鏡の向こうのドレスコード
「いらっしゃいませ!」
セレクトショップ『LUMINEUX』のガラス扉が開くと同時に、私はとびきりの笑顔で声を張った。
表参道から一本入った路地裏に構えるこの店は、エッジの効いたモード系から上品なフレンチカジュアルまでを取り揃え、感度の高い若者が夜な夜な集う小さな秘密基地だ。アパレル店員としてここで働いて三年目になる私——莉乃は、とにかく人が装う姿を見るのが大好きだった。服はただの布じゃない。着る人の内面を映す鏡であり、ときに世界と戦うための鎧にもなる。
けれど、カウベルの愛らしい音とともに足を踏み入れてきたその客を見た瞬間、私は思わず手にしていたハンガーを落としそうになった。
(……うわ、すごい)
入ってきた男性は、お世辞にもこの店の雰囲気に馴染んでいるとは言えなかった。
季節は初秋だというのに、首元がヨレヨレに伸びきった謎の英字プリントTシャツ。その上には、いつの時代のものか分からない毛玉だらけのエンジ色のカーディガン。ボトムスは膝が出きったサイズ感の合わない太めのデニムで、足元はすり減ったスニーカー。そして何より、目元を完全に覆い隠すほどボサボサに伸びきった、重たすぎる黒髪。
まるで「私を見ないでください」と全身で拒絶のオーラを放っているようだ。猫背で背中を丸め、挙動不審に店内を見回している。
他のスタッフが少し引き気味の視線を送る中、私の胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入った。
プロデュース魂だ。
「あの、何かお探しですか?」
私が近寄ると、彼はビクッと肩を跳ね上がらせ、怯えたように後ずさった。
「あ、いや……あの、すみま、せん……入る店、間違えました……っ」
「そんなことないですよ! どうぞご覧になっていってください」
逃げ出そうとする彼を爽やかな笑顔で引き留める。間近でよく見て、私は自分の直感を確信した。
重たい前髪の隙間から覗く、透き通った瞳。小さく整った鼻筋。引き締まった顎のライン。身長は180センチ近くありそうで、肩幅もしっかりしている。姿勢を正して髪を整えれば、間違いなくモデル級のルックスになるポテンシャルを秘めている。
(原石……! 磨けばめちゃくちゃイケメンになる超級の原石じゃないの……!)
「あの、実は……来週、大学の友人の結婚式の二次会がありまして……」
彼は消え入りそうな声で、ぼそぼそと話し始めた。名前は蓮というらしい。
「一応、私服指定なんですけど……僕、普段こういうおしゃれな服とか全然着なくて。でも、あんまり周りに迷惑をかけない程度の格好をしないとダメだって言われて……。でも、やっぱり僕みたいなダサい人間がこんなお店に来ちゃダメでしたよね。すみません、すぐ出ます……」
「ダメなことなんてあるわけないじゃないですか!」
私は思わず大きな声を上げていた。蓮くんが驚いて目を丸くする。
「服は誰かを排除するためのものじゃありません。自分を好きになるために着るものなんです。……もしよかったら、私にコーディネートを任せてみてもらえませんか?」
「え……? でも、僕なんかが頑張っても、笑われるだけで……」
「笑わせません。絶対に、とびきり格好よくしてみせますから!」
私の力強い言葉に推されたのか、彼はおずおずと「じゃあ……お願いします」と頷いた。
◇◇◇
そこからの時間は、私にとって至福のプロデュースタイムだった。
私は店中を駆け回り、彼の魅力を最大限に引き出すアイテムを厳選した。
メインに選んだのは、深みのあるダークネイビーのシングルジャケット。仕立てが良く、肩のラインが美しく出る一品だ。インナーにはバンドカラーの柔らかなホワイトシャツ。ボトムスには、彼の脚の長さを引き立てるテーパードの黒スラックスを合わせた。
「とりあえず、これを試着室で着てみてください。髪も少し後ろで結んでみますね」
私は彼を試着室へ案内し、服を手渡した。
数分後、カーテンがゆっくりと開く。
「……あの、これで大丈夫でしょうか……?」
そこに立っていたのは、先ほどまでの「ダサい男」ではなかった。
上質なジャケットが彼のスラリとしたスタイルを完璧に強調している。重たかった前髪を軽く梳かしてサッと後ろに流したことで、知的でクールな顔立ちが白日の下に晒されていた。品がありながらもどこかミステリアスな、息をのむほどの美形。
周りにいた同僚の店員たちも、思わず息を呑んでこちらを注視しているのが分かった。
「……すごいです、蓮さん。めちゃくちゃ格好いいですよ!」
「え……?」
蓮くんは不安そうに、試着室の姿鏡を見た。その瞬間、彼の瞳が大きく見開かれる。
「これが……僕……?」
「ええ! すごくお似合いです。自信を持ってください、本当に素敵です!」
鏡の中の自分を、蓮くんは信じられないという目で見つめていた。その表情に、ほんの少しだけ明るい光が宿る。彼の唇が小さく緩み、
「……嬉しいです」
と呟いた。
その日は、ジャケットとシャツのセットを購入してくれ、彼は照れくさそうに頭を下げて店を去っていった。自分の仕事が誰かの背中を押せたのだと思うと、胸が熱くなった。
——しかし、物語はそう単純には終わらなかった。
一週間後の夕方。
カウベルが鳴り、店のドアが開いた。入ってきた人影を見て、私は目を見開いた。
蓮くだった。……しかし、その姿は一週間前とまったく同じ、あの毛玉だらけのカーディガンとヨレヨレのTシャツ、ボサボサの髪に戻っていたのだ。結婚式の二次会は昨日だったはずだ。
「蓮さん……? どうしたんですか、その格好……」
私が駆け寄ると、彼は気まずそうに目を逸らした。
「あ、莉乃さん……すみません。この間の服……お返ししたくて」
「え? お返しって……何かサイズが合わなかったですか?」
「違くて……やっぱり、僕にはあんな高くてオシャレな服、身の丈に合わなかったんです。似合わないって、みんなに笑われちゃって……」
小さな声でそう俯く蓮くんの背後から、コツコツと甲高いヒールの音が近づいてきた。
「そうだよー、莉乃さん? だって蓮にそんなモードな服、似合うわけないじゃない」
現れたのは、フリルがついた可愛らしいブラウスを着た、小柄な女性だった。バッチリメイクを決めた彼女は、蓮くんの腕に親しげに自分の腕を絡めると、私に向かって不敵な笑みを向けた。
「私、蓮の幼馴染の香奈っていいます。昨日もね、せっかく蓮がその服着てきたのに、浮いちゃってて可哀想だったんだよ? 『背伸びしてカッコつけてるみたいでイタいよ』って、私が教えてあげたの」
「香奈……」
「ね? 蓮は昔から運動もダメだし、センスもないんだから。変にカッコつけないで、いつも通り私が選んであげた服を着てればいいの。ね、ダサい蓮の方が、親しみやすくて可愛いよ?」
香奈と名乗る女性は、クスクスと笑いながら蓮くんの頬を突いた。
蓮くんは縮こまり、
「……うん、香奈の言う通りだよね。僕なんか、オシャレしても笑われるだけだ」
と、完全に自信を失った目で呟いた。
その光景を見て、私の脳内に猛烈な違和感と怒りが渦巻いた。
(……待って。何なの、この女?)
『似合わない』『イタい』『センスがない』『ダサい蓮の方が可愛い』——。
香奈の発言のすべてが、蓮くんの自己肯定感を徹底的に削ぎ落とすための言葉だった。
よく見れば、彼が着ているダサいカーディガンも、絶妙に丈が短くて彼のスタイルの良さを殺している。髪型も、わざと重く整えさせないように誘導されているような気がした。
気づいてしまった。
この幼馴染は、蓮くんがモテないように、自分以外の誰かに魅力を気づかれないように、わざと彼をダサくプロデュースしているんだ。
「君は私だけを頼っていればいいの」と言わんばかりに、言葉の毒で彼を縛り付け、洗脳しているのだ。
(許せない……! 服を人を縛る道具にするなんて……絶対許せない!)
「香奈さんとおっしゃいましたね」
私は一歩踏み出し、香奈をまっすぐに見つめた。
「蓮さんは、絶対にその服が似合っていました。イタくなんてありません。彼は自分の魅力を引き出す権利があります」
「はあ? なに部外者が分かったようなこと言ってるの?」
香奈の目が、一瞬で冷たく鋭いものに変わる。
「店員さんは服を売りたいから『似合う』って言ってるだけでしょ? 蓮の本当のダサさを知ってるのは、昔から一緒にいる私なの。余計なお世話しないでくれる?」
彼女は蓮くんの腕を強く引っ張った。
「行こ、蓮。こんな店、もう来なくていいから」
「あ……うん……」
蓮くんは力なく私に頭を下げ、香奈に引きずられるように店を出て行った。
残された私は、拳を固く握りしめていた。このまま彼が、あの悪意に満ちた洗脳の中で生きていくのを黙って見過ごすなんて、絶対に嫌だった。
◇◇◇
数日後。私は決意を固め、シフトの休みに蓮くんをカフェへ呼び出した。香奈に知られないよう、慎重に連絡を取って実現した時間だ。
「莉乃さん……わざわざ呼び出したりして、どうしたんですか?」
向かい側に座る蓮くんは、相変わらず自信なさげに肩を縮めている。
「蓮さん。ストレートに聞きます。あなたは、本当はどうしたいんですか?」
「え……?」
「あの結婚式の二次会の日、あのジャケットを着て鏡を見たとき、どう思いましたか? 本当に『似合っていない』と思いましたか?」
私の問いかけに、蓮くんは息を詰まらせた。
「それは……すごく、嬉しかったです。自分じゃないみたいで、ちょっとだけ……胸を張って歩けるような気がして……」
「ですよね! それがあなたの本当の気持ちじゃないですか!」
「でも! 香奈が……幼馴染の香奈が言ったんです。僕がカッコつけると、みんな陰で笑うって。僕のことを一番理解してくれてるのは香奈だし、香奈が『ダサい僕のままがいい』って言ってくれるなら、その方が誰も傷つかないし……」
「それは優しさじゃありません!」
私は思わずテーブルを叩いて立ち上がった。周囲の客が驚いてこちらを見るが、気にする余裕はなかった。
「香奈さんは、あなたを愛しているんじゃない。自分好みの『自信のないあなた』を所有したいだけです! あなたが素敵な男になって、遠くへ行ってしまうのが怖いから、ダサい服を着せて鎖で繋いでいるんですよ!」
「そんな……香奈がそんなこと……」
「本当のことよ」
冷ややかな声が、カフェの入り口から響いた。
振り返ると、そこに香奈が立っていた。蓮くんのスマホの位置情報を追ってきたのだろうか、般若のような恐ろしい顔でこちらに歩み寄ってくる。
「やっぱり裏で会ってたんだ。ムダなことしないでって言ったよね、店員さん?」
香奈は蓮くんの隣に立ち、彼の肩を強く抱き寄せた。
「蓮、帰りましょう。この女はね、あなたに高い服を売りつけて儲けたいだけなの。騙されちゃダメ。あなたは私がいないと何一つ決められない、ダサくて哀れな男なのよ? 私だけが、そんなあなたを受け入れてあげてるの。分かってるでしょ?」
その言葉は、まるで呪文のように蓮くんの心を侵食していく。蓮くんの瞳から光が消え、「……そうだよね。僕、ダサいし……香奈といるのが一番なんだ……」と呟き、立ち上がろうとした。
(ダメ……! このままじゃ、彼は一生自分の人生を生きられない!)
「蓮さん!」
私は鞄から、あらかじめ用意していたあのネイビーのジャケットを取り出した。返品されたそれを、私は個人的に買い取っていたのだ。
「着てください!」
私はジャケットを広げ、蓮くんの前に立ち塞がった。
「莉乃さん、もうやめてください……っ」
「やめません! 蓮さん、鏡を見てください!」
カフェの壁にある大きな姿鏡の前へと、彼の手を強く引いて連れて行った。香奈が「ちょっと何やってんのよ!」と叫びながら追いかけてくるのを無視して、私は無理やり彼の羽織っていた毛玉カーディガンを脱がせ、ネイビーのジャケットを羽織らせた。
「香奈さん!」
私は叫んだ。
「あなたは『ダサい蓮くんが好き』と言いましたね。でも、彼が本当に着たい服を着て、自分に自信を持って笑っている姿を愛せないなら、それは愛じゃなくてただの支配です!」
そして、私は鏡の中に映る蓮くんの目をまっすぐに見つめた。
「蓮さん。選んでください」
「え……」
「誰かの都合のいい『ダサくて哀れな僕』でい続けるか。それとも、自分が好きになれる『格好いい自分』になって、胸を張って生きるか。選ぶのは、香奈さんでも私でもない。あなた自身です!」
カフェの中に、痛いほどの沈黙が流れた。
香奈が焦ったように蓮くんの服の裾を引っ張る。
「蓮! 何言われてんの!? 早くその服脱いで! あなたにそんな服似合わないって言ってるでしょ!? 私を捨てる気!?」
ヒステリックに叫ぶ香奈の声を、蓮くんは静かに聞いていた。
彼の視線は、鏡の中の自分に向けられている。
ジャケットの仕立ての良さ。引き締まったシルエット。そして、自分の内側にある「変わりたい」という切実な願い。
彼はゆっくりと深呼吸をした。そして、自分の服を引っ張る香奈の手を——そっと、しかし力強く振り払った。
「……香奈」
「え……?」
香奈が目を見開く。蓮くんは、生まれて初めて、まっすぐな瞳で香奈を見つめ返した。
「今まで、僕のために色々と教えてくれてありがとう。でも……僕はもう、自分をダサいと思い込みたくない。自分が好きだと思える服を着て、自信を持ちたいんだ」
「は……? なに言って……正気なの!? あなたなんか、私がいなくなったら一人じゃ何もできないんだよ!?」
「できるよ」
蓮くんの声には、はっきりとした意志が宿っていた。
「僕は、僕の足で歩く。……今までありがとう、香奈」
香奈は絶句し、顔を真っ赤にして震えた。
「……後悔しなさいよ! 絶対に誰もあなたなんか相手にしないんだから!」
と吐き捨てるように叫ぶと、足早にカフェを飛び出していった。
◇◇◇
香奈が去った後、カフェの中に静けさが戻った。
蓮くんは、自分の肩に掛かったジャケットの感触を確かめるように、そっと撫でた。
「……僕、言えました」
「ええ……! 最高に格好よかったですよ、蓮さん!」
私が飛び上がらんばかりに喜ぶと、彼は照れくさそうに、でも今までで一番晴れやかな笑顔を見せた。前髪の隙間から覗くその笑顔は、胸がキュンとするほど魅力的だった。
「あの……莉乃さん」
「はい?」
「このジャケット……やっぱり、僕に買い取らせてください。それと……」
彼は少し頬を赤く染めながら、頭をかいた。
「この服に似合う髪型にしてくれる美容院、紹介してもらえませんか? それから……その髪を切ったら、またルミナスに服を選びに行ってもいいですか?」
「もちろん!」
私は満面の笑みで頷いた。
「とびきり格好いい髪型にしてくれる美容師さん、知ってます! それに、ルミナスにはまだまだあなたに似合う服がたくさんありますからね」
「よろしくお願いします。……これからは、自分の着たい服を、胸を張って着たいんです」
鏡の向こうに映る彼は、もうどこからどう見ても、誰の影にも怯えない一人の魅力的な男性だった。
数日後。
美容院でスッキリと髪を整え、洗脳から完全に解き放たれた蓮くんがルミナスの扉を開けたとき、店内の女性客やスタッフが一斉に息を呑んだのは言うまでもない。
「いらっしゃいませ、蓮さん!」
私が声をかけると、彼は少し照れくさそうに、でも眩しいくらいの笑顔で歩み寄ってきた。
「今日も、僕に似合う最高の服……教えてくれますか?」
「ふふ、もちろんです! ……あ、でも困ったな」
「え? 何がですか?」
「これ以上格好よくなったら、私以外の人にもモテすぎて、ライバルが増えちゃいそうです」
私の言葉に、彼がパッと顔を赤くする。
新しい服に身を包んだ彼の隣で、私の新しい恋も、静かに動き始めていた。
(おわり)




