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「うるせえなあ」
そういって、栄一はベッドから起き上がった。
「いつまで泣いてんだ」
先ほど施設に入ってきた女の子に呆れたようにいった。
女の子がやって来たのは三時間ほど前。
そしてそれからずっと泣き続けている。
「いい加減にしてくれよ」
頼むように、栄一は女の子にいった。
女の子はピンク色のセーターとチェック柄のスカートを着ていた。
真っ白のマフラーを抱きしめて、そこに顔をうずめるようにして泣いていた。
転んだら折れてしまうんじゃないかというほど手足が細く、茶色の髪は腰まであった。
今日から栄一はこの女の子と一緒に過ごすのだ。
栄一はいままで、4人部屋を一人で使っていた。
そこに新しくやって来たこの子が入るのだ。
嫌だな、と思った。
女の子と一緒にいるのかと思うと、何となく気持ちが暗くなった。
すみれは栄一の気持ちに全く気づかず、「よかったね」と笑顔でいった。
「栄一くん、ずっと一人ぼっちだったから」
栄一は別に寂しくなかった。というか、一人でいたかった。
「じゃあ、仲良くね」
そういって、この子を残して部屋から出て行った。
栄一は自分のベッドから降りて、女の子の座っているベッドに移った。
「お前、名前何ていうの?」
部屋に入ってきた時にすみれが教えてくれたが、この子の大きな泣き声でよく聞こえなかったのだ。
女の子はそっと顔を上げた。大きな目から涙が溢れている。
「……おとうさん……が、し……んじゃった」
女の子は栄一の質問と違うことをいった。
「そうじゃなくて、名前だよ」
もう一度栄一がいうと、女の子は消えそうな声でいった。
「あいこ……」
「アイコ?」
「恋愛の愛に子どもの子で愛子。……お父さんが付けてくれた」
そして俯いた。涙の雫が落ちた。
「いや、俺、まだ漢字とか知らないし」
栄一は苦笑いをした。
「じゃあ、何歳?」
もう一度質問すると、愛子は小さな手のひらを広げた。五歳という意味だ。
「ああ、俺と同い年か」
そういって、改めて愛子の顔や体を見た。
何となく年下のように栄一には見えた。
逆に栄一は年上のようにしっかりしている。
愛子は何もいわず、そのまま俯いていた。
愛子は父親と二人で暮らしていた。
その父親が事故に遭い、このあさがお園にやって来たのだ。
どういう事故かは愛子は知らない。
「お母さんは?」
栄一が訊くと、愛子は首を横に振った。
「いない……。あたしが生まれてすぐに、病気で死んじゃった……」
その病名も、愛子は知らなかった。
「あたし、お父さんが好きだった。大好きだった……。大好きだった……」
愛子はまたマフラーに顔をうずめた。
泣いている愛子を見ながら、栄一の心の中が濁っていった。
この子も誰かに愛されていたのかと思うと、いつも栄一の心は濁る。
相手が自分を愛してくれる。だから自分も相手を愛する。そして、愛の糸が出来る。相手と繋がるのだ。
その糸は愛すれば愛するほど太くなっていき、紐のようになる。
ちょっとやそっとでは千切れることはない。
しかし栄一は、その紐を持っていない。
誰とも繋がっていないのだ。
「名前教えて」
栄一が一人で考えていると、愛子が訊いてきた。
「え?」
突然訊かれたので、栄一は少し驚いた。
「名前教えて」
愛子は大きな目で栄一の顔を見た。涙できらきらと光っていた。
栄一はちょっと黙ってから、「栄一だよ」と答えた。
実は栄一は、自分の名前が本当に『杉尾栄一』なのかよくわからなかった。
『杉尾』という家の息子なのだろうか。でも杉尾という名前の人間と会ったことはない。
そして『栄一』は誰が付けたのだろう。
親だろうか。それとも施設の人間か。とにかく、栄一は自分の名前がなぜ『杉尾栄一』なのか知らなかった。
『杉尾栄一』と呼ばれるから、栄一は『杉尾栄一』なのだ。
自己紹介をする度に栄一は、『栄一だよ』といっていいのか迷う。
「……栄一くん」
愛子が小さな声で名前を呼んだ。
そして、涙の溢れる目でそっといった。
「栄一くんって、いい名前だね……」
透き通るような声だった。
栄一の濁った心の中に、綺麗な水が流れ込んできた。
「そうかな」
栄一は首を傾げた。
いままでこんなことをいってくれる人はいなかった。
「そうだよ」
愛子の声が栄一の心の中を潤す。
「愛子もいい名前だよ」
栄一がいうと、愛子は涙目で少し笑った。
「ありがと……お父さん、きっと……喜んでる……」
どうして愛子が父親が喜んでいるのか、よくわからなかった。
栄一は右手を差し出した。愛子の小さな肩に手を置いた。何だか、支えていないと崩れそうになってしまう気がした。
そして、なぜかこの子を護るのは自分だ、と思った。




