだろう」
「大金持ちの家でも、あたしが嫌だっていったらやめてくれるよ。あたしは栄ちゃん以外の男の人と仲良くしないもん」
力強く愛子は話した。
栄一はあまりにも飛躍しすぎていて愛子の話についていけなかった。
愛子はさらに大人びた声で話し出した。
「栄ちゃん……」
栄一は足ががくがくと震えていた。聞いてはいけないと思った。聞くのが怖くなった。
大人になった愛子とまた会うことなんて、できるのだろうか。
いま、ここでそんな約束をして、本当に約束を果たすことができるのだろうか。
自分には、そんなことができるわけがないと思った。
「栄ちゃん、あたしとミサンガで繋がって。また会おうねって、約束しようよ。お願い。また会えるように、約束しよう」
愛子の落ち着いた、凛とした声が聞こえた。
さらにミサンガを栄一の目の前に差し出した。
「ミサンガで繋がっていよう。ミサンガが、あたしたちをもう一度会わせてくれるよ」
栄一は素早く後ろに振り返った。愛子が次の言葉を話そうと口を開けたのと同時だった。
愛子の声から逃げるように、栄一は走った。全力疾走した。体中の力を、全部足に集中させた。
愛子が追いかけてこないように、必死に走っていった。
心臓の音がどくどくと速くなった。走っているせいだけではないと思った。
ただ前に向かって走り続けた。
しばらくして、栄一は足を止めた。
栄一は、施設の裏にある、小さな森の中にいた。
荒い息で胸が痛くなった。こんなに長く、全力で走ったのは初めてだ。
栄一は息が落ち着くように、その場にしゃがんだ。
その時、何かが膝の上に載っていることに気がついた。
栄一はふとそれに目をやり、驚愕した。
膝の上に載っていたのは、愛子が作ったミサンガだった。




