鬼の棲む石2
夕暮れ時、奇童丸と姫は社のある岩山へ向かっていた。
木々の葉が風にそよぎ、影が谷間に長く伸びている。
小川のせせらぎが微かに響き、湿った土の匂いが鼻をかすめる。
「おお、奇童丸。あの池の石、ほんまに浮いとるんか?」
姫は目を輝かせ、指で池を指し示す。
「そう見えるだけです。水流と石の形のせいでしょう」
奇童丸は慎重に足を止め、石の周囲を観察する。
池の水面には夕日が反射し、微かな波紋が広がっていた。
倒木や小石の影が水底で揺れ、深さを測りかねるほどだ。
姫は石の周囲を歩き回り、声をあげる。
「すごい!ほんまに浮いとるみたいじゃ!奇妙じゃ!面白いのじゃ!」
「はしゃぎすぎると池に落ちますよ」
奇童丸は手で姫の動きを制しつつ、目は水面に釘付けだ。
「何をしておるのじゃ。そんな落ち着いて見ておって、面白くないぞ」
姫はふくれっ面で言った。
「私は初めてではありません。昔を思い出していただけです」
奇童丸の目は、石の微細な亀裂や水の波紋を追っている。
苔が張り付き、表面の凹凸が月光に淡く照らされていた。
「ふむ、石そのものに鬼がおるわけではないのじゃな?」
姫が首をかしげる。
「そうです。自然の現象です。池の深さ、水流、石の形――全て計算できます」
姫は手を水面に伸ばし、波紋を指先で追う。
「ほう…なら、この浮き石、村人が怖がることもないわけか」
「恐れる必要はありません。しかし、子供たちが消えた原因は別にあるようです」
姫は両手を膝に置き、静かに考え込む。
「鬼がおらぬのはわかった。でも、子供はどこへ行ったんじゃ?」
奇童丸は池の縁に座り込み、足元の小道や空洞を観察する。
足跡や石の配置、草の踏み方――すべてが人為的な痕跡を示していた。
「足跡や石の配置からすると、人為的な痕跡がある。鬼ではなく、人間が関わっている可能性が高いです」
「人間…とな?」
姫は少し顔を強ばらせる。
「村の誰か、あるいは外部の者。石の周囲には、子供たちが通った可能性を示す痕跡があります」
姫は一歩下がり、池を見つめながら腕を組む。
「ふむ…奇童丸、わらわも手伝おうぞ。子供を見つけるのじゃ」
奇童丸は頷き、姫の手を軽く取った。
「村へ戻り、目撃情報を集めることから始めましょう」
二人は池の周囲を一周しながら、苔むした石や木の根を観察する。
池の奥には小さな流れ込みがあり、岩の割れ目から水が滴り落ちていた。
その音は微かな鐘のように響き、静寂の中で小さく反響する。
姫はそっと指先を水面に浸し、滴の感触を確かめる。
「ほほう…奇童丸、この水の流れも不自然ではないのか?」
「自然の水流です。雨水や地下水の通り道が、池を形成しているのでしょう」
姫は顔をしかめながらも納得した様子だった。
「なら鬼はおらん。…だが、子供はどこへ…」
奇童丸は池を見つめ、深く息をついた。
水面に映る浮き石の影は揺れ、波紋が広がる。
「この石はただそこにあるだけ。すべてを見守っているかのようです」
姫は小さく頷き、目を伏せる。
「鬼がおらぬとわかっても、この石はやはり不思議じゃな…」
奇童丸は微笑み、姫の肩にそっと触れる。
「不思議なのは自然の力だけです。村人の恐れは、想像力の産物に過ぎません」
二人は暗くなりかけた山道を慎重に下り、村へ向かう準備を進める。
「奇童丸、子供は無事であってほしいのじゃ…」
姫の声に、奇童丸は静かに頷く。
「必ず見つけます。村人の証言を集めれば、手掛かりがあるはずです」
山道には木の香りが漂い、落ち葉が足元でかさりと音を立てる。
遠くの川のせせらぎが、月明かりに反射してきらめく。
背後で浮き石の池は、静かに波紋を広げている。
奇童丸の心に決意が宿る。
「鬼は居ない。しかし、真の何者かは必ず突き止める」
姫は手を握り返し、小さく頷いた。
「うむ、奇童丸。われもお主と共に進むぞ」
二人の影が山道に伸び、月光の下、静かに村への帰路を歩んでいった。
池の水面は淡く揺れ、浮き石は威容を保ったまま、静かに見守るように鎮座している。
奇童丸はその姿を最後に見返し、心の中で村人たちの証言をどう整理するかを思案する。
「石は何も語らぬ。ただ私たちが見抜くのみ」
姫は小声でつぶやく。
「奇童丸、わらわも学ばんといかんのう」
月明かりの下、二人は決意を胸に、静かに山道を進んだ。