第一章 帳簿のゴースト
小章① 湾岸の不協和音
八月の猛暑日。 東京湾岸エリア、大井埠頭。 コンクリートの照り返しと、大型トレーラーが吐き出す排気ガスで、空気は白く歪んで見えた。 巨大な物流倉庫が建ち並ぶこの一角は、日本の物流の心臓部であり、同時に「人間」が「部品」として消費される最前線でもあった。
真壁 剛は、汗で張り付くワイシャツの襟を指で広げながら、倉庫の通用口に立った。 四十二歳。湾岸労働基準監察署の第一方面主任監察官。 身長一八五センチの巨躯に、無骨な角刈り。鋭い眼光は、公務員というよりは現場の職人か、あるいは刑事に近い。事実、彼は三十代まで警視庁の組織犯罪対策部にいた元マル暴刑事だ。 手には、黒革の鞄と、「臨検(立ち入り調査)」の腕章が握られている。
「……ここか。『東都ロジスティクス』」
真壁は看板を見上げ、インターホンを押した。 今回の調査対象は、この倉庫会社ではない。ここに大量の人員を送り込んでいる下請けの人材派遣会社、『ニブス・スタッフィング』だ。 「賃金不払い」「長時間労働」のタレコミがあったわけではない。 もっと奇妙な、「労災隠し」の疑いだった。
通用口から、作業服を着た倉庫長が現れた。 真壁が警察手帳のような「労働基準監察官証」を提示すると、倉庫長はあからさまに嫌な顔をした。
「またですか? うちはちゃんとやってますよ。残業代もしっかり払ってる」
「今日は御社の調査ではありません。構内で作業している派遣スタッフの状況確認です。『ニブス・スタッフィング』の責任者を呼んでください」
真壁の威圧感に押され、倉庫長は渋々無線で連絡を取った。 数分後、若い男が小走りでやってきた。 細身のスーツに、茶髪のツーブロック。派遣会社の現場担当者だ。名刺には『ニブス・スタッフィング エリアマネージャー 柿崎』とある。
「お世話になりますぅ。労監署の方が何のご用でしょうか?」
柿崎はへらへらと笑いながら名刺を出した。その目は笑っていない。場慣れしている。
「単刀直入に聞く。先週の金曜日、この倉庫内でフォークリフトの接触事故があったな? 作業員が足を骨折したという情報がある」
「えっ? いやあ、聞いてませんねえ。軽微なヒヤリハットはありましたけど、骨折なんて大げさな」
「救急車の出動記録がある。搬送されたのは、御社のスタッフだ」
真壁が畳み掛けると、柿崎の視線が一瞬泳いだ。
「ああ、あれですか。あれは本人が勝手に転んだだけですよ。業務上の事故じゃありません。プライベートな怪我です」
「作業時間中に、作業着を着て、倉庫の中で転んでプライベート? ふざけたことを言うな」
真壁は声を荒げた。
「労災隠しは犯罪だ。労働安全衛生法違反で送検するぞ」
「勘弁してくださいよぉ。……分かりました。確認して、後で報告書出しますから」
柿崎は舌打ちしそうな顔で言った。 真壁は、この男の態度に違和感を覚えた。単なる労災隠しにしては、妙に落ち着いている。まるで「もっと別のこと」を探られるのを警戒しているような。
「ついでだ。出勤簿と賃金台帳を見せろ。今ここでだ」
「えっ、今は持ち合わせてなくて……」
「事務所はそこにあるだろう。案内しろ」
真壁は強引にプレハブの詰め所に入り込んだ。 中には、数人の外国人労働者が休憩していた。ベトナム人やネパール人だろうか。彼らは真壁の姿を見ると、怯えたように視線を伏せた。
机の上に、タブレット端末が置かれていた。出勤管理用だ。 真壁は画面を覗き込んだ。 本日の出勤者リスト。 『佐藤 健』『鈴木 一郎』『田中 大輔』……。 ずらりと並ぶ、日本人の名前。総勢五十名。
真壁は顔を上げ、倉庫の中を見渡した。 働いているのは、どう見ても外国人ばかりだ。日本人の姿など、ほとんど見当たらない。
「……おい、柿崎」
真壁は低い声で言った。
「この『佐藤』や『鈴木』はどこにいる? まさか、全員が整形で顔を変えたわけじゃあるまいな」
柿崎の額から、脂汗が流れた。
「そ、それは……彼らは別のフロアで……」
「嘘をつけ。こいつらは『幽霊』だ。実体のない架空の社員だ」
真壁は確信した。 労災隠しなど、入り口に過ぎない。 この会社は、もっと巨大で、悪質なシステムを回している。
小章② 存在しない男たち
署に戻った真壁は、ニブス・スタッフィングの提出書類を徹底的に洗った。 この会社は、ここ三年で急成長している。売上高は五十億円。登録スタッフ数は三千人。 社長は、氷堂 怜二。三十五歳。元ITベンチャーの経営者で、メディアでは「人材業界の風雲児」ともてはやされている。
真壁が注目したのは、彼らが国に申請している『助成金』の額だった。 『雇用調整助成金』。 景気変動で事業を縮小した企業が、従業員を解雇せずに休業させた場合、その休業手当の一部を国が助成する制度だ。 ニブス社は、毎月数千万円単位の助成金を受け取っていた。 申請理由は「受注減少による一時帰休」。 対象となっているのは、あの倉庫の出勤簿に載っていた『佐藤』や『鈴木』たちだ。
「……なるほどな」
真壁はデスクで呟いた。 カラクリが見えた。 ニブス社は、架空の日本人労働者を大量に雇っているように見せかけ、彼らを「休業中」ということにしている。そして、国から休業補償(助成金)を騙し取っているのだ。 一方で、実際の現場には、帳簿に載らない外国人労働者を送り込んでいる。 彼らは不法就労、あるいは技能実習生の失踪者だろう。最低賃金以下の劣悪な条件で働かせ、社会保険にも入れず、給与は手渡し。 表では国の金を吸い上げ、裏では弱者から搾取する。 二重の犯罪構造だ。
「先輩、その住所、行ってきましたよ」
部下の女性監察官、篠原が戻ってきた。 彼女には、帳簿上の「佐藤健」や「鈴木一郎」の住所確認に行かせていた。
「どうだった?」
「予想通りです。空き地、コインパーキング、あるいは取り壊されたアパートの跡地でした。誰も住んでいません」
篠原は怒りを露わにして報告した。
「酷いですね。架空の人間で金儲けなんて」
「ああ。だが、これだけ大規模にやるには、戸籍やマイナンバーの偽造が必要だ。単なる派遣屋の知恵じゃない。バックに『専門家』がいる」
真壁は、元刑事の勘を働かせた。 戸籍売買、身分証偽造。それは暴力団のシノギだ。 ニブス・スタッフィングは、反社会的勢力のフロント企業(企業舎弟)である可能性が高い。
「篠原、お前は助成金詐欺の線で証拠を固めろ。首都圏労働管理局の需給調整事業部とも連携しろ」
「了解です。先輩は?」
「俺は『現場』を洗う。……消えた外国人たちの行方だ」
真壁は立ち上がった。 労災隠しの件で救急搬送された外国人は、病院から姿を消していた。治療費も払わず、誰かに連れ去られたという。 怪我をして働けなくなった「部品」は、どう処分されるのか。 そして、彼らはどこで寝起きしているのか。 帳簿には載らない、闇の寮(タコ部屋)があるはずだ。




