32
愛子は、また雪男と話しをすることになった。
逆らったらいけない……愛子は身を固くして、雪男が部屋に入ってくるのを待った。
雪男は二時間も遅れて、部屋にやって来た。
雪男が来るのを待っていた施設の人間は、やっと来た……と、小さく呟いていた。
酒とタバコが混ざった汚臭を漂わせて、雪男は愛子の前に座った。
「元気だったかい?」
にやにやと笑いながらいった。
話しがしたいといってきたのは雪男の方なのに、こんなに遅刻をして、しかも謝りもしない雪男を、愛子は冷たい目で見た。
雪男は笑ったまま、愛子を頭のてっぺんからつま先まで眺め、ゆっくりと話し出した。
「麻由美が死んだことなんだけどね」
愛子は目を合わせずに、雪男の不快な声を聞いた。
「どうして死んだのか、知りたくないか?」
雪男は愛子の顔を覗き込むようにして、訊いてきた。
愛子は小さく首を横に振った。
会ったこともない人が死んだ話を聞きたいなんて、誰も思わない。
しかし雪男はソファの背にもたれかかり、笑いながら話し出した。
「暑い夏の日に、麻由美が突然海に行きたいといってきたんだ。麻由美がそんなことをいうなんて、初めてだったから驚いたよ。私のいうことをきちんと聞く子だったからね。私がだめだといったら泣き出したんだ。仕方なく、海に連れて行くことにした」
愛子は、どうして雪男が海に行くのを許さなかったのかわからなかった。
雪男は続けていった。
「砂浜で遊ぶようにいったんだけど、麻由美は海の中に入りたいといったんだ。いうことを聞けといっても無視をしたんだよ。そして、突然どこかに行ってしまった」
雪男はタバコを取り出して吸い始めた。愛子の顔に、もろに煙がかかった。
「帰って来るまで待っていたんだ。何時間経っても戻ってこなくて、イライラしたよ。それからしばらくして、女の子が海に浮かんでいると誰かがライフセーバーに伝えたらしい。見てみたら、麻由美だった。海にプカーッと浮かんでいる麻由美を見て、近くで見ていた女の子たちは泣いていたよ。かわいそうだったな」
他人事のようにすらすらと話す雪男を、愛子は冷めた目で見た。
かわいそうだと思う人間を、この男は完全に間違えていた。
雪男は一人娘が死んでも、全く気にしていないようだ。むしろ邪魔な物がなくなって、せいせいしているように見えた。
「わがままなことをするから死んだんだ。馬鹿な娘だった」
愛子は麻由美を哀れに思った。もし父親がこの男ではなかったら、死なずにすんだだろう、と思った。
どうして姿が見えなくなった時に探してやらなかったのか。面倒くさかったからだろうか。
以前、愛子はヘアピンを使って、開かなかったドアを開けて外に出て行ったことがあった。
父親は驚いて、必死に愛子を探した。
見つけた時、父親は愛子を抱きしめながら、涙声でいった。
「一人でどこかに行っちゃだめだよ。お父さん、ものすごく心配したんだよ」
父につられて、愛子も大泣きした。
外に出て迷子になり怖かったこともそうだが、父がこんなにも自分を大事に思ってくれていることが嬉しかった。
それなのにこの男は探しもせず、死体を見ても涙ひとつ落とさず、さらに馬鹿でわがままといったのだ。
愛子は目を閉じて、頭を小さく左右に振った。
本当に、この男は麻由美の父親なんだろうか………………
たぶん雪男は娘のことをただの綺麗なお人形だと思っているのだ。
人形が壊れたら、また新しい人形を買えばいいと思っているのだろう。
要するに、六歳の女の子だったら『麻由美人形』は誰でもよかったのだ。
そしてそのお人形が、運悪く愛子になってしまったのだ。
娘を愛さない父親がいるということが、愛子には信じられなかった。
そして、もう一つ信じられないことがあった。
雪男に怒られたことだ。
愛子は父親に、注意されることはあったが、怒られたことはなかった。
だから父親は子どもを怒らないのだろう、と思っていた。
初対面の愛子にあれほど冷たい目を向けるということが、理解できなかった。
麻由美はただ、海に行って水の中で泳ぎたかっただけだ。
それを、わがままなことをしたとか、馬鹿な娘だとかいわれ、麻由美は本当に不幸な子どもだったと思った。
知りたくもない、嫌な気分にさせる話を聞き、愛子はさらに暗くなった。
これからこの男の一人娘として、同じ家で同じ物を食べ同じ空間で生きていくのだ。
もう後戻りはできない。逆らったら、殺されるかもしれないのだ。
「麻由美が来てくれるのが待ち遠しいよ」
そういって、雪男は愛子にタバコの煙を吹きかけた。




