間に合わない朝
「――あと二分で発車します」
構内アナウンスが、やけに遠く聞こえた。
相馬恒一は、改札を抜けながらスマートフォンを確認する。
画面には、短いやり取りが残っていた。
『あと10分くらいで着きます』
『了解』
「……10分もねぇだろ」
自分に悪態をつきながら、相馬は走った。
スーツの裾が乱れ、息が上がる。
ガラス張りの壁に映った自分の顔は、ひどく焦っていて、情けない。
ビル街の一角。
観光バスが一台、ハザードを点けて停まっているのが見えた。
「あった……!」
最後の力を振り絞って駆け寄ると、バスの前で若い添乗員が周囲を見回していた。
「すみません! 宇津木……じゃなくて、相馬です!」
「おはようございます! お待ちしていました」
助かった、と思った瞬間だった。
「……遅い」
低い声が、バスの中から飛んでくる。
相馬が乗り込むと、後方の座席で眼鏡の男が腕を組んでいた。
白衣こそ着ていないが、姿勢や目つきが医師そのものだ。
「待ってやれって言ったろ」
「言ったのは君だ。決めたのは運転手だ」
鷹宮恒一郎。
救急医で、相馬の数少ない理解者――そして、遠慮のない相棒。
「相変わらずギリギリだね」
「仕方ねぇだろ。乗り遅れたら全部台無しだ」
相馬は空いている隣の席に腰を落とし、大きく息を吐いた。
「それにしても……」
鷹宮は相馬の顔を一瞥する。
「休みなのに、きっちり髪整えてくる警察官ってどうなんだ」
「うるせぇ。お前こそ休みでも眼鏡外さないのな」
「外すと世界がぼやける」
軽口を叩き合いながらも、二人の間には奇妙な安心感があった。
何度も修羅場を越えてきた者同士の、言葉にしない信頼。
バスがゆっくりと走り出す。
目的地は、山間にある小さな町――月杜町。
「狐の伝説、残ってるらしいな」
相馬がパンフレットをめくりながら言った。
「ばけぎつね、だろ。人に化けるってやつ」
「医者がそんなの信じるか?」
「信じない。だが、信じた方が説明がつく症例もある」
鷹宮は、そう言って小さく息を吐いた。
「……嫌な言い方するなよ」
「現実は、いつも嫌な形で裏切る」
相馬は苦笑し、窓の外へ視線を向けた。
山が近づくにつれ、空気が変わっていく。
ビル街のざわめきが消え、代わりに重たい静けさが漂い始めた。
そのときだった。
森の縁。
一瞬だけ、バスの進行方向を横切る影が見えた。
「……今の、見たか?」
相馬が言う。
「何かいた?」
鷹宮が問い返す。
相馬は答えなかった。
答えられなかった。
黒い影。
そして――金色の、目。
「……いや、気のせいだ」
そう言いながらも、胸の奥に引っかかるものが残っていた。
この旅は、ただの休暇では終わらない。
理由は分からない。
だが、相馬の勘が、そう告げていた。
バスは、そのまま月杜町へ向かって走り続けていた。




