影無し子
目を開けても、そこにあるはずべき碧い影は何処にも見当たらなかった。
もう思い出すこともできないくらい、ずっと前から探し続けていた私の影。
永遠に手放さないと杭を打ちつけ見張っていたのに、つとまどろみかけ目を開けた次の瞬間には、もう逃げてしまっていた。
私は『影無し子』だ。
名の表す通り、生まれながらにして影を持たない子をこの村ではそう呼ぶ。
いなくなったと思ったらまた一人生まれた、その程度の割合で影無し子は現れる。そのすべてが女として生を受け、美しい容姿と極めて甘露な歌声を持ち合わせる。だが、齢15まで村にいた『影無し子』はいないと聞く。
「影のない子は 烏の王の嫁になるんだよ」
そう言いきかされながら影無し子は育つ。
王の嫁になることにより美しい碧い影を受け取り、一心の寵愛を受け、一村娘として待ち受けるであろう平凡な幸せの何十倍もの幸を得ることができるのだと。
故に、『影無し子』は自分の定めを恐れないと聞く。
初潮を迎えた日から数えて6日。花嫁となる準備を終えたとして、子は身体を湧き水で丁寧に清められる。白布で縫われた簡素な衣裳を身に着け、村で行う嫁送りの儀式が一通り執り行われたのち、深く掘られた地中にあると言われる闇への祭壇へ向かって、一人で降りていく。
そこでどのような婚礼が行われるのかは誰も何も知らない。
だた一つわかっていることは、誰一人穴から出てきた者がいないということだけだった。
緑が茂らず荒れ果てた平原に、切り込まれたように鋭く亀裂の入った大岩がある。
亀裂は、さびた岩肌からは想像もできない程黒く濡れ光り、その美しさ故に削り取ろうとする輩が後を絶たないのだが、如何なる手段を持ってしてもほんの小さな傷すら付けられずにいた。
婚儀の式が終わると、大勢の村人が見守る中、私はその亀裂に身体を滑り込ませるようにして入っていった。この漆黒の亀裂が闇の神へ続く祭壇への道と言われている。
細い細い、子どもがやっと通り抜けられる程度の亀裂が緩やかに続く。冷たく滑らかな岩肌は私の衣をうまく滑らせながら闇へと導いてれ、私は何も考えないようにただひたすら真っ暗な亀裂の合間をずるずると伝っていった。
どれほど下っただろうか。突然すっぽりと体が抜け、私は足をまろばせながらその場所へと躍り出た。
見たことも無いほど豪奢な装飾が施された広大な祭壇の間が、そこにはあった。
壁周りにはいくつもの松明が燃えているというのに、全く息苦しさを感じない。漆黒の壁一面には細やかな浮き彫り細工がびっしりとしきつめられ、その複雑な文様はひとつとて同じものがなかった。
思わずすべてを忘れ、見入っていると、白檀香の香りと共に静かな衣擦れの音が近づいてくるのがわかった。
慌てて振り向くと、幾重にも薄く滑らかな衣を身にまとった、背の高い一人の男が立っていた。
「よくぞ来た。后となる者」
赤と黒の石粒が散りばめられた冠の下には、見紛う事無き烏の頭がそこにあった。
「后となる者よ、我の闇を与えよう。これより影結いの儀を執り行う」
男が片手を軽く上げると、さらさらと音を立てながら幾人もの使いらしき男女が現れた。そのすべてが同様に烏の頭を持ち、簡素ながら質の良い衣装を身にまとっていた。最も身分の高い者らしき一人が私の元へ来て、奇妙にしわがれた声でこう告げた。
「影無しが新たに影を得られれば、より強き魂を得ることが可能じゃ。さすればその容姿を持ち続けたまま死が時を幾百年も迎える事はなくなる故、晴れて我が主の后として輿入れさせようぞ。
主は我が主より影を賜ってより三日、己にしかと縛り付けておかねばならぬ。
産み出でたばかりの影は赤子同様にしかと定まってはおらぬ。主を持たねば即座に消え行き、さすれば主の命も消えよう。片時も目を離すこと無きよう」
私は闇人達の手により身を清め飾り立てられ、祭壇にて王と共に婚礼の儀を受けた後、漆黒の帳の中に通された。
烏の王は帳と同じくらい深い闇のような衣で座っていた。
「傍に来い」
帳の隅で震える私に、烏の王は静かに深い声で呼びかけた。
「お前は己の出自を呪うておろう。それは我も同じだ。
ならば同じ者同士、僅かな時なれど慈しもうぞ」
やがて、意を決して近付いてきた私の手を取り、王は「我が怖いか」と尋ねた。
「いいえ・・・・・・」
「そうか。ならば良かった」
王は黒い瞳で私を見つめて静かに呟く。
その瞬間、私の台詞は本物となった。
数刻後、私は王の身体から抜き取った影を産室にて産み落とした。
産まれたばかりの碧く光る影と共に、私はそのまま闇の迷宮の中にある部屋へと連れてゆかれた。しっかり見張るよう言い渡され、自分で影に杭を打ち込み、見張ること三日目。
私はまどろんでいた。あともう僅かで后となることができる。あの方の元へ戻れる。微笑みながら膝を抱える私の頬をすっと冷たい何かがよぎった。慌てて瞼を開いた私が目にしたのは、抜かれて転がった杭だった。
絶叫を聞きやって来た烏人達は私を部屋から引きずり出し、そのまま闇の迷宮を探して回るよう命じた。三日目の終わりまであと数刻。影が潜んでいるであろうこの中で、何としても私は見つけ、捕らえなければならい。
一度影を持った者が再び影を失うのは、死にゆく時のみなのだから。
私は一人で闇の中を延々と歩き続ける。
鈍く光を放っていた影を見失った今、便りとなる光源は何も無く、手探りで息苦しい岩壁を伝って歩くしかなかった。手のひらがじりじりと熱を持つ。おそらく指紋が削れ、血が滲んでいるのだろう。
幼い頃からずっと語り聞かせてもらった物語。村にいつの日か富と繁栄をもたらしてくれるという、闇の神である烏の王。その崇拝の証として昔から影無し子は送り出されてきた。
お前は選ばれし嫁なのだよ。
毎夜紡がれる幸福な烏の后の物語、時には若い娘から羨みの言葉をもらうこともあった。
だが、薄々ではあるが解っていた―――これは、嫁入りという名の生贄なのだと。どのように美しい言葉で飾りたてたとて、そこに待つものは死でしかないのだろう。
眩しい未来を信じて穴に入り、出ることかなわず、それでも代々の影無し子達は闇の中を彷徨い続け、飢え乾き力尽きるまで信じていたのか。
后になれると。
もうどれだけ歩き続けたのかわからない。私は痛む手を押さえながらずるずるとその場に座り込んだ。おそらくもう、このまま迷宮を彷徨い続けても影を見つけることはできないだろう。
地上では、たとえ闇夜が訪れても、潤む草の匂いが心を和ませてくれた。
こすれあう命の音を運ぶ風の吐息が、明日への想いをくれた。
だが風も光もないこの闇で聞こえてくるのは自分の荒い息づかいのみだった。
―――あふれる黒、黒、黒。
心が縮んで今にも叫び声をあげそうになるのを必死で沈めようと目を閉じ、手で顔を覆い、何度も大きく息をする。本当は声も出したかったが、喉をふるわすのは悲鳴しか出ない気がしてできなかった。
どれ程の時が経ったのだろう。
いつの間にか私は夢を見ていた。
夢の中では、小さく粗末な小屋の中、少女達が歌っていた。
昔々の唄なんじゃよ。そう言いながら老婆達が、事ある毎に歌い聞かせてきた唄だった。
あまや あまや たゆたう
くらをもとめ うたわば
やみにおわれ つぶれる
あんや すべる からすが
ゆめに いでし うんもの
おとめ こがれ たゆたう
あまや うたえ はなつば
おとめ こがれ はなつば
意味も分からぬ上に哀し気な旋律ではあったが、歌うことが唯一の楽しみであった私はすぐにそれを覚え、暇さえあれば口ずさんでいた。
作業の片手間や遊びの合間にほそぼそと歌い継がれてきたこの唄は、女以外に歌うのを見たことがなかった。おそらく意味合いが女々しい類の唄なのだろう。
いつの間にか唇が動いていた。粘つく舌でひび割れた唇を湿しながら、乾ききった喉を無理矢理こするようにして私は呟いた。
「あまや あまや たゆたう・・・・・・」
むうっと、空気がうごめいた気がした。
はっと我に返り、顔を上げる。
気のせいだったのだろうか。
無理矢理押し殺している恐怖が、そう感じさせるのか。
不安な気を静める為に、背筋を伸ばしてもう一度唄をこぼしてみた。
「あまや あまや たゆたう・・・・・・」
動いている。
闇の中で、闇が揺れるように動いているのを感じる。
人や獣の気配のようにむらのある感ではなく、繊毛のさざめきのような共振のような不気味な一律性で闇が反応している。
恐怖で膝が細かく震えるのを止めることもできないまま、必死で頭を巡らす。
何故歌うだけで、闇が反応しているのか。考えてはみたが分からない。
だが、訳の分からずとも何かが起こる方が、何も起こらず全てが終わるよりは、まだずっとましなように思えた。
私は覚悟を決め、呟やくように続けた。
「――くらを もとめ うたわば
やみに おわれ つぶれる――」
わゆわゆわゆわゆわゆ・・・・・・。
闇の共鳴は一層力を持ち、音も無いままにさざめいている。
私は震えながらも歌い続けるうちに、あることに気が付いた。
――闇が、唄の拍子に合わせて歌っている。
じりじりとした細やかな波動が、一小節毎に寄せては引いていくのを肌で感じる。
一曲歌い終えて、私はふっと息をついた。
とたんに、闇もぴたりと動きを止めた。
闇が唄に反応している事に、何か理由があるのだろうか。
恐怖におののきながらも私は不思議に思い、もう一つ二つ、別の小唄を口ずさんでみた。だが、それには闇はちりっとも反応しない。つまりは件の唄にしか用は無いということなのだろう。
幼き頃より、いつも口ずさんでいた唄。村の女しか歌えない唄。
何故歌い継がれてきたのか。
どうして今まで、唄の意を知ろうとしなかったのか。
私はあらためて、一句一句、声に出さずに何度も唄を反芻していった。
言葉を解きほぐし、紡ぎ合わせていくうちに、突如私はその本当の唄の意味に気付いた。
そうか。そういう事だったのか。
息を吸い、目を閉じ、手を硬く握る。唄を解した今となっては、おそらく己の死を受け入れる覚悟を持つ必要があった。
私は、どうしても影が欲しかった。
「富を持ち帰るって、今まで誰も戻ってこなかったじゃない。
どうせ不気味な子を殺す、ていのいいこじつけよ」
あざ笑う村娘達の顔を思い出す。
「影無し子は縁起物だからって、何かにつけて贔屓しやがって」
「見ててごらん!どうせ今度も戻ってなんかきやしないわ」
「我が怖いか」
穏やかな闇のような声を思い出す。
「いいえ」
私は呟いた。
「怖くない・・・・・・怖くないです。
貴方の為なら」
歌うも死、歌わぬも死。
ならば必ず、見つけてみせる。
私はゆっくりと立ち上がると、顔を上げ高らかに歌い出した。
「尼や尼やたゆたう
闇を求め歌わば
闇に追われ潰れる
暗夜統べる烏が
夢にい出し雲母の
乙女焦がれたゆたう
尼や歌え放つば
乙女焦がれ放つば」
解しながら唄い綴るのは、おそらく恋の歌だった。
天の神の娘である雲の乙女を見初めた、動くことの叶わぬ闇の王。
尼、とは子どもの頭形を指す事から、おそらく影無し子の事なのだろう。
私が王と交わり闇の一部の影を抜き取ることによって彼の身を軽くさせ、闇と歌うことによりそのさざめきの力で王を僅かな間地下より開放することができるのだ。
だが、私が歌えば、私は闇に覆われてしまい、自身も闇に潰されてしまうのだろう。
なんと因果な唄なことか。
歌いながら、私は薄く微笑んだ。
恋する者を導く唄は、恋する私を潰していく。
身体を合わせたその時から、疼き続けるこの想いは、行き場のないままに消え行こうとしている。
だが、己の因果は哀しくとも、延々と続いてきたであろう想い人の恋慕の浄化は、私にとっての悦びでもあった。
歌い続けているうちに、やがて先程とは比べ物にならない程の強い共鳴の波を感じ始めた。
むぅうううううん・・・・・・。
静かに静かに、迷宮中の闇という闇が私を見据え、一気に押し寄せてくる。
歌う私に、闇がぶつかる気配を感じた。まるで薄膜を重ね続けていくかのように、
ぅうんぅうんぅうんぅうん・・・・・・。
声にならない呻き声をあげながら、闇が次々に私に覆い被さってくる。
息苦しさを感じ、重なり続ける闇の圧倒的な悪寒によろめいて岩壁に身体を打ちつけながらも、私は歌い続けた。
目に、喉に、鼻の穴に、体中の毛穴に、重くじりじりとした痛みが襲う。やがてそれは、段々と焼きごてを押し付けられているかのような激しさに変わってきた。おそらく眼球も喉も、闇の強さに駄目になり始めているのに違いない。
しかしそれでも私は歌うことを止めなかった。
ひゅうひゅうとかすれた風しか出せなくなっても、私は懇親の力をふりしぼり、歌い続け、歌い続け、やがて見えなくなった視界の奥に、確かに碧い光を見た。
渦巻く闇の嵐の中、私は力いっぱい手を伸ばし、がしりと己の影の端を掴み――
そのまま、意識を手放した。
あたしには、生まれたときからかげがない。
小さいころから
「なんて、きれいなこ」
「かみさまの、およめさんになれるんだよ」
って、ずっと言われてきた。
でも、村の子達からは、
「気持ちわるい」
って、あそびに入れてもらえないときもある。
ひそひそ、わる口を言われたりもする。
そんなとき、なきながらあたしがいつも行くのは、大すきなおばさんのところ。
おばさんは、村のはしっこのしゅ色の大きいお家にすんでいる。
むかし、おばさんは、からすの王さまのおよめさんだったことがあるんだって。
それで、おひめさまになって、とっても大事にされて、おみやげにたからものをたくさんもらって帰ってきたんだって。
だから村は今、前よりずっと楽なくらしができるんだよ、
あんたもかわいがられて、たからものをたくさんもらっといで、
って、大人達はいつもわたしに言う。
おまえもあの方みたいにちょうあいを受けて、幸せになれるんだよ。
良かったね、って。
でも。
あたしは、おばさんのお家の、大きくて横に長いかいだんを登りながら思う。
大きいお家だし、おせわする人もついているけど。
ろうかをわたって、一番おくの部屋。
ちょうどそこから出てきた女の人が、わたしを見ておじぎをした。
「おばさんに、あいにきたの」
「奥様は中にいらっしゃいますよ。どうぞ」
中では、おばさんがきれいな服やかざりをつけて、ほほえみながら待ってまいてくれた。
いつ見てももとってもきれいで、でもいつ見てもなんだか悲しそうで、
「おばさん、こんにちは」
言いながら、あたしはしゃがんで、おばさんがそっとのばしかけた手の下に、頭を置いた。
すけそうなほどきれいな黒い目は、ずっと前から見えていないんだって。
声もすっかりかれてしまったけど、昔はそれはきれいなうたを歌ってたんだってきいた。
おばさんも、あたしとおなじ「かげなし子」だったけど、かみさまからかげをもらったんだって、初めて聞いた時は、とってもうれしかった。
いつかはわたしもかげがある、ふつうの子になれるんだって、分かったから。
でも。
ふんわりとだきしめられながら、あたしは考える。
おばさんは、ちっともしあわせそうに見えないよ。
「ね、おばさん」
かみを手ですいてもらいながら、あたしはおばさんを見上げてせがんだ。
「かみさまの国のお話を聞きたいな。
いつかあたしも行く国のお話」
おばさんはほほえむと、しゃがれたこえで、少し苦しそうに話し始めた。
闇の神様が、住んでいる、暗く美しい国が、ありました。
そこは、黒い宝石でできた都で、烏の頭を持った人が、美しい衣をまい、何不自由なく、暮らしていました。
私は、烏の王様の、お嫁さんになって、この影を、もらえたのですよ。
私に影を与えられた際、王の身体から、闇の色が少しだけ、抜け落ちました。
その身体に、再び同じだけの、闇が作られるまでの間だけ、王様は、天の日の神様の方へと、飛んでいくことができるのです。
飛ぶ前に、王様は、『お嫁に来た人で、初めて、自分を飛ばせてくれた』と、お礼に闇の宝石を、たくさん、たくさんくださいました。
そうして私は、この村へ、帰ってくることができたのですよ。
「あたしなら、ずっとおひめさまのままでいたいな。
どうしておばさんは、村へ帰ってきたの」
「・・・・・・そうね」
おばさんはやさしくほほえみながら、とおくの方を見るように顔をむけて、
「どうしてでしょう、ね」
と、言った。
「選ぶが良い」
と、あの人は言った。
「お前は初めて、私の闇を抜き取ることができた。
このまま残るならば、幾百年も生き永らえ、何不自由なく暮らしゆくことができよう。
もし村へ帰ると言うならば、この国の財を分け与えよう」
「――もし、貴方様の傍で御仕えすることになれば」
と、私は尋ねた。
「この先産まれ来るであろう影無し子達は、一体どうなるのでしょうか」
「知らぬ」
と彼は静かに答えた。
「我は、后を一人しか持たぬのが定め。
お前が朽ちるまでは、どの娘であろうと我が元へは辿り着けぬ」
「では、娘たちは闇の国に辿り着くことさえできないのですか。
滑べり落ちるは果ての無い闇だけなのですか」
「知らぬ」
と彼は繰り返した。あの闇色の瞳で私を見ながら。
「我はただ、我に縛られた身の呪いを受け続けるのみ。
それ以外の事は分からぬ」
今一度、問おう。
選ぶが良い。
「・・・・・・おばさん?」
呼びかけに、我に返る。
手の中にある柔らかな温もりに、己の選択に悔いはないともう一度言い聞かせる。
(少しでも、生きる希望が残された道ならば)
「さ、私に、いつもの唄を、聞かせて頂戴」
頬の辺りをなでながら、私はねだった。
「うん!」
と元気良く答えると、影無し子は美しい歌声で、影呼びの唄を歌い始めた。
<了>