第1話:ヴァルトレオンの魔女
霧の濃い夜だった。
古びた屋敷の奥で、魔女は静かに本を閉じる。蝋燭の炎が揺れるたび、壁に描かれた魔法陣が淡く脈動し、まるで呼吸するかのように部屋を染めていた。
黒衣の執事が音もなく近づき、銀の盆に茶器を載せて差し出す。冷たい瞳に感情はなく、影のようにただ主人の傍らに仕えている。
一方で、白衣の執事は微笑みを浮かべ、同じ所作ながら柔らかな気配を纏っていた。彼が注ぐだけで茶は香り立ち、部屋の空気すら和らぐようだった。
その静寂を破るように、屋敷の扉を叩く音が響いた。
「……お客様かしら」
魔女が呟くと、黒の執事が片目を抑える。
カラスの瞳が扉の外の人間を映し、閉じた瞳が見えるはずのないカラスの景色を眺めている。
「いえ、依頼人のようです。」
「ふむ……ナザレ」
呼ばれた白の執事の肩から、フクロウが静かに羽ばたいた。黄金の瞳が夜の霧を透かし、訪問者を見定める。
「異国の男ですね。怯えていますが……必死な様子です」
魔女は薄く笑んだ。
「ならば通してあげて」
黒の執事が丁寧な足取りで玄関に向かい、扉を開ける。
「お待たせいたしました」
そこに立っていたのは、ベージュのコートを羽織った中年の男。刑事を思わせる鋭い眼差しと、上質なスーツの皺が疲労を物語っていた。
暗い廊下を進む途中、男は不気味な静けさに肩を竦める。蝋燭の光はあまりに心許なく、廊下の奥に潜む影は月明かりですら払えなかった。
やがて大扉の前にたどり着く。黒の執事が三度ノックすると、中から艶やかな声が返る。
「入りなさい」
扉を開けた瞬間、眩い光に目を細めた。そこは廊下とは一変し、豪奢なシャンデリアが輝く部屋だった。
白の執事が優雅に椅子を示し、微笑んだ。
「どうぞ、お掛けください」
男が腰を下ろすと、魔女は唇に妖しい笑みを浮かべた。
「魔女に縋るなんて、よほどの事情があるのでしょう?」
刑事は深く息を吐き、鞄から数枚の写真を取り出した。
「私の名はモリス・フランクリン。カントーレ公国の警官です。いきなりですが、魔女様に依頼したいのは、この事件でございます」
写真に写っていたのは、三人の女性の死体。どれも眠っているように穏やかな顔だが、肌は不気味な灰色に変色していた。
「被害者の体内の血のほとんどが……水銀に変わっていたのです」
「水銀?」
魔女は顎に手を添える。
「錬金術の基本物質ね。血と入れ替えるなど、普通の毒殺ではあり得ない」
黒の執事が冷ややかに言葉を継ぐ。
「魔術的干渉の可能性が高いでしょう。少なくとも自然死ではない」
白の執事は写真を見つめ、静かに囁いた。
「しかし……これは人を殺すためというより、何かを“儀式”のように感じますね」
魔女は目を細め、窓辺にいたフクロウを呼んだ。
フクロウは羽ばたき、彼女の肩に降り立つと低く鳴いた。
「魔力の残滓を感じますが……濁っています。完全な魔女の仕業とは断定できません」
「そう。けれど魔法を知る何者かが関わっているのは確かね」
魔女は写真をテーブルに置き、刑事を見据えた。
「その依頼、承諾するわ」
「ありがとうございます……高名なるヴァルトレオンの魔女様」
深々と頭を下げる刑事。その背後で、魔女の黒い瞳は夜より深く光った。
やがて蝋燭の火がふっと揺らぎ、魔女の姿は煙のように掻き消えた。
残されたのは、机に舞い落ちた白い羽一枚。
刑事は思わずそれを握り締める。羽の冷たさが、胸に不吉な予感を刻み込んだ。