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法面の手

第一話

 十一月の峠道は、朝の七時でもう冬の顔をしていた。

江戸川勉は坂の傾斜に逆らいながら、アスファルトを踏み続けた。

二十五歳、探偵業一年目。

体力づくりと称して始めたジョギングだが、実態は事務所に籠もっているより外を走っているほうが性に合っているというだけだ。


 依頼は少ない。


 先週は迷い犬の捜索、先々週は夫の素行調査??結果は「コンビニでサボっていただけ」だった。


 峠の中腹、カーブのきつい区間に差し掛かったとき、法面のコンクリートに視線が引っかかった。


 最初は枯れ枝だと思った。


 色が、違った。


 江戸川は足を止めた。呼吸を整える余裕もなく、ゆっくりと近づいた。

法面の亀裂から、何かが??いや、誰かが??土に埋まるようにして、右手首だけを外に出していた。

指先は空を向いていた。爪に、薄いピンクのマニキュアが残っていた。


 剥がれかけた、ピンク。


 江戸川は立ったまま三秒間、何も考えられなかった。それから震える手でスマートフォンを取り出した。


 榊原友蔵が現場に着いたのは通報から四十分後だった。


 県警捜査一課・警部。五十五歳。腹は出ているが目だけは若い。

部下の山本彩織巡査長が規制線の外で記録を取っている横を、榊原は黄色いテープをくぐって法面に近づいた。


「発見者は?」


「あちらです」山本が顎でしゃくった。「江戸川探偵事務所、江戸川勉。ジョギング中だったと」


 榊原はちらりと若い探偵を見た。ベンチに座って膝に肘をついている。顔色が悪い。


「話は取ったか」


「一通りは。問題なさそうです。ただ??」山本が少し声を落とした。

「発見したとき、遺体には触っていないと言っているんですが、手首のあたりに彼の指紋が出ると思います」


「本人が言ったのか」


「はい。『確かめてしまいました、すみません』と」


 榊原は小さく鼻を鳴らした。素直な奴だ、と思った。悪い意味ではなく。


 遺体の掘り出しには時間がかかる。

土の量からして、かなり深く埋められている。

法面のコンクリートに亀裂が入り、そこから土砂が崩れた??

偶然が、これを地上に出した。

あと数日雨が降っていなければ、春まで誰も気づかなかったかもしれない。


 榊原は煙草を取り出しかけて、やめた。


 嫌な予感がある。根拠はない。

ただ、ベテランの刑事が「嫌な予感」と呼ぶものは、たいてい当たる。


 その夜。


 根古親司は炬燵に半分埋まって、ヤマトの腹を撫でていた。


 黒猫は迷惑そうに一度だけ耳を動かし、

それからまた目を閉じた。

テレビでは天気予報が明日も曇りを告げている。

温泉の予約は週末だ。それまで何事もなければいい??

そう思っていた矢先に、電話が鳴った。


 画面を見た。


 榊原、と出ている。


「……なんで知っとるんや、この番号」


 ヤマトが薄目を開けた。

根古は五秒間、着信画面を見つめた。

出なければいい。

そのまま温泉に行けばいい。


 六秒目に、取った。


「根古さんか。榊原や」


「知っとる。なんの用ですか」


「峠で女が出た。埋められとった」


「警察の仕事やろ」


「そうなんやが」榊原の声がわずかに変わった。「掘り出したら、顔がなかった」


 根古は返事をしなかった。


「身元が割れん。指紋も照合中やが、時間がかかる。それと??」榊原が続けた。

「現場の土から、別の骨が出た。小さい骨や。まだ鑑定中やが、獣医に見せたら人間やないかもしれんと言うとる」


「何の骨や」


「それがわからん。だから??」


「断ります」


 間があった。


「まだ何も頼んどらんぞ」


「頼む前に断っとるんです。ヤマトの具合が悪うて」


 ヤマトは根古の膝の上で、どう見ても健康そのものの顔で丸くなっていた。


「根古さん」


「なんですか」


「顔のない女が、土の中で誰かを待っとるかもしれん」


 根古は長い沈黙のあと、炬燵から足を出した。ヤマトが抗議するように鳴いた。


「……場所、送ってください」


 電話を切った。ヤマトを見た。


「たまたま近くを通るだけや」


 猫は答えなかった。


続きを書きます。


 翌朝、県警から雨月雅之警部補が現場に入った。


 二十八歳。捜査一課では若手だが、榊原が「勘が鋭い」と買っている。

本人はそれを褒め言葉と受け取っていない。

勘で動く刑事は、証拠で詰められたとき脆い??

それを知っているからだ。


 雨月は法面の掘削現場を三十分かけて歩いた。


 土の断面。埋められた深さ。投棄の角度。


 計算すると、遺体が埋められたのは少なくとも三ヶ月前になる。

それ以前に法面のコンクリートに亀裂はなかった??近隣の道路管理記録で確認済みだ。

つまり、埋めた人間はコンクリートの内側に土があることを知っていた。

あるいは、崩れることを計算していた。


 どちらにしても、土地勘がある。


「雨月さん」


 振り返ると、江戸川勉が規制線の外に立っていた。昨日より顔色はいい。

手帳を持っている。



「なんで来とるんや」


「発見者として、何か協力できることがあればと思って」雨月の視線に気づいて、江戸川が付け足した。

「榊原警部に連絡したら、来てもいいと言われました」


 雨月は小さく息をついた。榊原のやることは読めない。


 三日間、二人は動いた。


 江戸川は峠道の周辺を地図に起こした。

半径三キロ以内の住宅、廃屋、農地。聞き込みに回れる範囲を洗い出し、一軒ずつ当たった。


 収穫は薄かった。


 峠を定期的に通る人間は少ない。

季節外れで登山者もいない。「

三ヶ月前に不審な車を見た」という老人が一人いたが、車種も色も「暗くてわからんかった」だった。


 雨月は身元照会を続けた。


 失踪届と照合する。

年齢層、性別、時期。候補は十七件あった。指紋照合は三件で陰性。

残りは記録が不十分で判定できない。

歯型の記録がある案件は二件??

どちらも歯科医が廃業していて、カルテの所在が不明だった。


 DNA鑑定の結果が出るまで、まだ二週間かかる。


 骨の鑑定結果は戻ってきた。


 獣の骨だった。猫、おそらく成猫一頭分。一緒に埋められていた。


 雨月はその報告書を三回読んだ。

何かが引っかかったが、言語化できなかった。


 四日目の夜、雨月は榊原の執務室に入った。


 報告書を机に置いた。

榊原は老眼鏡をかけて、黙って読んだ。


「手詰まりです」


 雨月は立ったまま言った。

言い訳ではなく、現状報告として。


「身元不明のまま。埋めた人間の痕跡なし。目撃証言なし。

顔がないので似顔絵も出せない」


「骨は」


「猫です。一緒に埋められた理由はわからない。

ペットだったのか、それとも何か別の意味があるのか」


 榊原は報告書を閉じた。


「江戸川は」


「今日も周辺を歩いています。本人は納得していないようですが、これ以上足で稼げる情報はないと思います」雨月は少し間を置いた。

「警部、例の人に頼むんですか」


 榊原は答えなかった。


「根古という人のことは聞いています。ただ??」雨月は言葉を選んだ。

「捜査資料として使えない情報は、捜査の助けにならない」


「わかっとる」


「それでも呼ぶんですか」


 榊原は立ち上がり、窓の外を見た。県警の駐車場に街灯が一本、雨に濡れていた。


「雨月、お前は顔のない人間を、どうやって家に帰すつもりや」


 雨月は返事ができなかった。


「名前がわからんまま、番号で呼んで、書類で閉じる??それが嫌やから、俺は根古さんに電話するんや。捜査のためやない」


 榊原はポケットから携帯を出した。


「お前は捜査を続けろ。俺のやることは捜査やないから、気にしなくていい」


 根古の電話が鳴ったのは夜の十時過ぎだった。


 今度は風呂上がりだった。ヤマトが洗面所の前で待ち伏せしていて、足元に絡みついてくる。

根古はバスタオルを肩にかけたまま画面を見た。


 榊原。


「……昨日も一昨日も出んかったのに、懲りん人や」


 ヤマトが鳴いた。


「お前は黙っとれ」


 根古は腰を下ろして、電話に出た。


「根古さん、一つだけ聞いてもええか」


「なんですか」


「猫と一緒に埋められた女に、名前を返してやれると思うか」


 根古は濡れた髪を手でかいた。ヤマトが膝に乗ってきた。温かかった。


「……体調次第です」


「それで十分や」


「今週末、温泉の予約が??」


「日帰りにしてくれ」


 根古はしばらく黙っていた。ヤマトの背を撫でた。猫は目を細めた。


「現場の土、残っとりますか」


「残してある」


「何か、身に着けとったものは」


「靴が片方だけ出た。サイズは二十三センチ。ヒールなし」


 根古は目を閉じた。靴。片方だけ。


「……わかりました。明後日、行きます」


 電話を切った。ヤマトを見た。


「今回は本当にたまたまや」


 猫は伸びをして、根古の膝から降りた。


 明後日の朝、根古は軽自動車で峠道に着いた。

 助手席にヤマトのキャリーケースを置いていた。

動物病院の予約が午後にある??というのは本当だった。

木下院長の定期検診、三ヶ月に一度。

だから今日は本当にたまたま、この方向に来ただけだ。

 根古は車を降りた。

 十一月の峠の風が、首筋に入ってきた。

体が重い。昨夜から何となく調子が悪かった。

温泉をキャンセルしたせいかもしれない。あるいは気圧のせいか。

守護霊たちの気配が、今朝はひどく遠い。

 悪い日だ、と根古は思った。

 規制線はまだ残っていた。榊原が「残してある」と言った意味がわかった。

掘削した法面に青いシートが張られ、その前に脚立が一本立てかけてある。

土を採取した跡が生々しい。

 雨月と江戸川が並んで立っていた。

 二人とも根古を見た。

 雨月は無表情だった。江戸川は少し緊張した顔をしていた。

榊原から話を聞かされているのだろう。

根古は二人に軽く頷いて、規制線をくぐった。


 榊原が証拠袋を持ってきた。

 中に、片方だけの靴が入っていた。くたびれた白いスニーカー。

ソールの減り方が左右で少し違う。長く歩いた靴だ。

「触ってみます」

 根古は手袋をしていなかった。榊原がちらりと見たが、何も言わなかった。

 根古は袋の上から靴に触れた。目を閉じた。

 何も来ない。

 もう少し深く意識を沈めようとした。守護霊の気配を探った。

普段なら、触れた瞬間に何かの像が流れ込んでくる。

残留思念の断片、感情の残滓、色や音の欠片??それが今日は、ない。

 静かな壁があるだけだった。

 根古は靴から手を離した。

「……もう一度」

 もう一度触れた。目を閉じた。

 壁。

 またの壁。

 根古は静かに袋を榊原に返した。

「すみません。今日は無理です」


 沈黙が落ちた。

 江戸川が先に口を開いた。声を抑えようとして、抑えきれていなかった。

「……えっと、それだけですか」

「それだけです」

「何も、見えなかったんですか」

「見えませんでした」

 江戸川は手帳を持ったまま、何かを言おうとして、やめた。

三日間、峠の周辺を歩き回った男の顔だった。

 雨月は何も言わなかった。

ただ根古を見ていた。感情を測らせない目だった。

呆れているのか、怒っているのか、それとも最初から期待していなかったのか??

根古にはわからなかった。わかろうとも思わなかった。

「体調によります」根古は言った。「今日は悪い日でした」

「悪い日」江戸川が繰り返した。「悪い日って……」

「勉」雨月が短く言った。江戸川は口をつぐんだ。

 雨月が根古に向き直った。

「榊原警部から話は聞いています。能力に波があることも」口調は平坦だった。

「次はいつ試せますか」

「わかりません。体調は選べないので」

「目安は」

「……一週間、あるかないか」

 雨月は小さく頷いた。それだけだった。


十一

 根古が車に戻ると、ヤマトがキャリーケースの中で鳴いた。

「わかっとる」

 根古は運転席に座った。ハンドルに額をつけた。

 恥ずかしい、とは思わない。能力はそういうものだ。晴れの日もあれば雨の日もある。

自分でどうにかなるものではない。

 ただ。

靴の、ソールの減り方が気になった。

 触れたとき、何も見えなかった。だが指先に、何か微かな??重さのようなものがあった気がした。

気のせいかもしれない。体調が悪いときの自己暗示かもしれない。

 根古はエンジンをかけた。

 午後の木下院長の予約まで、まだ時間がある。

 峠を下りながら、根古はもう一度あの靴のことを考えた。左右で減り方が違う。

長く歩いた靴。二十三センチ。ヒールなし。

 どこかへ、急いで行こうとしていた靴だ??と、なぜかそう思った。

 根古は思った理由がわからなかった。能力ではない。ただの、感触だ。

 だがその感触を、助手席のヤマトに向かってぽつりと言った。

「逃げとったんかもしれん」

 ヤマトは答えなかった。


十二

 江戸川は諦めが悪かった。

 根古が峠を下りた翌日、江戸川はもう一度地図を広げた。

事務所の狭い机に、手書きで書き込んだ周辺地図を貼った。

聞き込みに回った軒数、空振りに終わった件数、それでも気になった場所に小さく丸をつけた。

 丸が三つあった。

 一つ目は、峠の入口近くにある潰れたドライブイン。

二つ目は、法面から二キロ下った集落の外れにある空き家。

三つ目は??峠道から脇に入った林道の奥に、舗装が途切れる場所があった。

 地図では道になっている。だが実際に走ってみると、途中から轍だけになって、最後は草に埋もれていた。

 普通の車では入れない。

 江戸川はその轍の写真を何枚か撮っていた。タイヤ痕の幅を測っていた。軽トラか、小型の四駆か。

 雨月に送ったが、返信は短かった。

「確認する」

 それだけだった。


十三

 雨月が轍の件を調べている間、江戸川は別の糸を引っ張っていた。

 峠道の手前、国道沿いに一軒だけ営業しているドライブイン風の定食屋がある。

地元の業者や長距離の運転手が昼に寄る店だ。

最初の聞き込みで「峠をよく通る人間なら、あそこに来る」と教えられていたが、そのときは店が定休日だった。

 三日ぶりに寄ってみると、カウンターに派手な男が一人、カツ丼を食べていた。

 五十二歳には見えない。

革ジャン、金のネックレス、日焼けした顔。だが目が細くて、よく動く。周囲を観察する目だ。

 江戸川が隣に座ると、男の方から声をかけてきた。

「兄ちゃん、刑事か」

「違います。探偵です」

 男は少し目を細めた。それから笑った。

「ロドリゲス斎藤や。よろしく」


十四

 ロドリゲス斎藤は、この峠道を月に二、三度通るという。

 バイヤーの仕事で山間部の農家や工房を回る。

ついでにYouTubeで動画を撮る。

峠の景色が好きで、ここ三年は定期的に走っているそうだ。

「三ヶ月前やったら、覚えとるかもしれんで」江戸川がそれとなく水を向けると、ロドリゲス斎藤は箸を止めた。

「何月や」

「八月の末から九月の頭にかけて」

「お盆過ぎか」しばらく考えた。

「あの辺やったら、一回ヤバいなと思ったことがあった」

「ヤバい」

「峠の下りで、軽が路肩に止まっとったんや。夜中の十一時過ぎやったと思う。

ハザードも出してない。エンジンはかかっとった」ロドリゲス斎藤はカツ丼を一口食べた。

「中に人がおったから事故やないと思って通り過ぎたんやけど、帰りに同じとこ通ったら、もうおらんかった」

「帰りというのは」

「一時間後くらいや」

「軽の色や車種は」

「暗かったからなあ」ロドリゲス斎藤は首を傾けた。

「白か、シルバーか。ナンバーは見てない。ただ??」

 少し間があった。

「中に人が二人おった。

助手席側の窓が少し開いとって、女の声がした。

泣いとったわけやないけど、なんか、必死な感じの声やった」

 江戸川はメモを取る手を止めなかった。

「その声、何か聞こえましたか。言葉とか」

「一言だけ聞こえた」ロドリゲス斎藤は少し目を細めた。「『返して』って言うとった」


十五

 江戸川がすぐに雨月に電話すると、雨月は「今から会える場所があるか」と言った。

 指定されたのは、国道沿いのカレー店だった。

 イエンガー・ムハンマド、五十五歳。インド系の顔立ちだが日本語は関西弁だ。

カウンター六席だけの小さな店で、昼過ぎの中途半端な時間でも客が二人いた。

 雨月はすでに奥の席にいた。カレーを食べていた。

「ロドリゲスさんの話、録音はあるか」

「メモだけです」

「本人に署名付きの供述書を取れるか聞いてくれ。任意でいい」

 江戸川が頷いたとき、カウンターの向こうからムハンマドが鍋をかき混ぜながら口を挟んだ。

「ロドリゲスさんの話やったら、わしも聞いとるで」

 二人が振り返った。

「ここの常連やから、あの人。先週も来て、峠で警察が動いとるって話しとった。

そのとき言うとったんやけど??」ムハンマドはスパイスを一つ加えた。

「動画に映っとるかもしれんって」

 雨月の箸が止まった。

「動画」

「峠の景色をよう撮っとるやろ。ドライブ動画や。夜中に走ったやつも、たまにアップしとる。

あの日の動画、まだ残っとったら、軽が映っとるかもしれんって、自分で言うとったわ」


十六

 店を出た。

 雨月は歩きながら江戸川に言った。

「ロドリゲスさんに連絡して、八月末から九月頭の夜間走行動画を全部確認してもらえ。

削除していなければ、任意提出をお願いする」

「わかりました」江戸川がスマートフォンを取り出した。「あの、雨月さん」

「なんや」

「『返して』って言葉、何を返してほしかったんやと思いますか」

 雨月は少し黙った。

「今は考えても意味がない」

「でも気になりませんか」

「なる」雨月は短く言った。「だから動画が必要なんや。感情より先に、車のナンバーが要る」

 江戸川は何か言いたそうだったが、黙って電話をかけ始めた。

 雨月は空を見た。曇っていた。

 返して。

 その言葉が、なぜか猫と一緒に埋められた女の靴と、頭の中で繋がった。根拠はない。ただ繋がった。

 雨月は根古のことを思った。

 あの男が「逃げとったんかもしれん」と言ったと、榊原から聞いていた。

 能力ではない、ただの感触だと本人は言ったらしい。

 だが雨月には、その感触が今日初めて、少しだけわかる気がした。




十七

 ロドリゲス斎藤から動画が届いたのは、二日後の夜だった。


 雨月は署のデスクで再生した。


 八月二十八日、午後十時四十分。峠道を下るドライブ映像。

カメラはダッシュボードに固定されている。画質は悪くない。

ロドリゲス斎藤のチャンネル登録者数は四万人で、機材にそれなりの金をかけているようだった。


 問題の場所に差し掛かった。


 路肩に、白い軽自動車が止まっていた。


 雨月は再生を止めた。フレームを送った。もう一コマ。もう一コマ。


 フロントは映っていた。だがナンバープレートは、ちょうどカーブの角度と街灯の位置が重なって、白飛びしていた。


 車種は判別できる。

ダイハツのムーヴ、おそらく二世代前のモデル。フロントのエンブレムと、ドアの形で絞れる。

ボディカラーは白かパールホワイト。


 ナンバーは、読めない。


 助手席の窓が少し開いている。人影が二つ見える。だがカメラは遠く、顔は判別不能だった。


 雨月は動画を最後まで見た。帰りの映像も確認した。

件の場所に軽自動車はいなかった。


 ロドリゲス斎藤の証言通りだった。


 それだけだった。


十八

 江戸川は独自に動いた。


 ダイハツのムーヴ、白系、二世代前。

峠周辺の市町村で該当する車両を調べようとしたが、当然ながら車両照会は一般人にはできない。

伝手を辿って県内の中古車販売店を数軒回ったが、登録情報には辿り着けなかった。


 詰まった。


 雨月に相談すると、「こちらで照会する」と言われた。

だが二日経っても続報はなかった。


 白系のムーヴ、該当台数が県内だけで数百件ある。

絞り込む材料が足りなかった。


十九

 根古から電話があったのは、その翌朝だった。


 榊原の携帯に、朝の六時過ぎに着信が入った。


「今日、行けます」


 それだけだった。


 榊原はすぐに雨月に連絡した。雨月は江戸川に連絡した。


 根古が峠の現場に着いたのは九時前だった。

昨日まで降っていた雨が上がって、空気が妙に澄んでいた。

根古は車を降りた瞬間に、今日は違うとわかった。


 守護霊の気配が近い。体の芯が、静かに温かい。


 悪くない日だった。


二十

 榊原が証拠袋を持ってきた。


 根古は手袋をせずに袋を受け取った。靴に直接、右手の指先を当てた。


 目を閉じた。


 来た。


 最初に色が来た。オレンジ色の光。

夕方の光ではなく、もっと人工的な??街灯か、コンビニの看板か。

次に音が来た。エンジン音、低い男の声、女の声。泣いてはいない。

だが喉が締まっている。息が浅い。


 根古は意識をそこに沈めた。


 女の視点で、景色が流れ込んでくる。

車の中。助手席。膝の上に何かを抱えている。

小さくて、温かくて、動いている。


 猫だ。


 根古はそこで一度、息を吐いた。


 猫を抱えた女が、助手席にいる。

男が運転している。女は何かを繰り返し言っている??言葉は聞こえない。

感情だけが来る。恐怖ではない。懇願だ。


 根古はもう少し深く入ろうとした。


 そのとき、横から声がかかった。


「何か見えてますか」


 江戸川だった。


 像が、霧散した。


二十一

「……」


 根古は目を開けた。靴から手を離した。


 江戸川が前のめりになって立っていた。

手帳を握っている。目が真剣だった。

悪意はない。ただ、待てなかったのだ。


「すみません、見えてましたか、何か」


「途切れました」


「え」


「声をかけると、途切れます」


 江戸川の顔が青くなった。

「す、すみません、知らなくて」


「いいです」根古は静かに言った。

怒ってはいなかった。ただ疲れた。

「もう一度やります。その間、話しかけないでください」


 江戸川が深く頷いた。


 根古はもう一度靴に触れた。目を閉じた。


 意識を沈める。守護霊の気配を手繰り寄せる。静かに、ゆっくりと??


「根古さん、女性の声はしましたか」


 雨月だった。


 根古は靴から手を離した。


 また、霧散した。


二十二

 沈黙が落ちた。


 今度は少し長かった。


 根古は立ち上がった。膝の土を払った。榊原を見た。

榊原は少し離れたところで腕を組んで空を見ていた。

自分のせいではないという顔だった。


「お二人に確認しますが」根古は江戸川と雨月を交互に見た。声は平坦だった。

「サイコメトリーというのは、集中が必要です。

話しかけると、途切れます。途切れると、最初からやり直しです。

やり直すたびに、体力を使います」


 江戸川が「はい」と言った。消え入りそうな声だった。


 雨月は無言だった。表情が読めない。


「質問は、終わってからにしてください」


「わかりました」雨月が言った。「ただ??」


「まだ何かありますか」


「リアルタイムで確認したい情報があった。

終わってから聞いても意味が薄れる場合がある」


 根古は雨月を見た。雨月は根古を見た。


 どちらも引かなかった。


 榊原が咳払いをした。


「雨月。根古さんのやり方に合わせてくれ。

捜査の都合より先に、根古さんの体力が先や」


 雨月は一秒、榊原を見た。それから根古に向き直った。


「わかりました。失礼しました」


 頭を下げた。浅くだが、きちんと下げた。


 江戸川も倣った。こちらは深かった。


二十三

 三度目だった。


 根古は靴に触れた。今度は誰も声をかけなかった。風の音だけがあった。


 ゆっくりと、像が戻ってきた。


 オレンジの光。助手席。膝の上の猫。懇願する女の感情。


 根古はそこから先へ、意識を押し込んだ。


 景色が動いた。


 車が止まる。ドアが開く。女が降りる。猫を抱えたまま、降りる。

暗い。足元が砂利だ。峠ではない、別の場所だ。建物がある。古い建物。灯りが一つだけついている。


 女が何かを叫んでいる。


 根古は言葉を聞こうとした。


 聞こえた。


 断片だった。それでも、二つの言葉が滑り込んできた。


 ??「娘」と、「証拠」。


 そこで像が揺れた。守護霊の気配が遠のいた。体の芯の温かさが、すうっと引いていくのがわかった。


 限界だった。


 根古は靴から手を離した。目を開けた。空が白かった。


 榊原が一歩近づいた。


「見えましたか」


「断片だけです」根古は言った。

「女は車で連れてこられた。峠ではなく、別の場所に降ろされた。古い建物。

灯りが一つ。女は何かを叫んでいた」


「言葉は」


「二つだけ聞こえました」


 根古は少し間を置いた。


「『娘』と、『証拠』」


 誰も声を出さなかった。


 雨月の目が、かすかに変わった。



続きを書きます。


二十四

 根古は車に戻りかけた。


 キャリーケースの中でヤマトが一度鳴いた。

根古は助手席の窓越しに黒猫を見た。今日は木下院長の予約はない。本当にただ、来ただけだ。


 踵を返しかけたとき、足が止まった。


 止めたわけではなかった。勝手に止まった。


 根古は法面のシートを見た。青いシートが風にわずかに揺れている。

その向こうに、掘られた土の断面がある。女が埋まっていた場所だ。


 何かが引っかかった。


 能力ではない。さっきので今日の分は使い切った。

守護霊の気配はもう遠い。ただの、目だ。ただの、視線だ。


 根古はシートを見たまま、独り言のように言った。


「あの女の人、自分で歩いてきたんやないと思います」


 背後で榊原が振り返った気配がした。


「さっきの像の話やないです」根古は続けた。「靴の話です」


 雨月が近づいてきた。


「ソールの減り方が、左右で違うと聞きました。右が減って、左が少ない」


「そうです」榊原が答えた。「鑑定でも確認しています」


「右利きの人間が、重いものを左手で持って長く歩くと、そうなります」根古は振り返った。

「猫を、ずっと左手で抱えて歩いとった人やないですか。右手は、ふさがれとったか、使えんかったか」


 誰も答えなかった。


「怪我か、あるいは」根古は少し間を置いた。「誰かに、掴まれとったか」


二十五

 江戸川が手帳を開いた。


「ロドリゲスさんの証言で、助手席の窓が開いていたとありました。猫を抱えた女が助手席にいて、右手を??」


「それ以上は憶測になります」雨月が静かに言った。江戸川が口をつぐんだ。


 雨月は根古を見た。


「古い建物に、心当たりはありますか。像の中で、何か特徴は」


「灯りが一つだけでした。窓の形が古かった。引き違いの窓やなくて、外に開くタイプの」


「木製の窓枠か」


「そこまでは見えませんでした」根古は首を振った。「ただ、峠より低い場所やと思います。

上りの感覚がなかった。車が止まったとき、平らか、むしろ少し下りとったような」


「峠を越えた先か」


「そうかもしれません」


 雨月が榊原を見た。榊原が頷いた。


 根古は車のドアを開けた。


「これ以上は今日は無理です。出直します」


「根古さん」榊原が言った。「助かりました」


「たまたまです」根古はヤマトのキャリーケースを確認した。「帰ります」


二十六

 根古の軽自動車が峠道を下りていくのを、江戸川は見送った。


 小さな車だった。助手席に猫のケースが見えた。


 江戸川は手帳を見た。書き込んだ内容を確認した。


 ムーヴ、白系。峠を越えた先。古い建物。外開きの窓。灯りが一つ。


 何かに引っかかった。


 江戸川は手帳を繰った。最初に聞き込みをした日のメモを探した。

三日間で回った軒数、空振りの件数、気になった場所に丸をつけたページ。


 三つの丸。


 潰れたドライブイン。集落外れの空き家。舗装が途切れる林道。


 江戸川は三番目の丸を見た。


 林道の先に、舗装が途切れる場所がある。

そこから少し歩いた奥に、自分は行っていない。引き返したのは、草が深くて道がわからなくなったからだ。

だが林道は峠を越えた側に延びていた。


 下りだった。


二十七

 江戸川は雨月を呼んだ。


「林道の先、まだ確認していない場所があります」


 雨月が地図を見た。


「ここか」


「はい。舗装が途切れてから先に、自分は入れませんでした。

ただ、根古さんの言った条件と合います。峠を越えた先、下り、古い建物」


 雨月は地図をしばらく見た。


「航空写真で確認する」


 スマートフォンで地図アプリを開いた。

衛星写真に切り替えた。林道を辿った。

舗装の途切れる場所から先、木々の間に??


 屋根があった。


 古い、崩れかけた屋根だ。一棟、木に隠れるように建っている。


 雨月は画面を拡大した。建物の西側に、小さな白い四角が見えた。


 窓だった。外に開いた、古い窓。


 江戸川が覗き込んで、息を飲んだ。


「根古さんの言った通りや」


「まだ確認していない」雨月は画面を閉じた。「行くぞ」


二十八

 林道は途中から江戸川の記憶通りに草で埋もれた。


 雨月は構わず進んだ。草をかき分け、倒れた枝を跨いだ。

江戸川がついていった。


 十五分歩いた。


 建物が見えた。


 廃屋だった。木造の平屋、築四十年は超えているだろう。屋根の一部が落ちている。

壁板が腐って、何枚か剥がれている。だが柱はまだ立っていた。

西側に窓がある。

外に開くタイプの、古い木製の窓枠。


 雨月は建物の周りを一周した。


 玄関の引き戸は開いていた。鍵はなかった。あるいは、壊されていた。


 中に入った。


 土間があった。古い農機具が錆びたまま放置されている。

奥に板の間がある。埃の積もった床に、足跡があった。一人分ではなかった。

複数の、サイズの違う足跡だった。


 雨月は足跡を踏まないように端を歩いた。板の間の隅に、何かが落ちていた。


 しゃがんで見た。


 小さなプラスチックの板だった。爪ほどの大きさ。表面にひっかき傷がある。


 雨月はビニール袋を取り出して、それを拾い上げた。


 光に透かした。


 SDカードだった。


二十九

 江戸川が背後から覗いた。


「SDカード」


「踏まれた跡がある。意図的に壊そうとしたか、あるいは落として気づかなかったか」雨月は袋ごとポケットに入れた。

「鑑識に回す」


「データは残っていますか」


「わからん」雨月は立ち上がった。「ただ??」


 板の間をもう一度見渡した。足跡、埃の乱れ、壁際に引きずったような跡。


「ここで、何かがあった」


 静かな断定だった。


 江戸川は廃屋の中を見渡した。外開きの窓から、灰色の空が見えた。


 根古が「灯りが一つ」と言った。


 この窓から差し込む光が、夜には一つだけに見えたかもしれない。


 江戸川はそれを雨月に言おうとした。


 やめた。


 今は言う必要がない、と思った。

根古が感触で掴んだものを、自分たちは足で辿り着いた。

それだけで十分だった。



三十

 鑑識の結果が出たのは三日後だった。


 SDカードは物理的に踏み潰されていた。

基板が割れ、接点が曲がっていた。

通常の方法ではデータを読み出せない状態だった。


 だが県警にはデータ復元の専門業者との契約がある。

フラッシュメモリのチップを基板から取り外し、直接読み出す方法だ。

費用と時間がかかる。榊原が稟議を通した。


 復元できたのは全体の六割だった。


 雨月はデータの一覧を見た。


 動画ファイルが十二本。静止画が四十三枚。テキストファイルが三本。


 動画の大半は再生できなかった。破損していた。

かろうじて再生できたのは二本、合計で四分に満たない断片だった。


 静止画は三十一枚が復元できた。


 雨月は一枚ずつ開いた。


三十一

 写真の内容は、一見して何でもないものだった。


 部屋の内装。古い壁紙。

窓から見える庭。食卓に並んだ料理。猫。


 猫の写真が多かった。


 茶トラの猫だった。子猫から成猫になる過程が、複数枚に渡って記録されていた。

猫と一緒に写っている人間の手が、何枚かに映り込んでいた。

女の手だった。爪にピンクのマニキュアが塗られていた。


 雨月は手を止めた。


 遺体の手首に残っていたマニキュア。薄いピンク。


 同じ色だった。


 残りの写真を続けた。

料理の写真、窓の写真、猫の写真??最後の数枚で、内容が変わった。


 書類だった。


 手書きの書類ではない。

印刷された書類を、テーブルの上に広げて撮影していた。

ピントが甘い。だが読める。


 雨月は画面を拡大した。


 表題があった。


 「委託販売契約書」とあった。


三十二

 テキストファイルを開いた。


 一本目は日記だった。

日付が飛び飛びで、最後の日付は遺体の推定死亡時期と一致していた。


 文体は平易だった。特別な教育を受けた人間の文章ではない。

だが几帳面だった。日付、天気、その日あったこと。淡々と書かれていた。


 途中から、内容が変わった。


 ある人物の名前が繰り返し出てくるようになった。

名前はイニシャルで書かれていた。「K」とだけある。


 Kが何かを持っていった。Kが戻してくれない。

Kに何度も頼んだが聞いてもらえない。娘のために必要なのに。


 雨月は「娘」という文字で手を止めた。


 根古が言った言葉だった。


 読み続けた。


 日記の終盤、最後から三番目の記述にこうあった。


「証拠を撮った。これがあればKは言い逃れできない。

娘に渡す前に、安全な場所に隠しておく」


 最後の記述は短かった。日付だけで、文章が途中で切れていた。


三十三

 雨月は三本目のテキストファイルを開いた。


 それは日記ではなかった。


 箇条書きだった。日付、金額、品名、取引相手の名前。几帳面な記録だった。

総額を計算すると、三年間で八百万円を超えていた。


 品名の多くは骨董品だった。着物、陶器、掛け軸、刀装具。


 取引相手の欄に、繰り返し出てくる名前があった。


 「垂水工芸」とあった。


三十四

 榊原に報告した夜、雨月は根古に電話した。


 根古は温泉から帰ってきたところだった。

日帰りではなく一泊してきたらしく、声が少し緩んでいた。


「SDカードのデータが復元できました」


「そうですか」


「女性の日記が入っていました。

『娘』と『証拠』という言葉が出てきます」


 電話の向こうで、根古が少し黙った。


「骨董品の不正売買の記録も出てきました。三年間、八百万円以上。

女性はその証拠を撮影して、SDカードに残していた」


「娘に渡すために」


「日記にそう書いてありました」雨月は少し間を置いた。「根古さんの言った通りでした」


「たまたまです」


 雨月は答えなかった。


「猫のことはわかりましたか」根古が言った。


「猫の写真が多数ありました。女性が飼っていた猫と思われます。茶トラです」


「なぜ一緒に埋められたんか」


「まだわかりません」


 根古がまた黙った。少し長い沈黙だった。


「殺された日に、猫も一緒にいたんやと思います」


「証拠はありません」


「証拠やないです。感触です」根古は言った。

「女の人が最後まで離さんかったもんが、二つあったんやと思う。娘への証拠と、猫と」


 雨月は手元のファイルを見た。復元された写真の一覧。

猫と女の手が映った写真。ピンクのマニキュア。


「一つは奪われて、一つは奪えんかったから、一緒に埋めた」根古が続けた。

「SDカードは廃屋に落ちとったんやろ。奪ったけど、壊しきれんかった」


 雨月は返事をしなかった。


「根古さん」しばらくして言った。

「木下動物病院に心当たりはありますか」


「木下先生やったら知っとりますが」


「猫と一緒に埋められた理由について、専門家の意見を聞きたい。非公式で構いません」


 根古は少し考えた。


「明日、聞いてみます」


三十五

 翌日の午後、根古は木下動物病院に行った。


 予約はなかった。ヤマトを連れていかなかった。

木下千恵は受付に根古の顔を見て、「ヤマトちゃんは?」と言った。


「今日はヤマトやないんです。少し聞いていいですか」


 木下は診察の合間に時間を作ってくれた。院長室は狭かった。

棚に専門書が並んでいた。


「猫と一緒に人間が埋葬される、というか??意図的に一緒に埋められるというのは、どういう状況が考えられますか」


 木下が少し目を細めた。


「峠の件ですか」


「……テレビで出てましたか」


「地元のニュースで。遺体と動物の骨が出たと」木下は少し考えた。

「感情的な理由と、実際的な理由と、二種類あると思います」


「聞かせてください」


 木下は棚から薄い冊子を取り出した。


「感情的な理由は単純です。一緒にいたから。飼い主と猫が、離れられなかった。

あるいは埋めた側が、一緒にしてやろうとした。

古い時代の副葬品と同じ発想です」


「実際的な理由は」


 木下は少し間を置いた。


「猫が、何かを知っていた場合です」


 根古は木下を見た。


「猫は何も喋りません。証言もできない。でも、猫がいたという事実が、困る人間がいる場合があります」木下は冊子を閉じた。

「たとえば猫にマイクロチップが入っていたら、飼い主の個人情報が紐付いています。

二〇二二年以降、販売される猫にはチップの装着が義務化されています。

古い猫でも、意識の高い飼い主は自主的に入れています」


 根古の中で、何かが繋がった。


「チップが残っていたら」


「身元が割れます」木下は静かに言った。

「猫を一緒に埋めたのは、猫を消す必要があったからかもしれません。

あの骨、まだ保管されていますか」


三十六

 根古はその足で榊原に電話した。


 内容を話すと、榊原は五秒間黙った。


「チップの読み取りは、骨になっても可能ですか」


「木下先生に確認します。

チップ自体はガラスとセラミックで覆われていて、焼却しない限り残るそうです。

土中なら十分残る可能性があると」


「すぐ鑑識に回す」榊原の声が変わった。

「根古さん、よう気がついてくれた」


「木下先生です。私は聞きに行っただけです」


 電話を切った。


 駐車場に戻ると、軽自動車の中でヤマトが鳴いた。

今日は連れてきていなかったはずだった。

見ると、助手席にキャリーケースがあった。


 根古は首を傾けた。


「……いつの間に乗っとったんや」


 ヤマトは答えなかった。窓の外を見ていた。




三十七

 チップの読み取りに成功したのは、翌週の月曜日だった。


 猫の骨から、チップが原形を保ったまま出てきた。

木下の言った通りだった。

土中の保存状態が良かった。


 チップの番号から、登録データベースを照会した。


 登録者名、住所、連絡先。


 女性の名前が出た。


 藤堂 静江 享年五十一歳。


 住所は県内の市街地だった。

峠から車で四十分ほどの場所にある、古い住宅街だ。


 失踪届は出ていなかった。


 雨月はその事実を三回確認した。やはり出ていなかった。


 三ヶ月間、誰も届け出ていない。


三十八

 住所を当たった。


 表札はなかった。

郵便受けに「藤堂」と書いた紙が貼ってあったが、色褪せていた。

最近貼ったものではない。


 隣家を訪ねた。七十代の女性が出た。


「藤堂さんやったら、夏頃からおらんようになりましたけど」


「夏頃というのは」


「お盆過ぎやったと思います。急に引っ越しはったみたいで、挨拶もなかったから、変やなとは思うてたんですけど」


「一人暮らしでしたか」


「娘さんと二人暮らしやったんですけど、娘さんは二年前に出て行かはって。

それからずっと一人でした」


「娘さんの名前はご存知ですか」


 隣人は少し考えた。


「遥ちゃん、やったと思います。藤堂遥。大学出てすぐ、どこかに就職して出て行かはった。

たまに帰ってきてましたけど、ここ一年は見てませんね」


三十九

 同じ頃。


 県内の別の場所で、一人の女性が動いていた。


 藤堂遥、二十四歳。


 派遣社員として市内の会社に勤めている。一人暮らしのアパートは、母親の家から電車で三十分の距離にある。


 遥は三ヶ月間、母親と連絡が取れていなかった。


 最初は喧嘩だと思っていた。


 母親とは、夏に言い合いになった。

骨董品の話だった。

母が長年、知り合いに頼まれて品物を預かり、売り捌いていた。

遥はそれを知って、やめるように言った。

相手が信用できる人間じゃないと言った。

証拠もあると言った。母は「わかっている、もうやめる」と言った。


 それが最後の会話だった。


 電話が繋がらなくなった。

家に行ったら荷物がなくなっていた。引っ越した形跡があった。


 だが引越し業者に心当たりはなかった。

母親の友人に聞いても、誰も知らなかった。


 遥は警察に相談しに行った。


 窓口で「家族間のトラブルの可能性もある」と言われた。

「大人が自分の意思で転居することは止められない」と言われた。

失踪届の用紙をもらったが、書き方がわからなかった。

そのまま三ヶ月が過ぎた。


四十

 遥が変化に気づいたのは、先週だった。


 職場の同僚がスマートフォンで地元のニュースを見ていた。

峠で遺体が発見された、身元不明、という記事だった。


 遥は昼休みにその記事を読んだ。


 読んで、立てなくなった。


 根拠はなかった。

ただ、読んだ瞬間に体が動かなくなった。


 その日の夜、遥は警察に電話した。


 峠の件を担当している部署を聞いた。

何度か電話を回されて、最終的に県警の代表番号に繋がった。

要領を得ない説明をしながら、遥は泣いていた。


 翌日、遥のもとに雨月から連絡が入った。


四十一

 雨月が藤堂遥に会ったのは、週の半ばの夕方だった。


 場所は署の近くの喫茶店にした。取調室ではなく。


 遥は小柄だった。

母親の写真で見た手と同じ、細い指をしていた。目が腫れていた。

昨夜泣いたのか、それとも今日も泣いていたのか、雨月には判断できなかった。


「確認が取れ次第、正式にご連絡します」雨月は言った。

「今日はいくつか聞かせてください」


 遥は頷いた。


「お母さんが骨董品の売買に関わっていたと言っていましたね」


「はい」遥の声は小さかったが、はっきりしていた。

「三年くらい前から、Kという人に頼まれて、品物を預かって、売り先を探していました。

お母さんは昔から骨董が好きで、目利きができたので」


「Kというのは」


「母から聞いた名前は、桐島という人です。

桐島、名前は??健二、だったと思います」遥は手の中の紙コップを見た。

「最初は普通の取引やったみたいです。

でも途中から、おかしくなった」


「おかしくなった、というのは」


「品物の出所が、おかしかったと母は言っていました。

正規のルートやないものが混じってくるようになったって。

でも断れなくなっていた」遥は少し間を置いた。

「お母さんは証拠を撮っていました。

いつか使えると思って、ずっと記録していたって、夏に私に言っていました」


 雨月は手帳に書きながら聞いた。


「夏の言い合いというのは、その証拠を使うかどうかについてでしたか」


「私が、警察に持って行くべきやと言ったんです」遥の目が揺れた。

「お母さんは怖いって言っていました。

桐島さんに知られたら、どうなるかわからないって」


 雨月はペンを止めた。


「怖い、というのは、脅されていましたか」


「直接的な言葉ではなかったと思います。でも??」遥は紙コップを両手で包んだ。

「桐島さんは、お母さんが大切にしていた猫のことを、よく話に出したらしいんです。『猫、元気ですか』って」


 雨月は遥を見た。


「普通の会話みたいやけど、お母さんはそれが怖かったって言っていました。

言葉の裏に何かあるみたいで、と」


四十二

 喫茶店を出た。


 雨月は車に戻らずに、しばらく歩いた。


 桐島健二。


 その名前を頭の中で転がした。

骨董品の不正売買。委託販売契約書。

証拠を握った女。猫を使った間接的な脅し。そして女は消えた。猫と一緒に。


 根古が言った言葉が戻ってきた。


「猫を一緒に埋めたのは、猫を消す必要があったからかもしれない」


 違う、と雨月は思った。


 少なくとも、それだけではない。


 桐島健二は猫を「使って」いた。脅しの道具として。

だとすれば、猫を一緒に埋めたのは証拠隠滅だけではない。


 最後まで、その構図を維持したかったのだ。


 支配の、最後の形として。


 雨月はスマートフォンを取り出した。榊原に電話した。


「桐島健二という人物の照会をお願いします。骨董品関係、垂水工芸との接点も確認してください」


 電話を切った。


 夜の街灯が、濡れたアスファルトに伸びていた。


四十三

 同じ夜、根古は炬燵の中にいた。


 ヤマトが膝の上で眠っていた。温かかった。テレビは消えていた。


 雨月から短いメッセージが届いていた。


「身元が判明しました。藤堂静江。娘がいます。報告は後日します」


 根古はそれを三回読んだ。


 返信を打った。


「わかりました」


 送信した。

それから少し考えて、もう一行打った。


「娘さんは、お母さんを探してたんですね」


 しばらくして、雨月から返信が来た。


「三ヶ月間、一人で探していました」


 根古は画面を閉じた。


 ヤマトの背を撫でた。猫は眠ったまま、喉を鳴らした。


 藤堂静江が最後まで抱えていたもの。


 証拠と、猫。


 どちらも、娘のためだったのかもしれない、と根古は思った。

証拠は娘に渡すために。

猫は、娘が昔から可愛がっていたから。


 それが正しいかどうかは、わからない。


 ただの、感触だ。


 根古はヤマトを見た。


「たまたま、ちゃんと解決できそうやな」


 ヤマトは目を開けなかった。


続きを書きます。


四十四

 桐島健二の照会結果が出たのは、翌々日の午前中だった。


 雨月は榊原の執務室で報告を受けた。


 桐島健二、六十三歳。


 三期十二年、県議会議員を務めた。

文教委員長、経済産業委員会副委員長を歴任。

四年前の選挙で落選し、以後は政界から退いている。

現在は県内の文化財保護団体の理事を務めている。

地元紙への寄稿も多い。

骨董、茶道、地域文化の保護活動に熱心な人物として知られている。


 表の顔は、そういう男だった。


 雨月は資料をめくった。


「垂水工芸との関係は」


「登記を確認しました」榊原が言った。

「垂水工芸、有限会社。設立二十二年前。代表取締役は垂水義則、六十一歳。

骨董品の売買、鑑定、修復を業とする」


「桐島との直接の接点は」


「表向きはない。だが」榊原は一枚の書類を出した。

「垂水工芸の設立時の出資者リストに、桐島健二の名前がある。

出資額は少額だが、関係は設立当初からある」


 雨月は書類を見た。


「二十二年前から」


「骨董の世界は狭い。

顔が繋がっていれば、表に名前が出なくても動ける」榊原は腕を組んだ。

「藤堂静江のSDカードにあった委託販売契約書の相手方は垂水工芸だった。

だが実際に藤堂に接触していたのは桐島だとすれば??」


「垂水工芸は表の器で、桐島が実質的に動かしていた」


「可能性としては高い」


 雨月はしばらく黙った。


「三年間で八百万円。品物の出所がおかしくなったのは途中からだと娘が言っていました。

最初は合法的な取引で信用を作って、途中から不正なものを混ぜた」


「そうなると、藤堂静江は最初から嵌められていた可能性がある」


 雨月は資料を閉じた。


「桐島健二の現在の住所と、行動範囲を調べます」


四十五

 だが動くには証拠が足りなかった。


 SDカードの記録は、藤堂静江が取引に関与していたことは示している。

だが桐島健二が直接指示していたことを示す証拠はない。

委託販売契約書の相手方は垂水工芸であり、桐島の名前はどこにも出てこない。


 藤堂静江の死についても同様だった。


 遺体は発見された。死因は外傷による出血死と鑑定された。

だが現場となった廃屋からは、桐島を特定できる物証が出ていない。

足跡は複数あったが、摩耗が激しく個人の特定には使えなかった。


 雨月は机の前に座って、手帳を開いた。


 あるもの。


 SDカード、委託販売契約書の画像、日記、猫のマイクロチップ、藤堂遥の証言、ロドリゲス斎藤の証言と動画。


 ないもの。


 桐島と遺体を結ぶ直接の物証。

垂水工芸の不正取引の実態。

藤堂静江が最後に接触した人物の特定。


 雨月はペンを置いた。


 足りない。


 何かが、まだどこかにある。


四十六

 江戸川は独自に動いていた。


 桐島健二の名前を聞いた瞬間から、江戸川の中で何かが引っかかっていた。


 元県議。文化財保護。骨董。


 どこかで聞いた組み合わせだった。


 事務所に戻って、過去の資料を引っ張り出した。探偵業を始める前、江戸川は地元の小さな情報誌でアルバイトをしていた。

取材の補助で、地元の文化人や実業家のインタビューに同行したことがある。


 一年分のバックナンバーを順番に見た。


 四冊目で、見つけた。


 二年前の秋号。特集「地域文化を守る人々」。


 桐島健二のインタビューが三ページにわたって掲載されていた。

顔写真付きだった。白髪交じりの、穏やかな顔をした男だった。


 記事を読んだ。


 骨董への愛情、地域文化への思い、若い世代への伝承??当たり障りのない内容だった。

だが最後のページに、一枚の写真があった。


 桐島が骨董品を手に持って、カメラに向かって笑っている写真だった。


 その背後に、棚が映っていた。


 棚に並んだ品物の中に、江戸川の目が止まるものがあった。


 刀装具だった。


 藤堂静江のSDカードに記録されていた品名リストの中に、同じ種類の刀装具があった。

江戸川は手帳と写真を何度も見比べた。


 同じかどうかは断言できない。


 だが似ていた。


 江戸川は雨月に電話した。


四十七

 雨月が情報誌の写真を鑑識に回した。


 結果は一週間後と言われた。


 待てなかった。


 雨月は垂水工芸の所在地を調べた。県内の旧市街にある。

江戸時代からの古い町並みが残る一角で、骨董店や古道具屋が何軒か集まっている場所だ。


 表向きの調査として、雨月は私服で垂水工芸を訪ねた。


 間口の狭い店だった。ガラスケースに陶器が並んでいた。奥に年配の男が座っていた。


「何かお探しですか」


「少し見せてもらっていいですか」


 雨月は店内を歩いた。棚を見た。ガラスケースを見た。


 刀装具のコーナーがあった。


 雨月は立ち止まった。一つ一つを眺めた。品札がついている。

価格と、簡単な来歴が書いてある。


 一点、来歴の欄が空白のものがあった。


 他の品物には産地や時代が書いてある。その一点だけ、空白だった。


 雨月は店主に声をかけた。


「これ、来歴が書いていないですね」


 店主の表情が、わずかに変わった。


「仕入れ中の品でして、まだ調査が終わっておりません」


「いつ入ってきた品ですか」


「さあ、私はちょっと」


 それだけだった。


 雨月は礼を言って店を出た。


四十八

 その夜、榊原から根古に電話があった。


 根古は夕食を終えたところだった。

ヤマトが食器棚の上で丸くなっている。


「根古さん、一つだけ聞いていいか」


「なんですか」


「今、桐島健二という人物を調べとる。元県議や。骨董が絡んでいる」


「聞いています」


「その男が今日、垂水工芸を訪ねた。私服の雨月が店を出た三十分後に入ってきた。

たまたま近くで張っとった別件の刑事が目撃した」榊原の声が少し低くなった。

「根古さん、垂水工芸に残っている品物に触れたら、何か見えるか」


 根古は少し考えた。


「品物は藤堂静江さんが扱ったものですか」


「可能性がある」


「可能性だけでは、何も見えんかもしれません」


「それでも構わん」


 根古はヤマトを見た。

猫は食器棚の上から根古を見下ろしていた。


「体調次第です」


「いつ動ける」


「明後日なら」


「頼む」


 電話を切った。


 根古はヤマトに言った。


「また行くことになった」


 ヤマトは目を細めた。


「たまたまや」


 猫は答えなかった。


四十九

 翌日の夕方、雨月は藤堂遥にもう一度会った。


 今度は遥のアパートだった。


 部屋に入ると、小さな仏壇が置いてあった。

まだ正式なものではない、白木の簡素なものだ。写真が一枚、立てかけてあった。


 笑っている女の写真だった。


 猫を抱いていた。茶トラの猫だった。


「桐島健二という名前を聞いたことはありますか」雨月は部屋の中央に座った。


「母から聞いた『K』が桐島という人だということは、前に話しました」


「桐島が元県議だと知っていましたか」


 遥は少し考えた。


「母は言っていませんでした。ただ、地元で顔が広い人やと言っていました。

だから余計に怖かったって」


「遥さん」雨月は手帳を閉じた。

「お母さんが証拠を撮ったSDカードとは別に、何かを残していた可能性はありますか。

紙の記録や、別の媒体」


 遥は黙った。


 長い沈黙だった。


「母は心配性でした」遥はゆっくり言った。

「大事なものは、必ず二か所に分けて保管する人でした」


 雨月は遥を見た。


「心当たりがありますか」


 遥は立ち上がった。

押し入れを開けた。段ボール箱を一つ引き出した。


「母が去年、私に預けていったものがあります。開けてないです。

開けるのが、怖かったから」


 段ボール箱の中に、封筒が一つあった。


 封筒の表に、遥の名前が書いてあった。


 母親の字だった。


続きを書きます。


五十

 封筒の中に、三つのものが入っていた。


 一つ目は、手紙だった。便箋二枚、母親の字で書かれていた。


 二つ目は、通帳のコピーだった。


 三つ目は、小さな鍵だった。


五十一

 雨月は手紙を読んだ。


 遥が隣で読んでいた。途中から、遥の息が浅くなった。


 手紙には日付があった。四ヶ月前、夏の初めだった。


 藤堂静江の字は丁寧だった。几帳面な性格が文字に出ていた。


 書かれていたのは経緯だった。


 三年前、桐島健二から「目利きのできる人間が必要だ」と声をかけられた。

最初は正規の品物だった。

骨董市や個人売買で入手したものを、静江が鑑定して売り先を探す。

報酬は一割。静江には骨董の知識があり、地元の愛好家とのつながりもあった。


 一年後から、品物が変わった。


 来歴のない品物が混じるようになった。

静江が出所を聞くと、桐島は「整理品だ」と言った。

遺品整理、蔵の片付け、そういうものだと言った。


 静江は信じようとした。


 だが二年目に、静江は気づいた。


 品物の一つに、盗難届が出ていた。

静江がたまたま骨董の専門誌で読んだ記事に、同じ特徴の品物が盗難品として掲載されていた。


 静江は桐島に言った。


 桐島は笑った。

「気のせいや」と言った。「同じような品物はいくらでもある」と言った。


 その夜から、桐島の言葉が変わった。


 直接的な脅しではなかった。

ただ、猫の話を必ずするようになった。

「チャトランは元気か」「猫は繊細やから、環境が変わると弱るな」「猫が一人になったら、かわいそうやな」


 静江はそれが怖かった、と手紙に書いていた。


 言葉ではなく、その笑顔が怖かった、と。


五十二

 手紙の後半は、記録についてだった。


 静江は二年間、証拠を集めていた。


 取引のたびに写真を撮った。

品物、契約書、受け渡しの場所。桐島とのやりとりをメモした。

盗難品と思われる品物の特徴を記録した。専門誌の切り抜きと照合した。


 それらをSDカードに保存した。


 だがSDカードだけでは不安だった。


 だから通帳のコピーを取った。


 三年間の取引で、静江の口座に振り込まれた金額の記録だった。

振込元はすべて垂水工芸名義だった。

金額と日付が並んでいた。


 そしてもう一つ、別の記録を作った。


 手紙の最後にこう書いてあった。


「遥、鍵はKDロッカーの八番や。駅の東口を出て左、二分歩いたとこにある。中に封筒が入っとる。

私が桐島さんと会うたびに書いた記録や。日付、場所、話した内容、品物の特徴。三年分ある。

全部本当のことしか書いてない。これをどう使うかは、あなたが決めてください。

ただ一つだけお願いがある。チャトランのことを、忘れんでいてください」


 遥は最後の一行で、声を出して泣いた。


 雨月は手帳を持ったまま、黙っていた。


五十三

 翌朝、雨月と遥は駅の東口に向かった。


 KDロッカーは古いコインロッカーの業者だった。

駅から二分、雑居ビルの一階にある。二十四時間営業。


 八番の鍵を差し込んだ。


 扉が開いた。


 中に茶封筒が一つあった。


 分厚かった。


五十四

 封筒の中には、大学ノートが一冊入っていた。


 百六十ページのノートだった。

最初のページから最後のページまで、細かい字で埋まっていた。


 日付、場所、品物の名前、特徴、推定価格、取引相手の名前。そして桐島健二との会話の記録。


 静江の字は均一だった。三年間、字が乱れていなかった。怖かったはずだ。

だが字は乱れていなかった。


 雨月はノートを最初から最後まで確認した。


 盗難品と照合できる記述が、十四件あった。


 取引の総額を計算すると、三年間で一千二百万円を超えていた。

SDカードの記録より多かった。差額の分は、静江に知らせずに処理された取引だ。


 桐島の名前が直接出てくる記述が、六十三か所あった。


 指示の内容、受け渡しの場所、価格の取り決め。

すべてに日付がついていた。


 最後の記述は、失踪する三日前の日付だった。


「桐島さんから電話があった。

SDカードのことを知っている、と言われた。どこで知ったのかわからない。

返せと言われた。返さないと言った。

電話を切った。怖い。

でも返せない。遥に渡すまでは、返せない」


 そこで記述が終わっていた。


五十五

 雨月は榊原に電話した。


「証拠が揃いました」


 榊原は少し黙った。


「ノート一冊、通帳コピー、SDカード。

三年分の記録です。

盗難品との照合が取れれば、文化財保護法違反、窃盗の幇助、証拠隠滅。

藤堂静江の死については、最後の記述と状況証拠を合わせれば??」


「令状が取れる」榊原が言った。


「垂水工芸と、桐島健二の自宅を同時に押さえたい」


「動く」


 電話を切った。


 雨月は遥を見た。遥はノートを両手で持ったまま、俯いていた。


「遥さん」


 遥が顔を上げた。


「お母さんは三年間、これを書き続けていました。あなたに渡すために」


 遥は答えなかった。


 答える代わりに、ノートを静かに雨月に差し出した。


 両手で、差し出した。


五十六

 令状が下りたのは、四日後だった。


 早朝、垂水工芸と桐島健二の自宅が同時に家宅捜索された。


 垂水工芸の在庫から、盗難届の出ていた品物が七点発見された。

桐島の自宅の書斎から、垂水工芸との取引記録と、藤堂静江への振込記録が出てきた。


 桐島健二は任意同行を求められた。


 玄関先に刑事が来たとき、桐島は着替えを済ませてネクタイを締めていた。


 慌てていなかった。


 それだけは、雨月の予想と違った。


五十七

 取調室で、桐島は最初の二時間、黙秘した。


 弁護士を呼んだ。弁護士が来た。


 それでも証拠の量は変わらない。


 雨月は静江のノートを机の上に置いた。


「藤堂静江さんが三年間書いた記録です。

日付、場所、あなたの名前、取引の内容。六十三か所に、あなたの名前が出てきます」


 桐島は机の上のノートを見た。


 表情が変わった。


 一瞬だけ変わって、すぐ戻った。だが雨月は見ていた。


「最後の記述は失踪する三日前です。あなたから電話があったと書いてあります。

SDカードを返せと言った、と」


 桐島は弁護士を見た。弁護士が何か耳打ちした。


 桐島は前を向いた。


「一つだけ聞いていいですか」雨月は言った。

「猫の話を、なぜいつもしたんですか」


 桐島は答えなかった。


「藤堂さんの日記に書いてありました。あなたが猫の話をするたびに、怖かったと。三年間、ずっと怖かったと」


 沈黙だった。


「それが目的でしたか」


 桐島は雨月を見た。初めて、まっすぐ見た。


 何かを言おうとした。


 言わなかった。


 それが答えだった。


五十八

 その夜、榊原から根古に電話があった。


「動きました」


「そうですか」


「桐島健二、身柄を確保しました。

垂水工芸も押さえました。

藤堂静江さんの件は、まだ時間がかかりますが??」


「娘さんには伝えましたか」


「雨月が伝えました」


 根古は少し黙った。


「よかったです」


「根古さんのおかげです」


「たまたまです」根古はすぐに言った。

「靴に触っただけです。あとは雨月さんと江戸川君がやりました」


「そのたまたまがなかったら、名前もわからんままでした」


 根古は答えなかった。


 ヤマトが膝に乗ってきた。重かった。温かかった。


「榊原さん」


「なんですか」


「チャトランという猫でした。茶トラの」


「そうです」


「ええ名前ですね」


 電話の向こうで、榊原が少し黙った。


「そうですね」


続きを書きます。


エピローグ

 十二月になった。


 峠道の法面に張られていた青いシートが撤去されたのは、月の初めだった。

コンクリートの亀裂は補修された。

何事もなかったような顔をした法面が、冬の峠道に戻った。


 通りがかる車は誰も知らない。


 ここに、藤堂静江がいたことを。


 桐島健二の起訴内容が固まったのは、年末だった。


 文化財保護法違反、窃盗幇助、証拠隠滅。それに加えて、検察は藤堂静江の死について傷害致死を加えた。


 直接手を下したのは桐島ではなかった。


 垂水工芸の代表、垂水義則が実行していた。


 桐島が段取りをした。

垂水が動いた。廃屋で静江からSDカードを奪おうとした。

静江が抵抗した。猫を離さなかった。揉み合いになった。


 垂水義則は最初の取調べで全部話した。


 黙秘したのは桐島だけだった。


 桐島の弁護士は起訴事実の一部を争う姿勢を見せたが、静江のノート一冊が、その余地をほとんど残さなかった。

三年分の記録は、法廷で証拠採用された。


 元県議の名前は年末の地元紙に小さく載った。


 文化財保護団体の理事職は、起訴と同時に失った。


 藤堂遥は年が明けてから、母親の家を片付けた。


 一人で始めたが、隣家の老女が手伝いに来た。

近所の人間が何人か来た。誰も何も言わなかった。

ただ来て、黙って手を動かした。


 荷物の中から、チャトランの写真が何枚も出てきた。


 子猫の頃から、成猫になるまでの写真だった。


 遥は一枚だけ選んで、財布に入れた。


 母親の家は売らなかった。


 しばらく、このままにしておくつもりだと、雨月に短いメッセージで伝えた。


 雨月は「わかりました」とだけ返した。


 それから少し考えて、もう一行送った。


「お母さんは三年間、あなたのために書き続けていました」


 返信は来なかった。


 翌朝、既読がついた。


 大晦日の夜。


 根古は一人で温泉に来ていた。


 県内の小さな温泉宿だった。露天風呂が一つだけある。

岩を組んだ湯船で、空が広く見える。冬の星が、湯気の向こうにあった。


 根古は湯船の縁に頭を預けて、空を見た。


 今年は何回温泉に来られたか、数えた。


 七回だった。去年より二回少ない。


 理由はわかっていた。


 根古は目を閉じた。


 藤堂静江の靴から流れ込んできた像を、もう一度だけ思い出した。


 オレンジの光。助手席。膝の上の猫。懇願する感情。


 怖かったはずだ。


 それでも猫を離さなかった。


 根古は湯船の中で、右手を開いた。閉じた。


 たまたまで、よかった。


 それだけだった。


 湯気が、冬の空に溶けていった。


 年が明けた。


 根古の携帯に、見知らぬ番号からメッセージが届いたのは、元旦の昼過ぎだった。


「根古さん、雨月です。番号を変えました。今年もよろしくお願いします」


 根古は画面を見た。


 よろしくお願いします、という言葉を、雨月が使うとは思っていなかった。


 根古は少し考えて、返信を打った。


「こちらこそ。ヤマトもよろしくと言っています」


 送信した。


 ヤマトは炬燵の中で丸くなっていて、何も言っていなかった。


 三分後に返信が来た。


「ヤマトさんにもよろしくお伝えください」


 根古はその文面を二回読んだ。


 悪くない、と思った。


 ヤマトに見せた。


 猫は画面を一瞥して、目を閉じた。





第二話 冒頭

 一月の半ば。


 桐島健二の初公判が開かれた日の夕方、雨月雅之は県警の廊下で榊原と立ち話をした。


「傍聴したか」榊原が言った。


「しました」


「どうやった」


「淡々としていました。桐島は」雨月は少し間を置いた。「否認していた部分を、一部認めました」


「どの部分や」


「静江さんへの接触について。ただ、死については今も垂水だけの行為だと主張しています」


 榊原は腕を組んだ。


「垂水は」


「全面自白のまま変わっていません」


「どちらかが嘘をついている」


「どちらも、自分に都合のいい部分だけ話しています」雨月は窓の外を見た。

「真相は藤堂さんしか知らない」



 廊下に沈黙が落ちた。


「雨月」榊原が言った。


「はい」


「次の件が来た」


 雨月は榊原を見た。


「今度は根古さんに最初から来てもらうつもりや」


「体調次第だと言われます」


「わかっとる」榊原は少し笑った。「それでも頼む」


 雨月は小さく頷いた。


「内容は」


「老人が一人、施設から消えた。認知症の男や。財産管理を任されていた人間がいる」榊原は一枚の書類を渡した。

「消える三日前に、男は施設の職員に言ったそうや。『隠した』と」


「何を」


「それがわからん」榊原は歩き始めた。「根古さんに聞いてみてくれ」


 雨月は書類を手に持ったまま、廊下に一人残った。


 窓の外に、冬の夕空があった。


 雨月はスマートフォンを取り出した。


 根古の番号を開いた。


 少し考えた。


 打った。


「根古さん、雨月です。体調はどうですか」


 三十秒後に返信が来た。


「普通です。なんですか」


 雨月はその「なんですか」を見て、少しだけ口元が動いた。


 打った。


「次の件です。老人が一人、消えました」


 今度は返信が少し遅かった。


 一分後に来た。


「……温泉の予約があります」


「いつですか」


「再来週です」


「それまでに動けますか」


 また間があった。


 返信が来た。


「体調次第です」


 雨月は書類をコートのポケットに入れた。


 それで十分だった。


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