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猫の健康診断

 キャリーバッグを出すと、ヤマトが駆けてきた。

 においを嗅いで、くるりと一周して、さっさと中に入る。

そのまま丸くなって、こちらを見上げた。

早く行こう、とでも言いたげな顔だ。

「待て待て、まだ準備中だ」

黒猫というのはなぜこうも表情が読めないのか。

金色の目が、じっとこちらを見ている。

急かされている気がするのは気のせいではないだろう。

 チャックを閉めて玄関を出る。軽自動車の助手席にキャリーを置くと、

ヤマトはすぐに窓の方を向いた。外の景色が好きなのだ。

信号待ちのたびに、通行人が二度見していく。

キャリーの中の黒猫が、堂々と外を眺めているから。

 今日は木下動物病院の健康診断。ヤマトにとっては、ちょっとしたお出かけである。

ヤマトは道中ずっと無言だった。

唸りもせず、鳴きもせず、ただキャリーの網越しに外を眺めている。

交差点を曲がるたびに体勢を立て直し、また窓の方を向く。

まったく手がかからない。


 駐車場に入ると、ヤマトが初めて小さく鳴いた。

 着いたのがわかるのか。それとも病院のにおいがするのか。

どちらにしても、この猫の勘はあなどれない。


 キャリーを抱えて引き戸を開けると、

待合室に消毒液と獣のにおいが混ざった、独特の空気が漂っていた。

先客は柴犬を連れた老夫婦がひと組。

柴犬がヤマトのキャリーに鼻を近づけようとして、老夫婦に引き戻された。

ヤマトは動じない。金色の目で柴犬を一瞥して、それだけだった。

「ヤマトちゃん、どうぞ」

 受付の声に立ち上がる。診察室の扉が開いて、白衣の木下千恵が顔を出した。

木下千恵は、動物に対してと人間に対してとで、明らかに態度が違う。

 キャリーからヤマトを出した瞬間、声のトーンが変わった。

「あらヤマトくん、久しぶりねえ。大きくなった?」

 ヤマトは診察台の上で背筋を伸ばし、院長に顔を向けた。

撫でられるのを待っている。


「相変わらず堂々としてるわねこの子」

 聴診器を当てながら、木下院長はヤマトに話しかけ続ける。

こちらへの質問は最低限だ。体重は、食欲は、便の状態は。

必要なことだけ聞いて、あとはヤマトと会話している。

 まあ、それでいい。


 触診、採血、体重測定。ヤマトは一度も暴れなかった。

採血の針が刺さった瞬間だけ、耳をぴくりと動かした。それだけだ。

「優秀ねえ」と木下院長が言った。こちらには一度も使わない言葉だと思った。


 結果は概ね良好。少し体重が増えたこと、歯石が気になり始めていること。

「飼い主さん、おやつあげすぎてませんか」

 やっとこちらを見た、と思ったら、それだった。

帰り道、ヤマトはまた窓の外を眺めていた。

 健康診断を終えたというのに、まるで散歩から帰ってきたような顔だ。

達成感も疲労感も、どこにもない。

強いて言えば、少し満足そうに見える。


 信号で止まった。

 おやつのやりすぎ、か。

確かに夜中に鳴かれると、つい出してしまう。

向こうもそれをわかっていて鳴いているのだから、飼い主としての格は完全に下だ。

 青になって、アクセルを踏む。


「お前、太ったって言われたぞ」

 ヤマトは振り向かなかった。

窓の外に、何か面白いものでも見えるのか。

耳だけがこちらに向いている。聞こえてはいるらしい。

 まあ、いい。

 家に帰ったら、お湯を沸かして、お茶でも飲もう。


ヤマトは炬燵で丸くなるだろう。それだけのことだが、それで十分だという気もした。

 駐車場に車を入れる。エンジンを切ると、ヤマトがやっと鳴いた。一声だけ、短く。

 お疲れ、と言ったのかもしれないし、早く開けろと言ったのかもしれない。

 たぶん、後者だろう。

 玄関を入ったところで、スマホが鳴った。

 画面を見る。登録していない番号だ。

一瞬無視しようかと思ったが、ヤマトをキャリーから出しながら、耳に当てた。

「もしもし」

「榊原です。県警の」

 ヤマトが炬燵に直行するのを目で追いながら、少し考えた。

榊原。榊原友蔵。確か、去年の??

「覚えてますか」

「覚えてます」

 覚えていたくはなかったが、覚えている。

低くて、?妙に落ち着いた声だ。五十五歳、県警警部。

こちらの事情を、いくつか知っている人間。


「少し、お力を借りたいことがありまして」

 お力、という言葉の重さを、この人はわかって使っている。

ぼかした言い方だが、意味は明白だ。


いわゆる、普通の捜査ではどうにもならない案件、ということだ。

「今、いいですか」

 炬燵の上のヤマトが、こちらを見た。

金色の目が、何かを言っている気がした。

「……どんな話ですか」


 お湯を沸かすのは、後になりそうだった。

榊原警部の話は、簡潔だった。

 三日前、山中で遺体が発見された。身元はすでに判明している。

四十代の男性、地元の会社員。死因は転落死、と所轄はみている。

現場は山道の脇、柵のない崖沿いだ。

足を踏み外した、あるいは自ら、という線で捜査は進んでいる。

「それのどこが」

「目撃者がいます」

 榊原の声が、少し低くなった。

「現場近くで、男を見たという老人がいる。

ただ??その男の特徴が、死亡した本人とほぼ一致している」

 死んだはずの人間が、現場をうろついていた。

 そういうことだ。


「所轄は取り合わなかった」

「老人の見間違いだろう、と」

「榊原さんは?」

 少し間があった。

「老人は猟師です。

七十二歳ですが、目は確かだと評判でいてね。

三十年、あの山に入っている人間が、人を見間違えるとは思えない」


 ヤマトが炬燵から降りてきて、足元に座った。じっとこちらを見上げている。

「……場所はどこですか」



 翌朝、早めに家を出た。

 ヤマトに餌をやり、水を替えて、炬燵のスイッチを切る。出かけるとわかると、

ヤマトは玄関までついてきた。

キャリーがないので、お出かけではないとわかるのだろう。

座って、こちらを見ている。

「夕方には戻る」

 金色の目が、じっとこちらを見ていた。

 信じてないな、と思った。


 榊原に指定された場所は、車で一時間ほどの山あいの町だった。

ナビを頼りに細い県道を走っていくと、

コンビニの駐車場に黒いセダンが一台止まっていた。

 隣に軽自動車を止めると、セダンから大柄な男が降りてきた。


グレーのコートに無精髭。五十代には見えない、妙に存在感のある体格だ。

「遠いところをすみません」

「いえ」

 榊原友蔵は、頭を下げた。

警部という肩書きの人間が、こちらに頭を下げる。


それだけで、今回の話がどういう性質のものか、改めてわかる気がした。

「現場を見ますか」

「その前に」

 榊原が少し眉を上げた。

「遺体の、持ち物はありますか」

榊原は少し黙った。

 値踏みするような間ではない。

どこまで話すか、整理しているような間だ。


「あります」

「触れますか」

「……準備してきます」

 榊原がセダンに戻った。


助手席から、チャック付きの透明な袋を持ってきた。

中に、財布と、スマホと、鍵が一つ。ごく普通の、男の持ち物だ。

「手袋はしなくていいですか」

「結構です」

 榊原が、微妙な顔をした。

慣れていない人間は、大抵そういう顔をする。

 袋から財布を取り出した。革製、くたびれた茶色。右手で包むように持つ。

 目を閉じる。


 最初は何もない。いつもそうだ。

焦らず、待つ。体調は、今日は悪くない。


昨日よく眠れた。

ヤマトが珍しく足元で寝ていた。そのせいかもしれない。

 ざわり、と何かが来た。

 男の輪郭。急いでいる。山道を歩いている。


夕方、光が傾いている。誰かと、話している??

 ぷつり、と切れた。

「……誰かいました」

 榊原が、息を呑む気配がした。

「現場で。彼は一人じゃなかった」


榊原はしばらく何も言わなかった。

 コンビニの駐車場に、トラックが一台入ってきた。

エンジン音が響いて、また静かになる。

「もう少し、わかりますか」

「わかりません。今日は、ここまでです」

 嘘ではない。無理に続けようとすると、頭の奥が痛くなる。

それ以上は何も来ない。体がそういう仕組みになっている。

「そうですか」

 榊原は、それ以上聞かなかった。そこは助かる。


根掘り葉掘り聞いてくる人間と、そうでない人間がいる。

この警部は後者だ。

だから、多少は話ができる。

「現場を見ますか」

「行きます」


 榊原のセダンの後を、軽自動車でついていった。

県道から山道に入ると、舗装が途切れた。

砂利道を十分ほど走ったところで、車を止めた。

 外に出ると、空気が違った。湿っていて、冷たくて、木のにおいがする。

山の中の空気だ。嫌いではない。


 黄色いテープが、まだ残っていた。

 榊原が無言で先を歩く。

その後をついていきながら、崖の下を見た。

かなりの高さだ。

「ここです」

 足元の土を見た。何かが、ある。

 右手が、じわりと熱くなった。


 いつもの感覚だ。呼ばれている、というより、滲み出てくる、という方が近い。


死んだ場所には、何かが残る。

濃さはまちまちだが、ここは濃い。

三日しか経っていないせいか、それともそういう死に方だったせいか。

 榊原が、少し離れたところで立っていた。こちらを見ているが、何も言わない。

 目を閉じる。

 男が見えた。四十代、中肉中背。さっき財布から見たのと同じ輪郭だ。

夕方の光の中で、誰かと向かい合っている。

言い争っているのか、それとも??


 もう一人の顔が、見えそうで見えない。

 風が吹いた。木々が揺れる音がした。

 ぶつり、と切れた。

 目を開けると、頭の奥に鈍い痛みがあった。

今日はここまでだ。体が言っている。


「相手がいます」

 榊原がゆっくり近づいてきた。

「顔は」

「見えませんでした」

「男ですか、女ですか」


 目を閉じて、もう一度探る。残滓のようなものを、手繰り寄せる。

「……男だと思います。たぶん」

 榊原が、手帳に何か書いた。


「ありがとうございます」

 頭痛が、少し強くなった。帰りの運転が、少し心配だった。


榊原に缶コーヒーを渡された。

 無言で受け取って、プルタブを開ける。

甘い。普段は飲まない味だが、今は悪くない。

血糖値が下がっているのかもしれない。


「いつも、こうなりますか」

 榊原が、自分の缶コーヒーを持ったまま聞いた。

「体調次第です」

「今日は」

「まあまあでした。もう少し眠れていれば、もう少し見えたかもしれない」

 榊原は頷いた。メカニズムを理解しようとするのではなく、ただ事実として受け取る。


この警部はそういう人間だ。だから、多少は話ができる。

「所轄には」

「言っていません。私個人として動いています」

「安藤警部補も?」

 榊原が、少し目を細めた。

「なぜ安藤を」


「名前が出てきました。さっき」

 財布を触ったときだ。男の記憶の断片の中に、その名前があった。

被害者と安藤警部補の間に、何かがある。それが何かまでは、わからなかったが。

 榊原が、しばらく黙った。缶コーヒーを一口飲んで、山の方を見た。

「安藤は、被害者と同じ地元の出身です」


「知り合いですか」

「幼馴染だったと、聞いています」

 風が、また吹いた。

帰り道、頭痛は峠を越えていた。


 山道を抜けて県道に出たところで、少し楽になった。

体が、平地に戻ったことを理解したのかもしれない。ヒーターを少し上げて、ゆっくり走る。


 安藤修、幼馴染。

 それだけで何かを断定するつもりはない。幼馴染が死んで、捜査に関わっている。

それだけのことかもしれない。ただ、財布から出てきた断片の中に、その名前があった。それは事実だ。

 ナビが、国道への合流を告げた。

 スマホが鳴った。榊原かと思ったが、画面には知らない番号が出ていた。

少し迷って、ハンズフリーで取る。

「はい」

「あの、突然すみません」

 女の声だった。若い。少し緊張している。

「木下動物病院の、受付の者ですが」

 動物病院。今朝、ヤマトを連れて行ったところだ。

「ヤマトちゃんの飼い主さんですよね。先ほど院長から言付かりまして」

「木下先生から」

「はい。今日いらしたとき、先生が何か気になることがあったようで。

もしよろしければ、もう一度来ていただけないかと」


 ヤマトの健康診断に、何か問題があったのか。それとも??

「先生は今いますか」

「おります。今日は六時まで診療です」

 時計を見た。四時十分。国道を飛ばせば、間に合う。

「わかりました。向かいます」

動物病院の駐車場に滑り込んだのは、五時四十分だった。


 引き戸を開けると、待合室はもう空だった。

受付の若い女性が立ち上がって、奥に声をかけた。

しばらくして、白衣の木下千恵が出てきた。

 午前中とは少し顔が違った。

「わざわざすみません。あの、ヤマトくんは大丈夫です。健康の話ではなくて」

「わかっています」


 木下院長が、少し目を丸くした。

「どうぞ」と言って、診察室に通された。

ヤマトがいない診察室は、少し広く感じる。

 院長は診察台に寄りかかって、腕を組んだ。

「単刀直入に言います。変なことを言うと思われるかもしれませんが」

「構いません」

「今朝、ヤマトくんを診ているときに??」院長が少し間を置いた。

「診察室の隅に、人が立っていました」

 白衣の袖を、指先でつまんでいる。

「男の人でした。四十代くらい。こちらを見ていました。

私が気づいたら、すっと消えて」


 木下千恵は、まっすぐこちらを見た。

「あなたなら、話が通じると思いました。

ヤマトくんがそういう人のところの猫だと、なんとなくわかりましたから」

 猫には、わかるらしい。


被害者の写真を、榊原から送ってもらった。

スマホの画面を、木下院長に向ける。

院長の顔色が、変わった。

「この人です」

 声が、少し掠れていた。

「間違いないですか」

「はい」院長が、スマホから目を逸らした。

「はっきり見えました。だから余計に、怖くて」

 診察室に、しばらく沈黙が落ちた。滅菌器の低い音だけが、続いている。

「何か、言いましたか。その人」

「言葉は、なかったです」院長が首を振った。

「ただ、こちらを見ていました。助けを求めているような、

それとも何かを伝えようとしているような」

 表情は、わかりましたか。

 そう聞こうとして、やめた。思い出させることもない。

「ありがとうございます。榊原に伝えます」

「警察の方ですか、あなたは」

「違います」


 院長が、また少し目を丸くした。


それ以上は聞かなかった。この人も、そういう人間らしい。

 立ち上がって、診察室を出る。待合室を抜けて、

引き戸に手をかけたところで、院長が後ろから言った。

「ヤマトくんに、よろしく」

振り返らずに、頷いた。


駐車場に出たところで、榊原に電話した。

 二コールで出た。

「木下動物病院の院長が、被害者を見ています」

 短い沈黙。

「見た、というのは」

「文字通りの意味です。今朝、診察室に現れた。写真で確認しました。

間違いないと言っています」


 また沈黙。榊原は、こういうとき余計なことを言わない。

処理している。受け入れるかどうかではなく、どう使うかを考えている。

それがわかるから、話ができる。


「院長の名前と連絡先を教えてもらえますか」

「木下千恵。番号は病院に電話すれば繋がります」

「わかりました」

 電話を切った。


 軽自動車に乗り込む。ヒーターをつけて、少し息をついた。

フロントガラスの向こうに、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。もう夕方だ。

 ヤマトが、腹を空かせて待っているだろう。

 エンジンをかけたところで、助手席のシートに目がいった。

 朝、ヤマトのキャリーを置いた場所だ。

 なんとなく、今夜はヤマトが足元で寝る気がした。

あの猫は、こちらが疲れているとき、決まって近くにいる。

 国道に出て、家へ向かった。


家に帰ると、ヤマトが玄関で待っていた。

 炬燵にいるかと思ったが、玄関の前にきちんと座って、こちらを見ていた。

出迎え、というより、監視に近い顔だ。


「ただいま」

 ヤマトが立ち上がって、台所の方に歩いていった。

飯はまだか、ということらしい。


 コートを脱いで、手を洗って、キャットフードの缶を開ける。

ヤマトは皿の前で待機していた。置いた瞬間に食べ始める。

今日は特別腹が空いていたのか、勢いがいい。

「お前のせいで、色々あったぞ」

 返事はない。食べることに集中している。


 お湯を沸かして、急須に茶葉を入れた。朝から飲めなかったお茶だ。

湯呑みに注ぐと、湯気がゆっくり立ち上った。


 炬燵に入って、一口飲む。

 温かい。それだけで、少し体が戻る気がした。


 今日一日を、頭の中で整理した。山の現場、

財布から見えたもの、安藤の名前、木下院長が見た男。

点がいくつかある。まだ線にはなっていない。


 ヤマトが食べ終わって、炬燵に入ってきた。膝の上に乗って、丸くなる。

 重い。少し太った、という木下院長の言葉は、正しかったかもしれない。

 でも、今夜は降ろせなかった。


 夜中に、スマホが鳴った。


 時計を見ると、二時過ぎだった。ヤマトが足元で寝ていて、起き上がるのに少し手間取った。

 画面には、榊原の名前があった。

 この時間に電話してくる人間ではない、という印象だった。出た。

「起こしてすみません」

「何かありましたか」

「安藤が、病院に運ばれました」

 眠気が、すっと引いた。


「どういうことですか」

「自宅マンションの階段から落ちました。

本人は足を滑らせたと言っていますが」榊原の声が、いつもより低かった。

「現場を見た署員が、様子がおかしいと言っていて」

「怪我の程度は」

「肋骨二本と、右腕。命に別状はありません」

 安藤修、幼馴染。財布の中にあった名前。被害者が死んだ場所と、同じ構図だ。転落。

「榊原さん」

「はい」

「安藤警部補は、何かを知っている」

 電話の向こうで、榊原が息をついた。

「そう思っています」

「会えますか、本人に」

「今夜は無理です。明日、病院に行くつもりです」

「一緒に行きます」

 今度は、少し長い沈黙だった。

「……わかりました」

 電話を切った。ヤマトが起き上がって、こちらを見ていた。

暗い部屋の中で、金色の目だけが光っている。


「寝ろ」

 ヤマトは一度だけ鳴いて、また丸くなった。


翌朝、榊原から病院の名前と部屋番号が送られてきた。

 ヤマトに餌をやりながら、地図を確認する。市内の総合病院だ。車で二十分ほど。

「今日も留守番だ」

 ヤマトは皿から顔を上げなかった。昨夜のことなど、もう忘れているような顔だ。

 約束の時間より少し早く病院に着いた。

駐車場で榊原のセダンを見つけて、隣に止める。


榊原はすでに車の外に立っていた。

「おはようございます」

「お早いですね」

「眠れなかったもので」


榊原の目の下に、うっすら隈があった。この警部なりに、昨夜は色々考えたのだろう。

 エレベーターで四階に上がる。廊下を歩きながら、榊原が低い声で言った。

「安藤には、私の知り合いとして紹介します。詳しいことは話していません」

「わかりました」


「ただ」榊原が、立ち止まった。「安藤は勘のいい男です。何かを感じるかもしれない」

「感じても、構いません」


 榊原が、少し意外そうな顔をした。それから、小さく頷いた。

 六号室のドアをノックする。

「どうぞ」

 くぐもった声がした。榊原がドアを開けた。

 ベッドの上に、右腕を固定された男が半身を起こしていた。

三十六歳、安藤修。思ったより、若い顔をしていた。

そして、思ったより、怯えた目をしていた。

榊原が簡単に紹介した。

 知り合いです、とだけ言った。安藤は頷いたが、こちらをじっと見ていた。

値踏みではない。何かを探っている目だ。


「足を滑らせた、というのは本当ですか」

 榊原が口を開くより先に、聞いた。

 安藤の目が、少し揺れた。

「そうです」

「誰かに押されましたか」

 沈黙。


窓の外で、鳥が鳴いた。廊下を看護師が通り過ぎる足音がした。

「……見えましたか」

 安藤が、静かに言った。榊原が微かに息を呑む気配がした。

「何が見えたと思いますか」

 安藤が、固定された右腕の方に目を落とした。

「俊也が、いたんです」

 俊也。被害者の名前だ、


「階段の踊り場に立っていた。

振り返ったら、いて??驚いて、足を踏み外した」安藤の声が、少しかすれた。


「押されたわけじゃない。でも、あいつが原因なのは、間違いない」

 榊原が、椅子を引いて安藤の傍に座った。

「話してくれますか。最初から」

 安藤は少し俯いて、それから顔を上げた。

「俊也は、自分で落ちたんじゃないと思います」

 病室に、静寂が落ちた。


 安藤が、ゆっくり話し始めた。

 被害者の名前は、桐島俊也。四十二歳。地元の建設会社に勤めていた。

安藤とは小学校からの幼馴染で、三十年来の付き合いだ。

「二週間前に、連絡がきました。会いたいと。

あいつから連絡してくることは、めったになかったんで、少し驚いて」

「会いましたか」


「居酒屋で、一時間ほど。そのとき、?妙なことを言っていました」

 安藤が、窓の外に目を向けた。

「会社で、おかしなことが起きていると。


金の流れがおかしい、書類が差し替えられている、上の人間が何かを隠している、と」

「内部告発を考えていた?」

「そこまでは踏み切れないでいたみたいです。

でも、放ってもおけなくて、証拠になりそうなものを集めていたと言っていました」

 榊原が、手帳に書きながら聞いた。

「その後、連絡は」

「三日後に一度、メッセージが来ました。もう少しで揃う、と。それが最後です」


 安藤の声が、途切れた。

 揃う前に、死んだ。

「集めていた証拠は」


「わかりません。見つかっていないなら、誰かが持っていったか、隠したか」安藤がこちらを見た。

「あなたには、何か見えましたか」

 少し間を置いた。

「山で、二人分の気配がありました」


 安藤が、目を閉じた。長い息を、ゆっくり吐いた。

「そうか」と、小さく言った。「やっぱり、そうか」


病室を出たのは、一時間後だった。

 廊下を歩きながら、榊原が言った。

「建設会社の名前は、峰岸建設です。

地元では中堅どころですが、ここ数年で急に仕事が増えている」

「公共事業ですか」

「ほとんどが、そうです」


 エレベーターを待ちながら、榊原が続けた。

「入札の結果が、妙に綺麗なんです。競合他社が毎回惜しいところで負けている。

偶然にしては、できすぎている」


「癒着」

「疑っていましたが、証拠がなかった。桐島が集めていたものが、それだとすると??」

 エレベーターが開いた。二人で乗り込む。扉が閉まる。

「榊原さん」

「はい」

「安藤警部補は、また狙われるかもしれません」

 榊原が、正面を向いたまま頷いた。

「わかっています。手を打ちます」

「峰岸建設の上の人間を、絞れますか」

「時間をください。ただ」榊原が、こちらを見た。

「証拠がない。桐島が集めていたものが出てこない限り、動けない」

 一階に着いた。扉が開く。


 ロビーを歩きながら、考えた。桐島俊也が最後にいた場所。山道。

あの現場に、まだ何かが残っているかもしれない。あるいは、桐島自身が??

「もう一度、現場に行きます」


 榊原が、少し間を置いた。

「一人でですか」

「はい」

「……気をつけてください」

 自動ドアを抜けると、冷たい風が吹いた。

現場に着いたのは、昼過ぎだった。


 砂利道に軽自動車を止めて、一人で歩いた。黄色いテープはまだ残っている、

風で端がめくれて、ぱたぱたと鳴っている。

 昨日と同じ場所に立つ。崖の下を見る。高さは変わらない。

光の加減だけが違う。昨日は曇りだったが、今日は薄く日が差している。

 右手が、じわりと温かくなった。

 昨日より、濃い。

 目を閉じる。

 桐島俊也が見えた。夕方。急いでいる。手に何かを持っている。

スマホではない。もっと小さい。USBメモリか、あるいは??


 もう一人が来た。顔が見えない。でも、体格がわかる。

大きい。桐島より頭一つ分は大きい。


 言い争っている。桐島が後ずさる。崖に近づいているのに、気づいていない。

 手が、伸びた。

 ぶつり、と切れた。

 目を開けると、頭の奥に鈍い痛みがあった。

膝が、少し笑っていた。岩に手をついて、息を整えた。


 見えた。

 押された。事故ではない。

 そして、桐島が手に持っていたもの。小さくて、

四角くて??あの瞬間、どこに行ったのか。

 崖の下ではない。気がした。


 周囲を見回した。テープの内側、岩と岩の間、草が茂っているところ。


榊原たちが見落とした場所が、あるかもしれない。

 膝をついて、草をかき分け始めた。

 十分ほど探したところで、見つけた。

 岩の隙間に、落ち葉が積もっていた。

その下に、小さな巾着袋が挟まっていた。濡れていたが、形は残っている。

 右手が、強く熱くなった。


 間違いない。

 袋の口を開けると、中にSDカードが一枚入っていた。

スマホではなく、これを持っていたのか。

小さいから、隙間に落ちても気づかれなかった。

あるいは、咄嗟に隠したのかもしれない。


 桐島俊也が、最後にしたことかもしれなかった。

 榊原に電話した。


「現場で、SDカードが見つかりました」

 短い沈黙の後、榊原が言った。

「触りましたか」


「巾着袋ごと持っています。素手では触っていません」

「そのまま待っていてください。今から向かいます」

 電話を切って、その場に立ったまま待った。風が吹いて、テープがまたぱたぱたと鳴った。

 桐島俊也は、ここで死んだ。でも、これを残した。


誰かに見つけてもらおうとしたのか、それとも、ただ手放せなかったのか。

どちらでもいい、と思った。


 見つけた。それだけで、十分だ。

 遠くで、エンジン音がした。榊原のセダンが、砂利道を上がってくる音だった。


榊原が鑑識を一人連れてきた。

 巾着袋を証拠袋に収めて、写真を撮って、周囲を確認して。

手際よく作業が進む間、こちらは少し離れたところに立っていた。


 鑑識が車に戻ると、榊原が近づいてきた。

「よく見つけました」

「たまたまです」

「たまたまではないでしょう」

 否定しなかった。


「SDカードの中身が確認できれば、動けますか」

「内容次第ですが」榊原が、山の方を見た。

「桐島が言っていた通りのものが入っていれば、峰岸建設の上層部を任意で呼べます。


癒着の相手が県の発注担当者だとすれば、そちらにも当たれる」

「時間はかかりますか」

「解析は今日中に。ただ、動くまでには数日かかるかもしれない」

 数日。その間に、また誰かが動くかもしれない。安藤のように。

「榊原さん」

「はい」

「峰岸建設の、大柄な人間を調べてください。

桐島より頭一つ大きい。現場にいたのは、そういう体格の男です」


 榊原が、手帳を出した。

「他に、特徴は」

 目を閉じて、もう一度手繰り寄せた。残滓を探る。体格、立ち方、動き??

「右利きです。手が大きい。現場に慣れている動き方をしていました。


建設現場で働いている人間か、あるいは」

 ぶつり、と切れた。頭痛が戻ってきた。

「すみません。ここまでです」

 榊原が、手帳を閉じた。


「十分です」

 風が止んだ。山が、静かだった。

 桐島俊也が、少し遠くなった気がした。

 夕方、家に帰った。


 ヤマトが玄関で待っていた。昨日と同じ場所に、同じ顔で座っていた。

「ただいま」


 ヤマトが立って、台所に歩いていった。昨日と同じ動線だ。この猫の生活は、ぶれない。

 餌をやって、手を洗って、お湯を沸かした。今日こそ、お茶が飲める。

湯呑みに注いで、炬燵に入った。


 ヤマトが膝に乗ってきた。昨日より、少し早い。

 お茶を一口飲んだ。温かい。体の芯から、少しずつ戻ってくる感じがした。

今日見えたものを、整理した。押した手。大柄な男。右利き。現場慣れした動き。

峰岸建設の誰かだろう。榊原が絞ってくれるはずだ。


 SDカードの中身が鍵だ。桐島俊也が命と引き換えに残したものが、何かを動かす。

 スマホが震えた。

 榊原ではなかった。木下千恵からだった、 出た。


「夜分にすみません」院長の声が、少し緊張していた。「また、いたんです」

「桐島さんが」

「はい。今度は、診察室ではなくて。駐車場で、車に乗ろうとしたら??立っていました」

 少し間があった。

「今度は、笑っていました」

 ヤマトが、喉を鳴らした。

 桐島俊也が笑った。SDカードが見つかったことを、知っているのかもしれなかった。

「ありがとうございます。榊原に伝えます」

 電話を切った。

 炬燵の中で、ヤマトがぐるぐると鳴き続けていた。


二日後、榊原から連絡が来た。

 SDカードの中身は、桐島の言っていた通りだった。

入札前の予定価格、落札業者との事前調整の記録、県の担当者とのやり取りのメール。

数年分が、きれいに整理されていた。


「桐島は几帳面な男だったんですね」

 榊原の声に、珍しく感情があった。

「証拠として使えますか」

「十分です。今日の午後、峰岸建設の専務を任意で呼びます。

県の担当者にも同時に当たります」


「大柄な男は」

「専務の運転手です。元々は現場監督をやっていた。体格も、条件に合致します」

 やはり、そうか。


「安藤警部補には」

「今朝、話しました。入院中ですが、調書を取りました。

よく話してくれました」榊原が、少し間を置いた。


「桐島が連絡してきたとき、もっと早く動けばよかったと言っていました」


 それは、ずっと思い続けるだろう。どれだけ時間が経っても。

「榊原さん」

「はい」

「桐島さんは、ちゃんと届けましたよ」

 電話の向こうで、榊原が静かに息をついた。

「……そうですね」


 ヤマトが炬燵から出てきて、窓の外を見ていた。青空だった。

昨日までの曇りが、嘘のように晴れていた。

 その日の夕方、太田豊の喫茶店に寄った。

 店は相変わらず、客が少なかった。カウンターに三席、テーブルが二つ。

古い木の匂いと、コーヒーの匂いが混ざっている。落ち着く場所だ。

 カウンターに座ると、太田豊が黙ってコーヒーを出した。


聞かなくても、いつものを出す。五十八歳、この店のマスター。口数が少ない。それがいい。

 一口飲んだ。苦くて、少し酸味がある。体に染みた。

「疲れた顔してるね」

 太田が、グラスを拭きながら言った。

「少し、色々ありまして」

「そう」

 それだけだった。続きを聞かない。この店に来る理由の一つが、それだ。


 コーヒーを半分ほど飲んだところで、ドアが開いた。

 柊澪だった。

 大学のバッグを肩にかけて、マフラーを巻いたまま入ってきた。

カウンターでこちらを見つけて、目を丸くした。

「あ、いた」

「何か用ですか」

 柊が隣に座った。太田がメニューを出すより先に、「ホットチョコレート」と言った。

常連らしい注文の仕方だ。


「榊原警部から聞きました。SDカード、見つけたんですって」

「なぜ知っているんですか」

「警部が話してくれました。私、ちょっとお手伝いしてたので」

 こちらの知らないところで、この大学生は動いていたらしい。

「合気道四段が、何を手伝ったんですか」


 柊が、ホットチョコレートを受け取りながら笑った。

「それはまあ、色々と」

 太田が、かすかに口の端を上げた。


 柊澪は、カップを両手で包みながら言った。

「現場の近くに、おばあさんが住んでるんです。

猟師の旦那さんと二人で。その旦那さんが、目撃者の老人で」

「知っています」

「警部から話を聞いて、私もお話を伺いに行ったんです。おばあさんの方に」


 太田がカウンターを拭いている。聞いているのか聞いていないのか、わからない顔だ。

「おばあさん、旦那さんが証言してから、怖い思いをしていたみたいで。

夜中に車がゆっくり通ったり、電話が鳴って切れたり」

「脅しですか」

「たぶん。だから旦那さん、証言を取り消そうとしていたんです。警部が困っていて」

なるほど。榊原が動きにくい理由が、そこにもあったわけだ。


「それで、柊さんが」

「三日間、泊まりました。おばあさんの家に」柊がチョコレートを一口飲んだ。

「合気道四段なので、何かあっても大丈夫かと思って」

二十一歳の大学生が、山あいの家に三日間。

「危なかったですね」


「二日目の夜、また車が来ました」柊が、さらりと言った。

「外に出たら、すぐ行っちゃいましたけど」

 太田が、グラスを置いた。

「無茶するね」


 珍しく、マスターが口を挟んだ。柊は笑った。

「でも、旦那さんは証言を取り消しませんでした。それでよかったと思って」

 コーヒーの残りを飲んだ。


 この大学生は、心霊好きで合気道四段で、なかなか無茶をする。

「ありがとうございました」

 柊が、少し驚いた顔をした。それから、照れたように笑った。

「どういたしまして」

喫茶店を出たのは、七時過ぎだった。


 外は暗くなっていた。街灯の下に、細かい雨が降り始めていた。

 駐車場に向かいながら、スマホを見た。榊原からメッセージが入っていた。


 専務、自供しました。

 それだけだった。短い文章だったが、十分だった。

 車に乗り込んで、雨のフロントガラスを見た。

ワイパーを動かすと、視界が開く。また曇る。また開く。


 桐島俊也が、笑っていた。木下院長がそう言っていた。

 届いたんだろう、と思った。


 国道に出て、家に向かった。雨の中を、軽自動車がゆっくり走った。

信号が赤になった。止まる。

 隣の車線に、大型のセダンが並んだ。窓ガラスに、雨粒が流れていく。

 ふと、助手席を見た。

 誰もいない。当たり前だ。ヤマトは家にいる。

 でも、今夜は帰ったら炬燵でお茶を飲もう。ヤマトが膝に乗ってきたら、


今日は降ろさないでおこう。少し太っても、それはそれでいい。

木下院長には怒られるかもしれないが。

 青になった。


 アクセルを踏んだ。

 雨の中を、家へ向かった。

 それだけのことが、悪くないと思った。


































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