古物商の影
古物商の影
始まり
ロドリゲス斎藤から根古に連絡が来たのは、水曜日の朝だった。
珍しかった。
いつもは突然ラクカに現れる男だった。
電話をかけてくることは、めったにない。
根古は着信画面を見た。
「ロドリゲスや」根古はフェルナンドに言った。
フェルナンドはノートから顔を上げた。
根古は電話に出た。
「なんや」
電話口のロドリゲスの声は、いつもの陽気さがなかった。
低く、押し殺したような声だった。
『根古さん、今どこですか』
「ラクカや」
『一人ですか』
「フェルナンドがおる」
『フェルナンドさんも一緒でいいです』短い間があった。『今から行っていいですか』
根古は少し間を置いた。
「来い」
電話を切った。
フェルナンドは根古を見た。
「ロドリゲスさん、何かありましたか」
「声が違った」根古は缶コーヒーを置いた。「あの男が本気のときの声や」
太田マスターが静かに言った。
「コーヒー、多めに用意しとくか」
根古は頷いた。
ヤマトが根古の膝から降りた。
入口のドアの前に座った。
待つように。
ロドリゲス斎藤が来たのは、三十分後だった。
いつものカメラバッグを肩にかけていた。
しかし顔色が悪かった。
浅黒い肌が、さらに暗く見えた。
カウンターに座った。
太田マスターがコーヒーを出した。
ロドリゲスは一口飲んだ。
しばらく黙っていた。
根古は何も急かさなかった。
フェルナンドはノートを開いた。
やがてロドリゲスが口を開いた。
「二人、死にました」
ラクカが静かになった。
「知り合いか」根古が聞いた。
「はい」ロドリゲスは続けた。「一人は鑑定士です。吉村誠一、五十五歳。岐阜市内で古物の鑑定をやっていた。腕のいい人間でした」
「もう一人は」
「古物商の従業員です。中川里奈、二十八歳。美濃市の古物商に勤めていた」ロドリゲスは続けた。「二人とも、先週のうちに亡くなっています」
「事故か」フェルナンドが聞いた。
「吉村さんは自宅で心臓発作。中川さんは交通事故」ロドリゲスは続けた。
「どちらも不自然な点があった。でも警察は今のところ事件として動いていない」
根古はロドリゲスを見た。
「お前は事件やと思っとる」
「思っています」ロドリゲスは根古を見た。
「二人は連絡を取り合っていました。ワシも知っていた。何かを告発しようとしていたと」
「何を告発しようとしていた」
ロドリゲスはカメラバッグに手をかけた。
中からタブレットを取り出した。
画面を根古に向けた。
「これを見てください」
画面には骨董品の写真が並んでいた。
掛け軸、陶器、刀剣、古い絵画。
「美術品ですね」フェルナンドは言った。
「全部贋作です」ロドリゲスは静かに言った。
「しかし正規の鑑定書がついています。本物として競売にかけられました。高いものは一点で数百万円します」
根古はタブレットを見た。
「吉村さんが鑑定書を偽造していたということですか」フェルナンドが聞いた。
「違います」ロドリゲスは首を振った。
「吉村さんは本物を見分けられる人間でした。だから最初は鑑定書の偽造に関わっていた。でも途中から、おかしいと気づいた」
「良心が痛んだということですか」
「それだけやない」ロドリゲスは続けた。
「吉村さんは盗品が混じっていることに気づいた。本物の美術品が盗まれて、贋作とすり替えられていた。本物は別ルートで海外に流れていた」
根古の目が細くなった。
「盗品の換金と、贋作の販売を同時にやっとったということか」
「そうです」ロドリゲスは続けた。「吉村さんはそれを中川さんに話した。中川さんは帳簿を見ていたから、資金の流れを知っていた。二人で証拠を集めていた」
「そして消された」根古は静かに言った。
ロドリゲスは頷いた。
フェルナンドはノートにペンを走らせた。
「主犯は誰ですか」
ロドリゲスはしばらく黙っていた。
コーヒーカップを両手で包んだ。
「岐阜の古物商の大物がいます」ロドリゲスは言った。
「業界では知らない人間がいない。地元の名士でもある」
「名前は」根古が聞いた。
ロドリゲスは根古を見た。
「言っていいですか」ロドリゲスは続けた。
「この名前を出したら、ワシも危なくなる」
「言わんでもええ」根古は静かに言った。「でも」
「でも?」
「お前がここに来た時点で、もう危ない」根古は続けた。
「言うても言わんでも、同じや」
ロドリゲスは根古を見た。
一秒。
二秒。
ため息をついた。
「桑山重蔵」ロドリゲスは言った。
「七十歳。岐阜市内で老舗の古物商を営んでいます。業界歴四十年以上の大物です」
「知っとるか」根古は太田マスターに聞いた。
太田マスターは少し考えた。
「名前だけは」太田マスターは静かに言った。
「岐阜の骨董市では顔役やと聞いたことがある」
「東京と大阪の業者とも繋がっとるんやろ」根古がロドリゲスに聞いた。
「繋がっています」ロドリゲスは続けた。
「東京の画商と、大阪の競売会社が絡んでいます。三者で役割を分担していた。桑山さんが盗品を集めて贋作を用意する。大阪の競売会社が正規の取引に見せかけて売る。東京の画商が本物を海外に流す」
「完璧な分業やな」根古は言った。
「長年やってきたから、ルートが確立していた」ロドリゲスは続けた。
「業界の人間は薄々知っている人間もいた。でも桑山さんの力が強すぎて、誰も言えなかった」
フェルナンドは手を止めた。
「ロドリゲスさんも知っていたんですか、以前から」
ロドリゲスは黙った。
答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
根古はロドリゲスを見た。
責めなかった。
ただ、静かに見た。
「ロドリゲス」根古は言った。
「はい」
「お前が今日ここに来たのは」根古は続けた。
「吉村さんと中川さんのためか」
ロドリゲスはしばらく黙っていた。
窓の外を見た。
やがて静かに言った。
「吉村さんには、世話になりました」ロドリゲスは続けた。
「バイヤーを始めた頃に、本物と偽物の見分け方を教えてくれた人です。あの人がいなかったら、今のワシはなかった」
根古は頷いた。
「中川さんは」
「会ったことは数回だけです」ロドリゲスは続けた。
「でも吉村さんが、あの子は真面目でいい子やと言っていた。二十八歳やのに」
ロドリゲスの声が、わずかに揺れた。
すぐに立て直した。
「根古さん」ロドリゲスは根古を見た。「頼めますか」
「ワシに頼るな、と言うたやろ」根古は静かに言った。
「わかっています」ロドリゲスは続けた。「でも今回だけは」
根古はしばらく黙っていた。
ヤマトが根古の膝に飛び乗った。
丸まった。
根古はヤマトを撫でた。
やがて静かに言った。
「物を見せてもらえるか」
「物?」フェルナンドが聞いた。
「贋作や盗品の現物や」根古はロドリゲスに言った。
「触れれば、わかることがある」
ロドリゲスは根古を見た。
「手に入れられますか」フェルナンドが聞いた。
ロドリゲスは少し考えた。
「一点だけ、手元にあります」ロドリゲスはカメラバッグを開けた。
「吉村さんが最後にワシに預けた物です。これだけは証拠として残してくれと言って」
バッグの中から、布に包まれた小さな物を取り出した。
カウンターに置いた。
布を開いた。
古い陶器の小皿だった。
素朴な、しかし品のある器だった。
根古はそれを見た。
しばらく見た。
右手を、そっと皿に触れた。
サイコメトリー。
物に残った記憶を読む。
根古の表情が、わずかに変わった。
目が、どこか遠いところを見ていた。
三十秒。
一分。
根古は右手を離した。
皿を見た。
「これは本物や」根古は静かに言った。
「本物ですか」フェルナンドが聞いた。
「江戸時代の職人が作った器や」根古は続けた。
「作った人間の記憶が残っとる。丁寧な、真面目な手仕事や」根古は続けた。
「そしてこの器には、持ち主が変わった記憶も残っとる。大切にされてきた記憶が、何層にも重なっとる」
「盗まれた記憶も残っていますか」フェルナンドが聞いた。
根古はしばらく黙っていた。
「残っとる」根古は静かに言った。
「暗い夜に、乱暴に持ち出された記憶が。持ち主が泣いとる記憶が」
ラクカが静かになった。
ロドリゲスは器を見た。
目が赤くなっていた。
「吉村さんはこの器を見て、本物やと気づいた」ロドリゲスは言った。
贋作とすり替えられる前に、こっそり持ち出してワシに預けた」
「吉村さんの最後の仕事やな」根古は静かに言った。
「はい」ロドリゲスは続けた。「これを証拠にしてくれと言っていた」
根古は器を布で包み直した。
ロドリゲスに返した。
「榊原に渡せ」根古は言った。「それから」
「それから?」
根古はロドリゲスを見た。
「お前のYouTube、何万人おるんや」
ロドリゲスは少し意外な顔をした。
「二十万ほどですが」
「使えるか」根古は続けた。「証拠が揃ったときに」
ロドリゲスの目が変わった。
陽気さではなかった。
静かな、しかし確信のある目だった。
「使えます」ロドリゲスは言った。「それのためのチャンネルでもある」
根古は頷いた。
「まずは現場や」根古は言った。「吉村さんと中川さんが死んだ場所に行く」
「一緒に来てもらえますか」ロドリゲスが言った。
「たまたまや」根古は言った。
ロドリゲスは苦笑いした。
フェルナンドはノートを閉じた。
カメラバッグを肩にかけた。
ヤマトが根古の膝から降りた。
入口のドアの前に座った。
太田マスターが根古に缶コーヒーを渡した。
「気をつけて」
根古は受け取った。
扉を開けた。
六月の光が差し込んだ。
三人と一匹が、外に出た。
二つの現場
最初に向かったのは、岐阜市内にある吉村誠一の自宅だった。
根古の軽自動車の後ろを、ロドリゲスの車が続いた。
カーラジオからJAZZが流れていた。
マイルス・デイヴィスのトランペットだった。
静かな、少し重たい音だった。
フェルナンドは助手席で窓の外を見ていた。
「根古さん、吉村さんはどんな死に方だったんですか」
「心臓発作や」根古は言った。
「自宅の書斎で倒れとった。朝、家政婦が発見した」
「持病は」
「なかった」根古は続けた。
「健康診断でも異常なしやったと、ロドリゲスが言っとった」
「毒ですかね」フェルナンドは言った。
「わからん」根古は静かに言った。「触れればわかる」
吉村誠一の自宅は、岐阜市内の閑静な住宅街にあった。
古い一軒家だった。
庭に手入れされた木が並んでいた。
几帳面な人間の家だった。
家族は息子が一人いたが、東京在住で、今は空き家状態だった。
ロドリゲスが息子と面識があった。
事前に連絡を取っていた。
鍵を預かっていた。
三人は中に入った。
玄関に、古い骨董品が並んでいた。
棚に、丁寧に並べられた器や置物。
長年かけて集めた、本物だけの品々だった。
フェルナンドはカメラを構えた。
「撮っていいですか」
根古は頷いた。
書斎に向かった。
書斎は静かだった。
本棚に専門書が並んでいた。
鑑定の道具が、机の上に整然と置かれていた。
吉村が倒れたのは、この机の前だった。
根古は机の前に立った。
右手を、机の表面にそっと触れた。
サイコメトリー。
しばらく動かなかった。
フェルナンドはカメラを根古に向けた。
一分が過ぎた。
根古の眉が、わずかに動いた。
二分が過ぎた。
根古は右手を離した。
ロドリゲスが前のめりになった。
「何がわかりましたか」
根古はしばらく黙っていた。
書斎を見回した。
「最後の夜のことが残っとった」根古は静かに言った。
「どんな様子でしたか」フェルナンドが聞いた。
「吉村さんはここで書き物をしとった」根古は続けた。
「遅い時間まで書いとった。それが終わって、立ち上がった瞬間に」
「倒れた」ロドリゲスが言った。
「倒れる前に、人の気配があった」根古は静かに言った。「外に、誰かがおった」
ロドリゲスの顔が険しくなった。
「毒ですか」フェルナンドが聞いた。
「わからん」根古は続けた。
「ただ、吉村さんの最後の感情が残っとる」
「どんな感情ですか」
根古は少し間を置いた。
「驚きやない」根古は静かに言った。「諦めでもない」
「じゃあ何ですか」
「満足や」根古は続けた。
「やるべきことをやり終えた、という満足が残っとる」
ロドリゲスは目を伏せた。
「器をワシに預けて、覚悟を決めとったんですね」ロドリゲスは静かに言った。
根古は答えなかった。
書斎を見渡した。
机の引き出しに目が止まった。
「その引き出し、開けてみい」根古はロドリゲスに言った。
ロドリゲスは引き出しを開けた。
中には何もなかった。
しかし根古は引き出しの底に右手を触れた。
しばらくして言った。
「何か貼り付けてあったな、最近まで」
ロドリゲスは引き出しの底を見た。
かすかに、紙を剥がした跡があった。
「吉村さんが隠しとったものや」根古は続けた。
「しかし誰かが先に持っていった」
「誰が」フェルナンドが聞いた。
「吉村さんを殺した人間や」根古は静かに言った。
三人は顔を見合わせた。
次は中川里奈の事故現場、美濃市へ向かった。
国道沿いの、緩やかなカーブだった。
ガードレールに、花束が供えてあった。
誰かが来ていた。
最近の花だった。
ロドリゲスは花束を見て、目を細めた。
「誰が供えたんでしょうね」フェルナンドは言った。
「知り合いやろ」根古は言った。
三人は現場に立った。
根古はガードレールに右手を触れた。
事故現場のサイコメトリーだった。
フェルナンドはカメラを回した。
根古の横顔を撮った。
風が吹いた。
国道を車が通り過ぎた。
根古は目を閉じた。
一分。
二分。
三分。
根古の表情が、険しくなった。
フェルナンドは気づいた。
吉村さんの書斎のときより、時間が長い。
何かを受け取っている。
四分が過ぎた。
根古はゆっくりと目を開けた。
右手を下ろした。
ロドリゲスが根古を見た。
「根古さん」
根古はしばらく黙っていた。
国道を見ていた。
やがて静かに言った。
「事故やない」
「やっぱり」フェルナンドは言った。
「車を意図的に押し出された」根古は続けた。
「後ろから別の車が来た。中川さんは気づいとった。必死にハンドルを切ろうとしとった」
ロドリゲスの拳が、わずかに握られた。
「中川さんの最後の感情は」フェルナンドは聞いた。
根古は少し間を置いた。
「怒りや」根古は静かに言った。
「諦めていなかった。最後まで」
ロドリゲスは花束を見た。
目が赤くなっていた。
しかし泣かなかった。
「根古さん」ロドリゲスは言った。
「中川さんは、何か残しましたか」
根古はもう一度ガードレールに触れた。
短く、確認するように。
やがて言った。
「名前や」根古は静かに言った。
「最後に、名前を叫んどった」
「誰の名前ですか」
根古はロドリゲスを見た。
「桑山や」根古は言った。
「桑山重蔵の名前を」
ロドリゲスは息を止めた。
フェルナンドはノートに書いた。
風が吹いた。
花束が揺れた。
二十八歳の女が、最後に叫んだ名前が、この場所に残っていた。
根古は立ち上がった。
花束を見た。
一秒。
静かに頭を下げた。
それだけだった。
「行くぞ」根古は言った。
「どこへ」ロドリゲスが聞いた。
「美濃加茂や」根古は続けた。
「桑山の動きを、まず把握する」
「ワシの情報網を使いますか」ロドリゲスは言った。
「使え」根古は言った。「お前の出番や」
ロドリゲスは初めて、いつもの顔に戻った。
陽気ではなかった。
しかし覚悟の決まった顔だった。
「任せてください」ロドリゲスは言った。
「この業界のことは、根古さんより詳しい」
「知っとる」根古は言った。「だから頼む」
ロドリゲスは頷いた。
軽自動車に乗り込んだ。
エンジンをかけた。
JAZZが流れた。
ビル・エヴァンスのピアノだった。
静かな、しかし力強い音だった。
フェルナンドは助手席でノートを閉じた。
窓の外に、美濃の山々が広がっていた。
緑の深い、静かな山だった。
しかしその静けさの奥に、何かが潜んでいた。
軽自動車は美濃加茂へ向かった。
ロドリゲス、動く
美濃加茂市内の駐車場に車を止めた。
ロドリゲスはカメラバッグからスマートフォンを二台取り出した。
一台は普段使い。
もう一台は、別のSIMが入っていた。
根古はそれを見た。
「用意がええな」
「バイヤーいうのはそういうもんです」ロドリゲスは言った。「情報が命ですから」
スマートフォンを操作し始めた。
次々と電話をかけた。
一本目。
「もしもし、ワシや。桑山さんの最近の動き、何か聞いとるか」
二本目。
「久しぶりやな。岐阜の骨董市、最近どうや。桑山さんの出品、変化あったか」
三本目。
「おう、元気か。大阪の競売会社でな、岐阜絡みの出品が増えとるという話、聞いたことあるか」
フェルナンドはノートを開いた。
根古は缶コーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。
ヤマトは後部座席で丸まっていた。
ロドリゲスは電話をかけ続けた。
四本目。
五本目。
六本目。
それぞれ短い。
しかし内容が濃かった。
業界の人間にしかわからない言葉が飛び交っていた。
フェルナンドは聞きながら、メモを取った。
三十分後、ロドリゲスはスマートフォンを置いた。
深く息を吐いた。
「集まりました」ロドリゲスは言った。
根古が振り返った。
「話せ」
ロドリゲスはメモを見ながら話し始めた。
「まず桑山重蔵の動きです」ロドリゲスは続けた。
「先月から急に出品が増えています。岐阜の骨董市だけやなく、名古屋、大阪にも品物を流している。明らかに急いでいる」
「処分を急いどるんやな」根古が言った。
「そう思います」ロドリゲスは続けた。
「吉村さんと中川さんが動いていることを、桑山は知っていた。だから先に証拠を消そうとしている」
「他には」フェルナンドが聞いた。
「大阪の競売会社、梅田オークションハウスです」ロドリゲスは続けた。
「ここが桑山の品物の主な販路になっています。社長は神戸出身の古物商で、桑山とは二十年来の付き合いや」
「名前は」
「辻堂昭三、六十二歳です」ロドリゲスは続けた。
「表向きは正規の競売会社ですが、裏では鑑定書の偽造に関わっていた。梅田オークションで落札された品物のうち、二割から三割が贋作やという話が業界内では囁かれていた」
「囁かれていたが、誰も言えなかった」根古が静かに言った。
「桑山と辻堂の力が強すぎた」ロドリゲスは続けた。「文句を言えば、業界から干される。みんなわかっていても黙っていた」
「東京の画商は」フェルナンドが聞いた。
「柿沼アート、代表の柿沼義徳、五十八歳です」ロドリゲスは言った。
「表参道に店を構えています。富裕層向けの美術品を扱っている。本物の美術品を海外のコレクターに流すルートを持っている」
「盗品の海外流出を担っとるわけやな」根古が言った。
「そうです」ロドリゲスは続けた。「本物が盗まれて贋作とすり替えられる。本物は柿沼経由で海外のコレクターのもとへ。贋作は桑山と辻堂が正規品として国内で売る。完璧な分業です」
フェルナンドはノートにまとめながら言った。
「三人が役割分担して、長年やってきた」
「少なくとも十五年は続いています」ロドリゲスは続けた。
「被害総額は、ワシの感覚では数十億単位になると思う」
根古は黙っていた。
しばらく窓の外を見ていた。
「吉村さんが最後に隠しとったもの」根古は静かに言った。
「書斎の引き出しに貼り付けてあって、誰かに持っていかれたもの」
「それが何なのか、わかりますか」フェルナンドが聞いた。
ロドリゲスは少し考えた。
「吉村さんは几帳面な人でした」ロドリゲスは続けた。
「長年の記録をつけていた。鑑定した品物、日付、依頼者、判定結果。全部手帳に書き留めていた」
「その手帳が消えた」根古が言った。
「おそらく」ロドリゲスは続けた。
「その手帳には、贋作と判定した記録が全部残っていた。誰の依頼で、いつ、何を鑑定したか。それが証拠になる」
「桑山が持っていった」フェルナンドは言った。
「あるいは桑山の手の者が」ロドリゲスは続けた。
「吉村さんが死んだ夜に、書斎に誰かが入った。根古さんがさっき言っていた、外の人間の気配というのは」
「そういうことや」根古は静かに言った。
三人は黙った。
しばらく沈黙が続いた。
やがてロドリゲスが言った。
「根古さん、実はもう一つあります」
「なんや」
「中川さんのことです」ロドリゲスは続けた。
「中川さんは死ぬ前に、データをどこかに送っていたという話が出てきました」
根古の目が細くなった。
「誰から聞いた」
「中川さんの友人です。同じ職場の元同僚の女性で、今朝連絡が来ました」ロドリゲスは続けた。
「中川さんが事故の三日前に、USBメモリを預けていたらしい」
「その友人は今どこにいますか」フェルナンドが聞いた。
「美濃市内です」ロドリゲスは言った。「会いに行けます」
根古はロドリゲスを見た。
「その友人、危なくないか」
ロドリゲスは少し間を置いた。
「わかりません」ロドリゲスは続けた。
「でも中川さんがUSBを預けたということは、万が一の時の保険のつもりやったと思う。その友人がそれを持っているということは」
「同じ危険にさらされる可能性がある」フェルナンドは言った。
「急ぐぞ」根古は言った。
エンジンをかけた。
カーラジオのJAZZが流れた。
今度はジョン・コルトレーンのサックスだった。
緊張感のある、鋭い音だった。
軽自動車は美濃市へ向かった。
ロドリゲスの車が後を続いた。
フェルナンドは助手席でノートを閉じた。
「根古さん」
「なんや」
「ロドリゲスさん、すごいですね」
根古は答えなかった。
しばらくして静かに言った。
「あの男はな」根古は続けた。
「表の顔と裏の顔を持っとる世界で、ずっとギリギリのところを歩いてきた」
「綱渡りですね」
「そうや」根古は続けた。「でも今日は違う」
「何が違うんですか」
根古はバックミラーでロドリゲスの車を見た。
「吉村さんのためやから」根古は静かに言った。
「綱渡りやない。真っ直ぐ歩いとる」
フェルナンドはバックミラーを見た。
ロドリゲスの車が、迷いなくついてきていた。
コルトレーンのサックスが続いていた。
鋭く、真っ直ぐな音だった。
美濃市の山並みが、窓の外に広がっていた。
中川の友人
美濃市内の古い住宅街。
中川里奈の友人、西山由美、二十七歳。
小さなアパートの二階に住んでいた。
ロドリゲスが事前に電話を入れていた。
インターフォンを押すと、すぐにドアが開いた。
小柄な女だった。
目が赤かった。
最近泣いていた目だった。
「ロドリゲスさんですか」
「はい、お電話した者です」ロドリゲスは続けた。
「一緒に来た根古さんと、フェルナンドさんです。信用できる人間です」
西山は根古を見た。
ヨレたTシャツ。ジャージ。無精ひげ。
少し不安そうな顔をした。
根古は何も言わなかった。
ただ、西山を見た。
深い川の底のような目で。
西山は何かを感じ取ったようだった。
「どうぞ」と言った。
狭いリビングだった。
テーブルに四人が座った。
西山はお茶を出した。
手が震えていた。
ロドリゲスが静かに言った。
「怖い思いをさせてすみません。里奈さんのことで、確認したいことがあって」
西山は頷いた。
「里奈から電話が来たのは、事故の三日前でした」西山は続けた。夜の十一時過ぎで、珍しい時間やと思いました」
「どんな様子でしたか」フェルナンドが聞いた。
「怖がっていました」西山は続けた。
「声が震えていた。でも頭は冷静やった」西山は続けた。
「里奈は言いました。もし自分に何かあったら、預けたものを警察に持って行ってくれと」
「USBメモリのことですね」ロドリゲスが言った。
西山は頷いた。
立ち上がった。
部屋の奥に入った。
戻ってきたとき、手に小さなUSBメモリを持っていた。
ピンク色の、小さなものだった。
里奈らしい色だった。
テーブルに置いた。
根古はそれを見た。
右手を、USBメモリにそっと触れた。
西山が少し驚いた顔をした。
ロドリゲスが小声で言った。
「大丈夫です。根古さんのやり方です」
西山は黙って見ていた。
根古は三十秒ほど触れていた。
離した。
「中川さんが、大切に持っとったもんや」根古は静かに言った。
「怖かったやろに、最後まで手放さんかった」
西山の目から、涙がこぼれた。
「里奈は怖がりやったんです」西山は続けた。
「でも正義感が強かった。おかしいことをおかしいと言える子やった」
根古は黙って聞いた。
フェルナンドがノートパソコンを取り出した。
「中身を確認していいですか」
西山は頷いた。
USBメモリを差し込んだ。
ファイルが並んだ。
フェルナンドは画面を見た。
エクセルのファイルが複数。
PDFが十数枚。
画像ファイルが大量にあった。
フェルナンドは最初のエクセルを開いた。
帳簿だった。
日付、品名、仕入れ値、売値、差額。
几帳面な記録だった。
しかし数字がおかしかった。
仕入れ値が異常に安い品物がある。
売値が異常に高い品物がある。
「これは」フェルナンドは言った。
「盗品の仕入れ記録と、贋作の販売記録が混在しとる」根古は静かに言った。
「わかるんですか」フェルナンドが聞いた。
「数字が語っとる」根古は続けた。
「盗んだものはタダに近い値段で仕入れとる。贋作は原価が安い。しかし売値は本物と同じ値段や」
ロドリゲスは画面を覗き込んだ。
「里奈はよくこれを持ち出せましたね」ロドリゲスは続けた。
「仕事中に、少しずつコピーしたんやろう」
「賢い子やったんですね」フェルナンドは言った。
次にPDFを開いた。
鑑定書だった。
吉村誠一の署名と印鑑がある。
しかし欄外に、手書きで小さく書いてあった。
「贋作」
「吉村さんが書き込んでいたんですね」フェルナンドは言った。
「本物の鑑定書に、本人が訂正を書き込んだということや」根古は静かに言った。
「これが証拠になる」
ロドリゲスは画面を見つめた。
「吉村さんと里奈さん、連携していたんですね」ロドリゲスは続けた。
「吉村さんが鑑定書のデータを里奈さんに送って、里奈さんが帳簿と合わせてUSBにまとめた」
「二人で作り上げた証拠や」根古は静かに言った。
次に画像ファイルを開いた。
美術品の写真だった。
本物と贋作を並べて撮影した写真が何十枚も続いていた。
一枚一枚に、日付とメモがついていた。
吉村の字だった。
「これがあれば」フェルナンドは言った。
「全部わかる」ロドリゲスは続けた。
「どの品物が、いつ、どこで、誰によって偽物とすり替えられたか。全部証明できる」
西山は画面を見ていた。
「里奈が命がけで集めたものですね」西山は静かに言った。
誰も答えなかった。
答えられなかった。
根古はUSBメモリを見た。
「西山さん」根古は言った。
「はい」
「今日からここにいたらあかん」根古は続けた。
「このUSBの存在を知っている人間が、桑山側にいる可能性がある」
西山は顔色が変わった。
「どこへ行けばいいですか」
根古は少し考えた。
「知り合いに、動物病院の院長がおる」根古は続けた。
「木下千恵という人間や。しばらくそちらに身を寄せてもらえるか」
「動物病院ですか」西山は戸惑った顔をした。
「人間もよく来る」根古は言った。「安全な場所や」
フェルナンドは思わず笑いそうになった。
こらえた。
西山は根古を見た。
「わかりました」西山は言った。「信用します」
根古は頷いた。
携帯電話を取り出した。
木下千恵に電話した。
「木下か。ワシや。一人預かってもらえるか。事情は後で話す」
電話を切った。
「準備しなさい」根古は西山に言った。「三十分以内に出る」
西山は立ち上がった。
部屋の奥へ向かった。
ロドリゲスは根古に小声で言った。
「根古さん、このUSBどうしますか」
「榊原と三枝に渡す」根古は言った。「コピーを取ってから」
「コピーはワシが持ちますか」
「お前が持て」根古は続けた。
「そしてお前のチャンネルの出番も、そろそろや」
ロドリゲスは根古を見た。
「どういうことですか」
根古は静かに言った。
「桑山は今、証拠を消そうと急いどる」根古は続けた。
「品物を処分して、記録を消して、逃げ切ろうとしとる。それを止めるには」
「先に世に出す」ロドリゲスは言った。
「そうや」根古は続けた。
「警察が動くより先に、業界に知らしめる。桑山が逃げる前に、逃げ場をなくす」
ロドリゲスは静かに頷いた。
「わかりました」ロドリゲスは言った。「準備します」
フェルナンドはノートを閉じた。
「根古さん、ロドリゲスさんのYouTubeを使う場合、タイミングが重要ですね」
「わかっとる」根古は言った。「榊原が動くのと同時や。一秒の差もなく」
「連携ということですか」
「そういうことや」
ヤマトが根古の足元に座った。
緑色の目で、根古を見上げた。
根古はヤマトを見下ろした。
「お前は西山さんと一緒に木下のところへ行け」根古は言った。
ヤマトは小さく鳴いた。
不服そうな声だった。
「文句言うな」根古は続けた。「守ったれ」
ヤマトはしばらく根古を見ていた。
やがて西山の部屋の方向を向いた。
歩いていった。
西山が荷物を持って戻ってきた。
足元に黒猫がいた。
「この猫は」西山は言った。
「護衛や」根古は言った。
西山は根古を見た。
根古は真剣な顔をしていた。
西山は黒猫を見た。
ヤマトは緑色の目で、西山を見上げた。
西山はしゃがんだ。
ヤマトの頭を撫でた。
「よろしくお願いします」西山は言った。
ヤマトは目を細めた。
三十分後、西山とヤマトは木下千恵の動物病院に向かった。
根古とフェルナンドとロドリゲスは、美濃市を出た。
軽自動車の中でロドリゲスが言った。
「根古さん、次は桑山本人に当たりますか」
「その前に」根古は言った。「物を見る」
「物?」
「桑山の店に、まだ残っとる品物がある」根古は続けた。
「触れれば、さらにわかることがある」
「店に入れますか」フェルナンドが聞いた。
ロドリゲスは少し考えた。
「桑山の店、ワシは顔が利きます」ロドリゲスは言った。
「客として入れます。根古さんたちは、ワシの連れという形で」
「できるか」根古が聞いた。
「任せてください」ロドリゲスは言った。
「これが本当の、ロドリゲス斎藤の仕事です」
根古は缶コーヒーを飲んだ。
「頼む」根古は静かに言った。
カーラジオのJAZZが流れていた。
マイルス・デイヴィスのトランペットだった。
静かな、しかし確信のある音だった。
岐阜市内へ向かう道に、夕方の光が差し込んでいた。
桑山古美術店
岐阜市内の老舗通りに、その店はあった。
桑山古美術
重厚な木の看板。格子窓。白い漆喰の壁。
四十年の歴史が、外観ににじみ出ていた。
いかにも信用できそうな店だった。
だからこそ、長年誰も疑わなかった。
ロドリゲスは店の前で根古とフェルナンドに言った。
「中では、ワシに任せてください」ロドリゲスは続けた。「根古さんは客のふりをしてください。品物を見て回るだけでいいです」
「わかった」
「フェルナンドさんはカメラを出さないでください。今日は下見です」
「わかりました」
ロドリゲスはスーツの襟を正した。
いつものカメラバッグではなく、今日は革のビジネスバッグを持っていた。
準備していた。
根古を見た。
「根古さん、服は」
根古はヨレたTシャツとジャージだった。
ロドリゲスはため息をついた。
「まあ、ええか」ロドリゲスは続けた。
「根古さんはワシのお得意様の知り合いという設定で行きます」
「設定とか面倒やな」根古は言った。
「少しだけ我慢してください」
扉を押した。
店内は静かだった。
照明が落ち着いていた。
ショーケースに美術品が並んでいる。
掛け軸、陶器、刀剣、漆器。
一点一点が、丁寧に配置されていた。
奥から店員が出てきた。
六十代の男だった。
ロドリゲスを見て、顔が明るくなった。
「ロドリゲスさん、久しぶりやないですか」
「ご無沙汰しています」ロドリゲスは笑顔で言った。
「今日は知り合いを連れてきました。骨董に興味があるという方で」
店員は根古を見た。
ヨレたTシャツ。ジャージ。
一瞬、困惑した顔をした。
しかしロドリゲスの連れということで、愛想よく言った。
「ごゆっくりご覧ください」
「桑山さんはいらっしゃいますか」ロドリゲスは続けた。「ご挨拶したくて」
「奥におります。お呼びしますか」
「お願いします」
店員が奥に引っ込んだ。
根古はゆっくりと店内を歩き始めた。
ショーケースの前に立った。
陶器を見た。
右手をガラスにそっと触れた。
フェルナンドはその様子を見ながら、自然に歩き回っているふりをした。
根古は次のショーケースに移った。
掛け軸の前に立った。
右手をフレームの端に触れた。
一秒。
二秒。
根古の目が、わずかに細くなった。
次に移った。
刀剣のケースの前に立った。
右手を触れた。
今度は少し長かった。
五秒。
根古は手を離した。
フェルナンドに近づいた。
小声で言った。
「この店の品物、三割は偽物や」
フェルナンドは表情を変えないようにしながら、小声で返した。
「確信できますか」
「できる」根古は続けた。
「偽物には作られたときの記憶しか残っとらん。本物には何十年、何百年の記憶が重なっとる。全然違う」
「他には」
「盗品も混じっとる」根古は静かに言った。
「持ち主の記憶が残っとる品物がある。大切にされていた記憶が。それが突然途切れとる」
フェルナンドはノートに書きたかった。
こらえた。
奥から人が出てきた。
七十歳。白髪。背筋が伸びている。
品のある顔をしていた。
しかし目が、冷たかった。
笑っているのに、目だけが笑っていない。
桑山重蔵だった。
「ロドリゲスさん、久しぶりやな」桑山は言った。
「今日はどういう風の吹き回しや」
「ええ品物が入ったと聞きまして」ロドリゲスは笑顔で言った。
「こちらの方に見ていただきたくて」
桑山は根古を見た。
値踏みする目だった。
「どちらのお知り合いですか」
「大阪の、目の肥えた方です」ロドリゲスは続けた。
「骨董には一家言ある方でして」
桑山は根古を見た。
根古は桑山を見ていた。
ただ、見ていた。
深い川の底のような目で。
桑山の表情が、わずかに変わった。
何かを感じ取ったような顔だった。
しかしすぐに愛想よい顔に戻った。
「ゆっくり見ていってください」桑山は言った。
「何かご質問があれば」
「一つだけ聞いていいですか」根古が静かに言った。
桑山が根古を見た。
「なんでしょう」
「この店で一番古い品物はどれですか」
桑山は少し間を置いた。
「奥に、平安時代の経筒があります」桑山は言った。
「ご覧になりますか」
「お願いします」
桑山は奥に案内した。
奥の部屋は、表より暗かった。
照明を落とした棚に、選ばれた品物だけが並んでいた。
桑山が経筒を出した。
古い金属の筒だった。
「平安時代のものです」桑山は言った。「鑑定書もついています」
根古は経筒を見た。
桑山に手袋を渡された。
根古は手袋をはめた。
経筒を両手で持った。
右手で、そっと触れるように持った。
部屋が静かになった。
桑山はロドリゲスと話していた。
フェルナンドは壁際に立っていた。
根古は経筒を持ったまま、目を閉じた。
三十秒。
一分。
根古の表情が、静かに変わった。
険しくはなかった。
ただ、深くなった。
何かを受け取っていた。
二分が過ぎた。
根古は目を開けた。
経筒を丁寧に桑山に返した。
「本物ですね」根古は静かに言った。
桑山は少し意外そうな顔をした。
「わかりますか」
「わかります」根古は続けた。
「千年の記憶が残っとる。大切にされてきた品物です」根古は桑山を見た。
「どこで手に入れましたか」
「奈良の旧家からです」桑山は言った。「正規のルートで」
根古は桑山を見た。
一秒。
「そうですか」根古は言った。
それだけだった。
しかし桑山の目が、一瞬揺れた。
根古に何かを見透かされたような、そんな顔だった。
店を出たのは、三十分後だった。
表通りに出て、三人は歩き始めた。
角を曲がったところで、ロドリゲスが小声で言った。
「根古さん、大丈夫でしたか」
「大丈夫や」根古は缶コーヒーを取り出した。
「ジャージのポケットは便利やな」
フェルナンドは思わず笑った。
「桑山はどうでしたか」フェルナンドが聞いた。
根古はコーヒーを一口飲んだ。
「あの男は」根古は静かに言った。「本物と偽物の違いがわかっとる」
「わかっていて、偽物を売っていた」ロドリゲスが言った。
「そうや」根古は続けた。「しかも」
「しかも?」
「あの経筒、本物やけど」根古は静かに言った。
「盗品や」
ロドリゲスの顔が険しくなった。
「奈良の旧家からと言っていましたが」フェルナンドが言った。
「嘘や」根古は続けた。「あの経筒には、持ち主が泣いとる記憶が残っとる。
ある夜、突然なくなった記憶が」
「証明できますか」フェルナンドが聞いた。
「USBの中に写真があったやろ」根古は言った。「あの中に、同じ経筒があったはずや」
フェルナンドはノートパソコンを取り出した。
画像ファイルを開いた。
スクロールした。
「ありました」フェルナンドは言った。
「同じ経筒の写真が。吉村さんのメモがついています。奈良県の寺院から盗難、二年前と書いてあります」
ロドリゲスは画面を見た。
「完璧な証拠や」ロドリゲスは静かに言った。
根古は空を見た。
曇り空だった。
梅雨の空だった。
「ロドリゲス」根古は言った。
「はい」
「準備はできとるか」
ロドリゲスはスマートフォンを取り出した。
「できています」ロドリゲスは言った。「あとはタイミングだけです」
「榊原に連絡する」根古は携帯電話を取り出した。
「今夜動いてもらう」
「YouTubeは」ロドリゲスが聞いた。
「警察が桑山の店に入ったと同時に配信開始や」根古は続けた。「一秒の差もなく」
ロドリゲスは頷いた。
深く、確信のある頷き方だった。
「吉村さん」ロドリゲスは小声で言った。
「里奈さん、見ていてください」
誰も聞いていなかった。
しかしフェルナンドは聞いていた。
根古も聞いていた。
根古は榊原に電話した。
「榊原か。ワシや。今夜動いてもらえるか。準備ができた」
短い会話だった。
電話を切った。
「今夜十時や」根古は言った。
「わかりました」ロドリゲスは言った。
三人は歩き続けた。
岐阜市内の古い通りを。
夕方の光が、老舗の看板を照らしていた。
桑山古美術の看板も、その光を受けていた。
しかし今夜が、最後の夕方だった。
今夜
夜の九時半。
ラクカに人が集まっていた。
榊原、雨月、山本。
三枝が愛知県警の刑事二人を連れてきた。
江戸川が隅で待機していた。
根古はカウンターでコーヒーを飲んでいた。
ロドリゲスはスマートフォンとタブレットを並べてセッティングしていた。
フェルナンドはカメラの最終確認をしていた。
太田マスターは黙ってコーヒーを出し続けた。
ヤマトは木下千恵の動物病院にいた。
西山由美の護衛として。
榊原が全員を見回した。
「確認する」榊原は言った。「今夜の動きや」
全員が静かになった。
「十時ちょうどに、岐阜市内の桑山古美術と、大阪の梅田オークションハウスと、東京の柿沼アートに同時に家宅捜索が入る」榊原は続けた。
「岐阜は岐阜県警、大阪は大阪府警、東京は警視庁が動く。三者同時や」
「三者同時でないと」雨月が言った。
「そうや」榊原は続けた。
「一か所でも先に動いたら、残りが証拠を隠す。同時でなければ意味がない」
三枝が言った。
「愛知県警は篠田の案件で別途動きます。小牧署長代理の余罪として、桑山との繋がりも捜査対象に入れています」
「完璧な包囲網やな」江戸川が言った。
「完璧やないかもしれん」根古は缶コーヒーを飲みながら言った。「でも十分や」
全員が根古を見た。
根古は窓の外を見ていた。
「吉村さんと中川さんが命がけで集めた証拠がある」根古は静かに言った。
「それで十分や」
誰も反論しなかった。
九時五十分。
ロドリゲスがライブ配信の準備を整えた。
カメラをセットした。
照明を調整した。
スマートフォンで配信画面を確認した。
フェルナンドが近づいた。
「緊張しますか」
「しません」ロドリゲスは言った。
「二十年、この業界で生きてきた。やるべきことをやるだけです」
「何を話すんですか」
「全部です」ロドリゲスは続けた。
「業界の裏側を全部。名前も、金額も、手口も。視聴者二十万人に向けて、全部話します」
「業界から干されますね」フェルナンドは言った。
「もう干されてもええです」ロドリゲスは静かに言った。
「吉村さんに教えてもらったことを、ちゃんと返さなあかん」
フェルナンドはロドリゲスを見た。
陽気なバイヤー兼YouTuberの顔ではなかった。
一人の人間の顔だった。
九時五十八分。
榊原が携帯電話を手に持った。
大阪府警との確認。
「準備完了」
警視庁との確認。
「準備完了」
岐阜県警現場との確認。
「準備完了」
榊原は根古を見た。
根古は缶コーヒーを持ったまま、頷いた。
ロドリゲスはスマートフォンの画面を見た。
配信開始ボタンの前で待っていた。
ラクカの全員が、時計を見た。
九時五十九分。
誰も喋らなかった。
JAZZも流れていなかった。
太田マスターが静かに立っていた。
十秒前。
五秒前。
三秒。
二秒。
一秒。
十時ちょうど。
榊原が無線で言った。
「全部署、動け」
同時に、ロドリゲスが配信開始ボタンを押した。
ロドリゲス、炸裂
カメラのランプが赤くなった。
ロドリゲスはカメラに向かった。
いつもの陽気な顔ではなかった。
静かな、しかし確信のある顔だった。
「皆さん、ロドリゲス斎藤です」
視聴者数が増え始めた。
百人。
五百人。
千人。
「今夜は、いつもと違う話をします」ロドリゲスは続けた。
「骨董業界の、誰も言えなかった話です」
二千人。
五千人。
「今この瞬間、岐阜、大阪、東京で警察が動いています」ロドリゲスは続けた。
「骨董業界に長年巣食ってきた、贋作と盗品のネットワークが、今夜終わります」
一万人。
コメントが流れ始めた。
「え、マジ?」「どういうこと」「ロドリゲスさん大丈夫?」
ロドリゲスは続けた。
「岐阜市内の桑山古美術。店主の桑山重蔵、七十歳」ロドリゲスは言った。
「この人物が、長年にわたって贋作を本物として販売し、盗品を正規品として流通させてきました」
コメントが爆発した。
視聴者数が跳ね上がった。
二万人。
三万人。
「大阪の梅田オークションハウス。東京の柿沼アート。この三者が役割分担して、被害総額数十億円に及ぶ詐欺を続けてきました」ロドリゲスは続けた。
「私はこの業界で二十年、バイヤーとして活動してきました。知っていました。ずっと知っていながら、言えなかった」
ロドリゲスは一呼吸置いた。
「でも今夜、言います」
五万人。
「私の師匠とも言える鑑定士の吉村誠一さんが、先週亡くなりました」ロドリゲスは続けた。
「心臓発作と発表されていますが、不自然な点があります。吉村さんはこのネットワークの告発を準備していた。その矢先でした」
コメントが止まらなかった。
「古物商の従業員だった中川里奈さんも、先週交通事故で亡くなりました。二十八歳でした。中川さんも吉村さんと連携して、証拠を集めていました」
ロドリゲスの声が、わずかに揺れた。
しかし続けた。
「二人が命がけで集めた証拠が、今夜警察に渡されました。帳簿、偽造鑑定書、盗品と本物を並べた写真。全部揃っています」
視聴者数が十万を超えた。
「私はこれを世に出す義務があります」ロドリゲスは続けた。
「吉村さんに、骨董の見方を教えてもらった人間として。中川さんの勇気を、無駄にしないために」
コメント欄が流れ続けた。
「信じられない」「業界やばい」「ロドリゲスさん大丈夫か」「警察ちゃんと動いてるの?」
ロドリゲスは続けた。
「今夜で終わります。この業界の闇の一つが」ロドリゲスは続けた。
「本物の美術品を愛する人間が、偽物を掴まされることのない世界に、少しだけ近づきます」
ラクカのカウンターで、フェルナンドはロドリゲスの配信を見ていた。
視聴者数を見た。
十二万人。
「すごいですね」フェルナンドは言った。
太田マスターが静かに言った。
「本気の人間の言葉は、届くもんや」
根古は缶コーヒーを飲んでいた。
窓の外を見ていた。
携帯電話が鳴った。
雨月からだった。
「根古さん、桑山を確保しました」
「そうか」
「桑山は最初、否認しました。でも家宅捜索で出てきた量が多すぎた。
今は黙秘しています」
「大阪と東京は」
「同時に確保です。三者ともです」
「ご苦労さん」根古は言った。
電話を切った。
榊原を見た。
「終わったな」根古は静かに言った。
榊原は頷いた。
「根古さんのおかげや」
「たまたまや」
榊原は苦笑いした。
三枝が根古に近づいた。
「根古さん」三枝は言った。
「なんや」
「篠田も、喜んどると思います」三枝は続けた。
「桑山と小牧署長代理の繋がりも、今夜全部出てきます」
根古は答えなかった。
窓の外を見た。
夜の空を見た。
星は見えなかった。
梅雨の厚い雲だった。
しかし根古は、しばらく空を見ていた。
ロドリゲスの配信は、一時間続いた。
視聴者数は最終的に二十万人を超えた。
チャンネル登録者数と同じだけの人間が、リアルタイムで見た。
業界関係者も見ていた。
メディアも見ていた。
翌朝には、全国ニュースになっていた。
配信が終わったとき、ロドリゲスはカメラのランプが消えるのを確認した。
大きく息を吐いた。
椅子にもたれた。
フェルナンドが近づいた。
「お疲れ様でした」
「疲れました」ロドリゲスは言った。「生まれて初めて、本当に疲れました」
「よかったですか」
ロドリゲスはしばらく天井を見た。
「吉村さんに怒られるかもしれません」ロドリゲスは続けた。「もっと上手くやれと」
「そんなことないと思います」フェルナンドは言った。
「そうやといいですが」ロドリゲスは根古を見た。「根古さん、吉村さんは」
根古は缶コーヒーを持ったまま、静かに言った。
「おった」
「どこに」
「ここに」根古は続けた。「配信の間、ずっとここにおった」
ロドリゲスは目を閉じた。
しばらくそのままでいた。
やがて小さく言った。
「よかった」
深夜になった。
ラクカに残ったのは、根古と太田マスターとフェルナンドだった。
いつもの三人だった。
太田マスターがコーヒーを出した。
JAZZが流れ始めた。
ビル・エヴァンスのピアノだった。
静かな夜の音だった。
フェルナンドはコーヒーを飲んだ。
「根古さん」
「なんや」
「吉村さんは、もう行きましたか」
根古はしばらく黙っていた。
コーヒーカップを両手で包んだ。
「ロドリゲスが配信を終えたとき」根古は静かに言った。「行った」
「満足して、ですか」
「うん」根古は続けた。「ロドリゲスの背中を見て、笑っとった」
フェルナンドは目が熱くなった。
こらえた。
「中川さんは」
「里奈さんも一緒や」根古は静かに言った。「二人で行った」
ラクカに静けさが戻った。
ビル・エヴァンスのピアノが続いていた。
深い、穏やかな音だった。
窓の外の夜空を、雲が少しずつ動いていた。
雲の切れ間に、星が見えた。
一つ。
二つ。
三つ。
根古は窓の外を見ていた。
何も言わなかった。
ただ、星を見ていた。
太田マスターが静かに言った。
「ええ夜やな」
根古は答えなかった。
コーヒーを一口飲んだ。
それだけだった。
翌朝、木下千恵の動物病院からヤマトが戻ってきた。
西山由美が連れてきた。
西山は根古に深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「たまたまや」根古は言った。
西山は少し笑った。
疲れた笑いだったが、今度は温かかった。
「里奈が守ってくれたんですね」西山は続けた。「最後まで」
根古は答えなかった。
ヤマトが根古の膝に飛び乗った。
丸まった。
目を細めた。
根古はヤマトを撫でた。
ラクカに朝の光が差し込んでいた。
梅雨の晴れ間の光だった。
柔らかく、静かな光だった。




