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部屋に入ると、タバコの臭いがした。
愛子は鼻を手で覆った。咳が出そうになった。
愛子の父親はタバコを吸わなかった。こんなに強い汚臭は初めてだ。
部屋の中央には、二人掛けのソファが置いてあった。そして、一人掛けのソファが、それに向き合うように置かれていた。
二人掛けのソファには、大男が座っていた。
二人掛けソファなのに、窮屈そうだった。
愛子はドアの前に立ったまま、不快な気持ちでそれを見た。
「愛子ちゃんだね」
大男はねっとりとした口調で話しかけてきた。いやらしい目でにやりと笑った。
愛子は気分が悪くなった。
「そうです」
目を合わせないようにして、小さく答えた。
大男は首を縦に何度か振り、また話しかけてきた。
「そうか。じゃあ、そこに座って」
大男が一人掛けのソファを指差した。
愛子は戸惑った。近づきたくないと思った。近づいたらいけない、と頭の角で誰かがいっていた。
そのままドアの前で立ちすくんでいると、大男は不思議そうな顔をした。
「どうしたんだ」
そして、のっそりと立ち上がった。
「早くおいで」
大男が近づいてきた。にやにや笑っている。
愛子は後ずさりした。タバコの臭いがきつくなった。酒の臭いもした。
口を手で覆った。吐き気がした。
大男はゆっくりと、手を伸ばしてきた。
「ほら。おいで」
愛子は素早く後ろを振り返り、部屋のドアノブを掴んだ。
だがその時すでに、愛子は大男に腕を掴まれていた。
「放してください!」
愛子は大男のにやにや顔を睨んだ。
大男は長い息を吐いた。酒の臭いが愛子を包んだ。
「聞いていないのか?」
大男が愛子に訊いた。また酒の臭いがした。
「何をですか」
睨みつけたまま、愛子はいった。
「ああ、まだ知らなかったのか」
何か話す度に、汚臭が漂ってくる。
「だから、何のことですか」
大男はにやりと笑うと、愛子に顔を近づけた。
「今日から、君は私の娘になるんだよ」
「えっ?」
愛子は大きな目をさらに大きくした。
「何いってるんですか?あたしが、どうして……」
「話を聞いていないんだね。では私が教えよう。私は、去年の夏に一人娘を亡くしたんだ。だから新しい娘がほしくなったんだ。娘がいないと、なんだか格好悪い気がしてね」
大男は愛子の顔を見つめた。
「君を新しい娘にしようと考えたんだ」
愛子は愕然とした。そんな話は、一度も聞いたことがなかった。
にやにやと笑う大男に向かって、愛子は大声を出した。
「嫌です!そんな話、聞いてません!勝手に決めないでください!」
施設の人間に聞こえるようにいった。誰かが助けにきてくれると思った。
しかし誰もやってくる気配がない。愛子の心臓がどくどくと速くなっていく。
「放してください!」
愛子は掴まれた腕を必死に放そうとした。
「そんなこといわずに。ね。欲しいものがあったら、いっぱい買ってあげるよ」
酒臭い言葉に、愛子は気を失いそうになった。
「誰か……誰か助けて!」
泣きながら叫んだ。しかし誰も来てくれない。
「栄ちゃん!助けて!」
暴れる愛子を大男はがっしりと掴まえた。身動きできなくなってしまった。
「助けてっ」
もう一度愛子が叫ぶと、大男は別人のように冷たい目で愛子を見下ろした。
「静かにしろ」
その一言で、愛子の体は停止した。
「いうことを聞け。娘になれといっているんだ」
体が凍りついた。あまりの恐怖で、愛子は何もいえなくなってしまった。
「これ以上騒いだらどうなるか……」
大男はそこまでいって、言葉を切った。
これ以上騒いだら……
………………殺される……………………………
愛子は何もいわず、そのまま固まっていた。
大男も愛子の体を捕まえたまま、黙っていた。
しばらくその状態が続くと、突然大男がもとのにやにや顔に戻った。掴んでいた愛子の腕も放した。
「じゃあ、よろしくね。ああ、そういえば名前をいっていなかったね。私は鳥居雪男というんだ」
愛子は何もいわず、俯いていた。
「で、お願いがあるんだけど」
鳥居雪男は、愛子の顔を覗き込んだ。
「これからは『愛子』じゃなくて、『麻由美』っていう名前にしてくれるかな?」
愛子は、はっとして顔を上げた。
「まゆみ……?」
小さく呟くと、鳥居雪男は大きく頷いた。
「私の娘は麻由美というんだ。だから君も麻由美という名前にしてほしい。君は私の娘になるんだから、麻由美になるのは当然だろう」
愛子はまた愕然とした。
大好きな父親が付けてくれた『愛子』という名前。
愛子は自分の名前が好きだった。
会ったこともないし見たこともない女の子の名前に改名されてしまうなんてことは、絶対にできるわけがなかった。
「いいね?麻由美」
鳥居雪男は、愛子をにやにやと見下ろした。新しい娘をいやらしい目で見た。
愛子は絶望感でいっぱいになった。
死んでしまいたいとまで思った。
足の力が抜け、そのまま床に座り込んだ。
「何でも買ってあげるよ。金はたくさんあるんだ」
鳥居雪男は大声で笑った。
「いっぱい可愛がってあげるからね」
項垂れた愛子にいって、鳥居雪男は部屋から出て行った。




