ゲンチョウ
微かに音が聞こえる。
どこか、懐かしいふわりとした音。
気になり辺りを見やるが何もない。
見上げれば豪華なシャンデリア、奥の部屋には天蓋付きの大きな寝台、窓からは広いバルコニー。そして、奥より隣接する衣装部屋には、毎日取っ替え引っ替えしてもあり余るほどの華美なドレスとアクセサリーが詰め込まれている。
幻聴なのかも知れない。
慣れない環境のせいなのか、この邸に来てから度々起こる。
私は一度息を吐いて、ルビー色の紅茶が入ったティーカップに口をつけた。
◇◇◇
気づけば、椅子に括り付けられていた。
自室の椅子で、場所を移動したわけではない。
ただ、丈夫な縄で手足を縛られ、全く身動きが取れない。
少しだけ頭痛がする。
「気がつきまして?」
あどけない声が後ろから響き、その声の主はゆっくりと私の前に回った。
義理の娘のロベニア。
見た目だけは可愛らしい彼女が、小首を傾げ微笑んでいる。
何……?
変な遊びが流行っているの?
疑問に思いながらも、賊などではないという事実にほっと胸を撫で下ろす。
「……悪戯はやめて頂戴」
私はそう言って、ロベニアを見つめる。
彼女は何も答えず、自分のドレスに触れた。
ロベニアは常に美しい模様の飾りが付いた、不思議なドレスを纏っている。
以前、興味本位で彼女のドレスに触れようとしたことがある。
「特注だから、触らないでくださる?」
その時、彼女はぴしゃりとそう返し、すぐに私から離れた。
僅か七歳だというのに随分とこまっしゃくれていて、扱いが難しい子供だと思った。
あれから、二月。
その印象は変わっていない。
「これも因果応報、神様の計らいに感謝いたします」
目の前の彼女はドレスに手を置いたまま、意味不明なことを呟く。
「いい加減、変な遊びはやめて、縄を解いて頂戴、ね?」
私は務めて冷静に、優しい声音で話しかける。
「お義母様は、とても残酷な方です。そうして、ご自分が残酷であったことすら忘れてしまうのですね」
「え?」
「本当は、お義母様なんて呼ぶのも悍ましい。この殺戮者が!!」
彼女は突然声を荒げた。
何を言っているの?
「わたくしは、かつてお前に生きたまま羽をもがれて死にました」
私は呆然と、芝居じみた台詞を吐き続けるロベニアを見つめる。
彼女はただ燃えるような憎しみの籠った瞳で、こちらを睨みつけていた。
やがて、彼女のドレスの裾が風もないのにそよぎ、そのドレスの美しい飾り模様がふわりと浮いた。
飾りだと思っていたものは、飾りではなかった。
蝶だ……。
今まで、蝶が大人しくドレスに幾重にも折り重なり、模様を作っていたのだ。
蝶は次々と彼女のドレスを離れ、宙を舞う。
ヒラヒラと、微かな音を立てて……。
それは、とても現実とは思えない幻想的な光景だった。
今や彼女のドレスは黒一色となっている。
部屋を自由に舞っていたその夥しい数の蝶が、一斉に私へと向かってきた。
蝶に取り囲まれる。
一体、何?
「お前が羽をもいだ同胞の数は、こんなものではなかった」
彼女の声が冷たく響く。
「知らない。私はそんなことをしていない」
「よくもまぁ、抜け抜けと」
「本当に知らない。人違いよ!!」
「人違いなものか。お前の歪んだ笑みや恍惚とした表情、昨日のことのようにありありと思い出せる」
そうして一匹の毒々しい蝶が、鱗粉を撒き散らしながら、私の顔をめがけて飛んできた。
顔というより、ただ一点に向かって。
蝶は針のように細い足を、私の目玉に思い切り突っ込む。
「痛っ!!」
その思いもよらない行動に、慌てて瞳を閉じる。
すると蝶は、今後は一斉に口の中、鼻の中に身を細めながら勢いよくその体を捻じ込んできた。
何十匹もの小さな蝶が鼻と口に入り、咽る。
苦しい。
息ができない。
蝶が自分の命を賭して、私の命を奪おうとしている。
戦慄を覚え、私は口に入った蝶を無我夢中で噛み砕く。
奇妙な味にえづきながらも、吐き出そうと大きく口を開けた。
更に勢いよく口の中へ大量の蝶が飛び込んできた。
蝶はあっという間に喉の奥にぎっしりと張り付き、気道まで塞ぐ。
それは固く団子状と化して、もう咀嚼をすることも叶わない。
手で掻き出したくとも、縛られていて手を使うこともできない。
意識が朦朧とする中……思い出した。
蝶を捕まえ、生きたまま羽をむしっていたあの感触を。
一枚羽をもいでも、蝶は必死に羽ばたこうとした。私はまた一枚、羽をもぎながら芋虫のようになった蝶を押さえつける。
そうして、指の下で蠢くその蝶であったものが静止するまで、至極高揚した気持ちで眺めていたのだ。
それはもう、幼い頃から数えきれないほど……。
あのゾクゾクとする感触を、どうして忘れていたのだろう。
ああ、そうだ。
そうだった。
私は、自分が善人であると思い込もうとしたのだ。
後妻だが、憧れていた侯爵家への輿入れが決まり、その時過去を捨てることにした。
侯爵は、私を健やかで心優しい女性だと思っている。
だから、そうなろう。
そうでなければいけない。
残虐な本性を知れば、途端に捨てられてしまうだろう、と。
そうして都合よく、本当に私の記憶の一部は封印された。
私は幸せになりたかったのだ。
「お前みたいな人間が、幸せになれるわけがないだろう?」
心の声が聞こえるはずもないのに、彼女ははっきりとそう言った。
残っていた蝶が、また開ききった私の口へと向かってくる。
それはとても懐かしく、優しい羽音で。
ヒラヒラ
ヒラヒラ
ヒラヒラ
ヒラヒラ
この邸に来てから、ずっと聞こえていた音。
私は、蝶の住処に嫁いでしまったのだろうか。
蝶たちは僅かな隙間を覆うように、先に入った蝶の死骸にゆっくりと重なる。
これでもう隙間は塞がれ、完全に息ができない。
悶え苦しみ、やがて私……は……。
最期に思った。
それでもまた、あの素敵な感触を味わいたい。
蝶の羽を、むしりたい……と。
意識を失うまで、私の指は動き続けていた。
お読みいただきありがとうございました。
救いようがないお話でした。
暑い夏の夜に、少しでもゾッとしていただけましたら幸いです。




