第十三話 こどもとこども
遠くから、男達の怒鳴り声が聞こえる。
声はどんどん大きくなって、目の前を通り過ぎ、やがてだんだん小さくなっていく。
そのうちに、完全に声が聞こえなくなった。
しばらくしてから、頭の上の水色のふたに手を伸ばす。
かぱっ、と音がして、ポリバケツのふたが開いた。
大通りの一つ入った裏路地。あたりはビルの水道管や配線ばかりで、人の姿は見えない。
となりでハルが頭を振って、
「あーあ。せっかくいい服着てきたのに。どろどろー……」
ちょっと悲しそうに言う。
「それより、これからどうする?」
「もう一度、おんなじことして駅まで……」
「駅までは行けるだろ。でも、それからどうするの?」
あいつらはまだこれからもぼくらを追いかけ続けるだろうし、こんな騒ぎになった以上警察も動き出すかもしれない。お父さん達も、たぶん必死になって探すはずだし、ずいぶん心配してると思う。
……うちに帰った方がいいかもしれない。
けれど、それまでにあいつらに捕まったら、今度こそどうにもならない。
とりあえず、注意しながら表通りへと出る。
右を向いて、左向いて、また右を確かめたところで肩を叩かれた。
とっさにハルを後ろに隠して飛びのく。
「……そんなに驚いた?」
どこかで聞いた声。
「……東さん?」朝、電車の中で助けてもらった人だ。
「どうしたの、こんなところで?」不思議そうな顔で、東さんが聞いてくる。
「ちょっと事情があって…」
ぼかして答えようとしたら、逆にそれが興味を引いたらしい。
「なになに。おねーさんに話してみなさい」
『おねーさん』をやけに強く発音して、東さんが言う。
ハルと、顔を見合わせる。
答えはすぐに出た。
この人は、信用できる、と思う。朝だって、会ったばかりのぼくらを助けてくれたし。
「ちょっと長くなるんですけど…」
そう言って、ぼくはこれまでのことをゆっくりと話し出した。
「……だったら、家に来ない?」
ぼくたちの話を聞き終わると、東さんはそう言った。
「でも、もし誘拐犯達に見つかったら、東さんまで……」
「だいじょうぶ。どうとでもなるわよ」
なぜか自信たっぷりに、東さんが言う。
「でも、それが何とかなったらちゃんと帰るのよ」
その言葉に、ハルが考え込んで、
「じゃ、お願いします」とぼくは言った。
「しゅーちゃん!?」
ハルが驚いた顔をする。
「だって、このままじゃ逃げ切れるかどうかわからないし。ハルが残念なのはわかるけど、みんな心配してるだろうし。今はいったん落ち着いて、帰るしかないと思うよ」
そう言うと、ハルはちょっとの間すごく難しい顔で考え込んで、
「……わかった」とだけ、答えた。
とても、小さな声だった。
車に乗り込み、ビルの中の駐車場をでたところで、あいつらの車を見つけた。
「ははあ。あいつらね」
あいつらが、こちらに気づいて、あわてて車に乗り込んでいく。
「ど、どうするんですか?」
「どうするもこうするも」
そういって、東さんはにっこりとほほえむ。
……なんだか、寒気がした。
「しっかりつかまってなさいね!」
「つ、つかまってって……」
最後までしゃべることはできなかった。
車がいきなり、ものすごいスピードで走り出したから。
急ブレーキとクラクションの音。
そのたびに、ぼくとハルは後ろの座席を転がり回る。
後ろの車がついて来るどころの騒ぎじゃない。
ものすごく楽しそうな声で、東さんが言う。
「一度やってみたかったのよね、カーチェイス」
……ひょっとして、捕まった方が安全だったんじゃ……
「東さん東さん、信号赤!」
「え、赤は注意してすすめってことじゃないの?」
「なんかメーターから音が鳴ってる!」
「たかが50キロオーバーじゃない」
「もう、誰も追っかけてきてませんよ!」
「まだまだわかんないわよ!」
……もうたぶん、何を言っても無駄な気がする。
なんとか手足を突っ張らせて、ハルが転がらないように抱え込むしか、できることはなかった。
しばらくして、車は小さなアパートの前に着いた。
「なんとか無事についたわね」車から降りて、満足そうに東さんは言う。
「……無事?」
真っ青な顔のハルを見ながら、ぼそぼそとぼくはつぶやいた。
ハルに肩を貸して、アパートの二階へ。
「おじゃまします」
きちんとあいさつして、家の中にはいる。
小さいけれど、きれいに整頓された、あたたかな感じの部屋。
廊下を通って、奥の部屋へ。
電話の横に立てかけてある写真が、ちょっと気になった。
セピア色の、もうずっと前に撮ったらしい写真。
「なにしてるの?」
「……うん。なんでもない」
写真を置いて、また歩き出す。
キッチンに通されて、ジュースを出してもらう。
「それじゃ、とりあえず……」
そういいかけたところで、奥から泣き声が聞こえてきた。
赤ん坊の泣き声だ。
それを聞くと、東さんはすっ飛んで出ていって、しばらくしてから小さな赤ちゃんを抱えて戻ってきた。
「ごめんね、話の途中に」
そういいながら、東さんは優しく赤ちゃんをあやしていく。
「お子さんですか?」
「そうよー。かわいいでしょう?」
嬉しそうな顔で、東さんが言う。
けれど、泣いている今は、あんまり可愛いとは思えない、悪いけど。
と、ハルが赤ちゃんに手を伸ばした。
ほっぺたのあたりを少しつつく。
びっくりして泣きやんだ赤ちゃんは、ハルの手を不思議そうに見て、ゆっくりと手を伸ばす。
そのまま、ハルの指をぎゅっ、とつかんで笑い出した。きげんが直ったらしい。
しばらくハルの指で遊んでいた赤ちゃんが、東さんの方に顔を向ける。
何か、聞きたいみたいだ。
「あ、まだご挨拶してなかったね、駿君。遙お姉ちゃんと周哉お兄ちゃんだよ。こんにちはのごあいさつは?」
東さんの声に、駿くんは笑って手を振る。
「こんにちは、駿くん」ハルのあいさつに、
「ねーたん?」さっき覚えたばかりの言葉で、駿くんが聞き返した。
「うん、ねーたん」
それからぼくの方を向いて、
「ねーたん?」
「ううん、にーたん」
「ねーたん」
何度か繰り返した東さんが、ちょっと肩をすくめる。
「ごめんね、まだこの子言葉あんまり知らないから」
「いいですよ」
ちょっと引きつった声で、ぼくが言う。
その間に、下に降りた駿くんは忙しくはい回っていた。
あたりのクッションにじゃれついたり、ハルやぼくのそばに寄ってきて、ぺたぺたとさわってきたり。
ちっともじっとしていない。
「こら!駿くん!おねーちゃんたちにめいわくでしょ!」
東さんの声にも、全然やめる気配がない。
「いいですよ、かわいいし。ぜんぜん迷惑じゃないです!」
駿くんの手をかわしながら、ハルが言う。
確かに、ちっともいやじゃない。なんだか、見るだけで顔がゆるんでしまう。
いつもなら、おじさん達に頭をなでられるのだっていやなのに。
……なんでだろ?
「ずいぶん気に入られたみたいね」
東さんが苦笑いした。
「そうなんですか?」
「ええ。いつもはもっと人見知りするし、あんなに早く泣きやまないのよ」
「ハルは誰とでもすぐに仲良くできますから」
「そんな感じね……」
「いいな、うちにもいないかなあ、赤ちゃん……」
テレビの台に上ろうとする駿くんを見ながら、うらやましそうな声でハルが言う。
「そうでもないわよ、毎日世話するの大変よ?」
そういいながら、東さんは本当に嬉しそうだ。
その言葉に、ハルは自信たっぷりに答える。
「だいじょうぶ。しゅーちゃんの世話で慣れてるから!」
「……おい」
ぼくが抗議する前に、東さんがくすくす笑いながら、言った。
「だったら、また会いに来る?駿も喜ぶと思うし」
「うん!」
ぼくとハルの返事が一緒になって部屋に響いた。




